かぼちゃのほうとう(わたしの戦争体験記 79)

「うまいものはかぼちゃのほうとう」は母の口ぐせだったが、そのわりに我が家は「おほうとう」は食べてなかった。母自身が若い時に食べ過ぎてもう食べたくなかったのかも。
昨夜ふと、今年はおほうとうを食べてへんなあと言い出したら「かぼちゃがあるし、明日してやる」との返事。「豚肉も入れてかぼちゃだけでなく野菜たっぷりのうどんにしてやる」そうで、今夜これからつくるので楽しみだ。

昔は山梨県ではみんな「おほうとう」を食べていたようで、山梨県出身のパンクミュージシャンと話していて笑ったことがあった。もうだいぶん昔の話で、わたしよりは10年くらい若いとしてもいいお年になっているだろう。話したときだって「いまはおほうとうといっても若者に通じないよ」といってた。

そういえば、東京の友達が「おほうとうセット」をおみやげに買ってきてくれたことがあった。太い半生のうどんで出汁のパックも入っていてけっこう高価そうだったが、うちで普通に作るうどんのほうがうまいと思った。

わたしは太平洋戦争というと「疎開」と「おほうとう」と「吸血虫 ブユ」を思い出す。「空腹」とともにきれいな「湧水」と「桑の実」も。いまは湧水を手ですくって飲むなんてしないだろうし、桑の実だって洗ってから食べるだろう。桑の木が道端で伸びている風景ももうないだろう。

大阪大空襲から75年

1945年の大阪大空襲から75年経つのか。さっき妹から電話があって大空襲のことを知りたくて本を買ったという。小山仁示さんの『大阪大空襲』と聞いて「小山さんご夫婦知ってるがな、昔は奥さんとよく遊んでた」と大声が出た。妹はびっくり。

妹は大阪生まれだけど大阪大空襲を知らない。二番目の姉に背負われて爆撃の中を逃げ惑っていたのも覚えていない。それでも毎年3月になると思い出して電話してくる。今年は本を買ったとうれしそう。本の著者を聞いたら小山仁示さんというので、「ご夫婦とも亡くなったけど友達やったよ」といったらびっくりしていた。若いとき奥さんの節子さんにお世話になった。わたしがボーッとしているとあれこれ世話をやいてくれた。まあ子分のようなものでお二人の結婚式では来客受付をした。でもいつのまにか別々の方向に進んで、お会いすることもなくなった。
節子さんはお子さんを残して早く亡くなられたが、わたしはそのことを知らず、小山さんの講演会で声をかけて何時間か話したときに伝えてくださった。

そのとき以来、小山さんにお会いしていなかったが、新聞で訃報を読んで、わたしの時代の人が減っていくのを実感してさびしくなった。あの講演会のあとのコーヒーが最後だった。

関西弁と関東なまり(わたしの戦争体験記 78)

わたしは東京都品川区で1934年に生まれた。5歳で大阪新町に移転したときは近所の子たちに東京弁をからかわれ、必死で大阪弁をしゃべるように努力した。国民学校(小学校)に行く頃は大阪の子として大阪弁を使うようになっていたが、家では父親が東京弁を使い、母親は東京弁と山梨弁を交えた大阪弁を使っていた。姉兄たちは外では大阪弁、家では東京弁も交えて使っていた。
わたしは国語の時間に教科書を読むとき関東なまりで読むので、先生にうまい朗読とほめられるわ、みんなに感心されるわで得意になっていた。

山梨県へ疎開したときは、最初に大阪弁を笑われてから気を付けて東京弁を使うようにしたので違和感が少なかった。それも山梨弁よりも正しい標準語という感じで読むので国語の時間はクラスの華だった。6年生になると講堂で本の朗読をさせられたりした。でも勉強のできる子たちのほうが結局は勝ちで、勉強のできない子たちに慰められたりした。

6年生の夏に大阪にもどると国語の時間は先生に指名されて朗読することが多かった。クラスで勉強のできる子たちのグループがあった。わたしはできない子たちとの付き合いが多かったが、少しファンがついて投票などあるとけっこう人気があった。

わりと最近のことだが、初対面の人に「スギヤさんは関東出身?」と聞かれた。大阪弁でしゃべっていてもどこかに関東なまりが出るらしい。107歳で亡くなった父は死ぬまで東京弁だった。施設に入ったとき同室の人たちに影口をたたかれていたけど、気にせずに東京弁をとおしていた。

新型肺炎

さっきネットニュースでいってたが、新型コロナウイルスへの対処は簡単で、1 お日さんをよく浴びる、2 栄養をきっちり摂る、3 よく眠る、の3つを実践したらよいとのこと。コロナウィルス対策だけでなく生活の基本だよね。
そしてマスク。在庫を調べたらあまりないのがわかり、ちょっとまとめて買ってきた。これで一安心。そして、外出から帰ると手洗いを忘れないこと。

昔、小学校にあがる前にジフテリアで入院した。わが家から次兄、わたし、弟の3人が隔離病棟へ運ばれ入院した。1ヶ月後に兄とわたしが助かって退院し、弟は死んだ。白衣に囲まれて病室に運ばれたこと、隣のベッドの同じ年齢の少女が苦しくて暴れ、ベッドに紐で固定されたことを思い出す。彼女はその夜に暴れた末に死んだ。

退院のときは持っていった本やおもちゃなどすべてを没収された。返してもらったものも消毒薬で真っ白で、結局病院に置いて帰った。
伝染病や隔離病棟のニュースを聞くと、就学前にジフテリアで長期入院したことを思い出す。

エースのジョーにしびれた60年安保のころ

今日1月21日に宍戸錠さんが亡くなられた。小林旭さんの奥様が亡くなられたばかりだしとてもさびしい。

出演映画の一覧表を見ていたら『銀座旋風児』のシリーズ名がたくさんあった。懐かしい。エースのジョーを初めて見たのはどの「旋風児」だったかな。すっごくおもしろく見たのを思い出す。あまりにもアホらしくて同行のSちゃんは「帰る」と腰を上げた。その手を引っ張って「もうちょっと」と座らせ、わたしはジョーを満喫した。「くみちゃんてもうちょっとインテリかと思ってた」といわれながら(笑)。
小林旭がスクリーンに派手に出てくるとジョーは敵役や相手役で出てきて、ふくらんだほっぺたがその場を支配した。わたしはジョーの笑顔が大好きだった。

そのころ、わたしは阪神電車の千船駅近くの小さな会社で事務員として働いており、仕事が終わると梅田へ出てコーラスや学習会や講演会や映画に行き、友達と会ってしゃべり、お好み焼きを食べ、カクテルを飲みにバーへいった。
60年安保の時期が近づき安保反対のデモがしばしばあった。わたしは労働組合に所属してなかったけど、友達の会社の労組のデモに参加させてもらってデモった。個人でデモに参加するのは困難な時代だった。「デモる青春、ジャズる青春」の言葉通りデモとジャズに明け暮れジョーのほっぺたに惚れて、アキラの笑顔に魅せられていた。

Sちゃんの父上が日活の株を持っていて入場券が届くとくれたので、梅田日活へしょっちゅう行っていた。帰りはすぐそばのお好み焼き屋でお好み焼きと焼きそばを食べた。お好み焼きにマヨネーズをつける食べ方のはしりだったと思う。そのあとカクテルバーに行って、お気に入りのバーテンダーのいるテーブルでカクテルをたのんだ。新作の「白雪」なんて名のカクテルがあったっけ(笑)。

村上春樹『海辺のカフカ』を読書中(わたしの戦争体験記 78)

一度だあっと最後まで読んでいま再読中。一度目で見逃してしまったところが二度目でわかってよかった。
物語の中といっても最初のほうだが、主人公の田村カフカくんが出てこない章がある。もう一人の主人公ナカタサトルさんの子供時代の受難の物語である。ナカタさんは東京都から山梨県に集団疎開した5人のうちの一人である。物語の中のナカタさんは老人になっていて、社会保障のお金で生活していて、猫と話ができたり、東京都中野区の空からイワシやアジ、そして違う場所ではヒルを降らせる。

わたしはナカタさんと同じ時期に大阪市から縁故疎開で山梨県に疎開した。そして『海辺のカフカ』に描かれる事件の起きたときは山梨県にいた。
敗色濃い時期の国民学校5年生1学期のとき、体操の時間に女の先生が「女子は来週の体操時間は山に入って訓練しよう。アメリカ兵がおそってきたらナギナタでやっつける、貞操を守る訓練」といった。恐ろしい気持ちでいたらすぐに来週がやってきて体育の時間はいつもの体操だった。あんなにやれやれと思ったことはない。もしかして山に入ってなにごとか起こったらどうだったろう。女先生はナカタくんの先生のようなことになっていたかもといま思うのである。

前にも書いたが「コーシンチクチクノミが刺す お腹の周りを旋回中なり」という歌が流行った。コーシンは甲州と信州の略である。お腹の周りをノミがちくちくするくらいにコーシン地区にはアメリカの飛行機が飛んでいたということかと、いまになって思う。

太平洋戦争開戦日(わたしの戦争体験記 77)

前に書いていて重複するかもしれないが、いまの記憶で書く。
今日12月8日は「太平洋戦争開戦日」だ。 1941年(昭和16年)だから78年前のことである。1941年12月8日、日本はアメリカの太平洋艦隊の根拠地・ハワイの真珠湾を急襲、アメリカ・イギリスに宣戦布告をし、太平洋戦争がはじまった。

我が家はいつものように父母が7人の子供たちに朝食を食べさせ職場と学校に行かせた。わたしは一年生としてランドセルを背負って西六国民学校へ行った。学校ではいつものとおりだったと思う。まだ戦時色はなかったような気がする。
お昼前の4時間目前の教室へ父親がやってきて先生になにか話している。よろしいと返事があって父が呼んだので、わたしはついていって阪急電車に乗り、父の働く会社についた。
その日は年末近いのにも関わらず会社の祝いの会だったようで、舞台のついた広い食堂ではお弁当が出て社員たちが和んでいた。舞台には漫才や落語や流行歌の芸人が芸を披露して午後遅くまで賑やかだった。いま思うと会社の戦時特需だったのかも。
父の姉が紹介してくれた会社で東京から移転してきた父と姉2人が働いていた。戦時の特需というか鉄工の仕事は忙しかったのだろう。長女は経理課、次女はタイピストとして働いていた。

夕方にお開きになり、父と二人で帰ったのだが、阪急電車が梅田に着くと駅構内がものものしい雰囲気だ。いつも空いているシャッターが閉められ薄暗い。号外が出たのか夕刊か床に新聞紙がばらまかれている。ちょっと違和感を感じる風景だ。
駅ビルの外はすっかり夜で真っ暗だ。新町の家に帰るのに市電に乗ると、乗客たちが殺気立っている。父はこどもを連れているんだ、ちょっと奥へ入れてくれと叫んでいる。ようよう奥へ入れて家に帰れた。
「戦争だ、大変だぞ」と拾ってきた新聞紙を広げて父がいう。ハリウッド映画とジャズとミステリをこよなく愛している父にとって大変な時代がはじまった。わたしにはまだなにもわからなかった。疎開もB29空襲もまだまだ先の話である。

人生が始まったときに疎開があり、つぎにアメリカ軍の空襲で生活基盤を根こそぎ失った。それでもわたしは開戦から78年生き延びていま85歳である。そうだよ、どっこい、おいらは生きている。

吸血虫 ブユ(わたしの戦争体験記 76)

ブユまたはブヨに噛まれて大変だった話は早めに書いたような気がするが、山梨県で過ごした最初の夏に足と腕を掻きまくり、死ぬような思いをしたことをしっかり書いておかねば。

ブユは知らぬ間に忍び寄り血を吸っていく。腕や足のすねに小さな黒い点があるとそれはブユ。素早く叩くと噛まれたあとでも爽快だ。赤い血を残してつぶれたブユを見ると笑みが浮かぶ。つぶれたブユを見ているとその隙に次のブユが噛んでいたりするが。
わたしは毎日毎日腕と足のすねを掻きまくって血だらけだった。メンソレータムを塗りまくって、出血が止まらないと包帯を巻いた。庭の木の枝にはわたしの血を洗った包帯が風に揺れていた。いまでも包帯を巻くのはうまい、バンドエイドには負けるが(笑)。

学校に行くと病人は体操を休めたので、病身のAさんと二人でいつも見学だった。意地悪な子はくみこさんは仮病だとわたしに聞こえるようにいっていたが、なんのその、体操は休んだ。おかげで6年生になっても鉄棒と跳び箱は最低のままだった。逃げ足が速いから走るのは得意だったけど。

長じて登山に目覚め槍ヶ岳に登ったこともあったが、日常的には六甲山に登っていた。単独行と称して一人で登ることが多かった。関西の山ではブユはあまり出会わないが、たまには噛まれることがある。長袖シャツ、長スボンで山登りしていても顔を噛まれることがあるし、シャツの隙間から忍び寄って噛んでいくことがある。

ブユの一番好きな時間の夕方に道を歩くときは、鈴の音を響かせながら歩いたらいいと祖母が教えてくれたのをいま思い出した。

休息村の記憶(わたしの戦争体験記 75)

戦時中のことを考えていたら突然「休息村」を思い出した。なんか芋畑の芋づるのように記憶がずるずる出てくるのがおかしい。
山梨県に疎開したときに隣村に住む遠縁のおばあちゃんが、ある日疎開先の家にやってきた。母親が来ていると聞いて会いにきたのだ。母とは親しげでイトコかハトコといった間柄のようだった。母は「休息村のおばあちゃん」と教えてくれた。「休息」という変わった地名は、昔、日蓮聖人が歩き疲れてどっこいしょと休息村の道端の石に腰掛けて休息したからだという。わたしはおもしろく受け止めて、それから休息村という言葉を忘れていない。いまは他の村と合併して東雲村となり休息村は廃止されている。なんか残念。

わたしがいた後屋敷村(ごやしきむら)とは橋ひとつ渡ったところの村で山道が多くて歩きづらかった。川もけっこう深かった。でも、ここで日蓮さんが一休みしはったんかと思うと登り道がつらくなくなった。それに座りはった石というのに座るのがなにか楽しかった。ほんまかいなと思いつつ。

※ウィキペディアには【休息村(きゅうそくむら)は山梨県東山梨郡にあった村。現在の甲州市勝沼町休息にあたる。】と書いてある。

戦争が終わっても(わたしの戦争体験記 73)

1945年(昭和20年)8月に戦争が終わった。夏休み前には勇ましいことをいっていた先生が、少してれくさそうに手のひらを返して2学期の授業を始めた。1学期から使っている教科書を墨で塗りつぶしたり破ったりを先生に言われるとおりにして、残ったところが教科書だった。勅語と国歌から解放された。

疎開児童は住むところがある子からもどっていった。まず家が焼けなかった子が姿を消した。焼け出された子は疎開した家に引き取られて田舎の子になる子もいた。私は帰る組だが、大阪大空襲で家が焼かれいるから、大阪に帰っても住むところがないじゃんと田舎に腰を据えた母と弟妹と4人で納屋暮らしを続けた。
この暮らしは戦争中よりもきつかった。田舎の人から同情されることもなくなった。大阪から送れるものはすべて送ってもらって食料に換えた。「これだけは」と置いてあった着物もみんな食べ物に代わった。

母は若い時に学校の先生をしていたそうで、そのときの生徒の子供がわたしと同じクラスにいたため、ときどきお米や野菜を我が家に放り込んでくれた。学校の先生もそのときになってわたしが母の子であるとわかり、「久美子さんは知子さんのボコだったのけ」とうれしがってくれた。疎開生活もたまに楽しいことがある。利害だけでなく善意のやりとりだってあった。

こうしてわたしの一家4人はすぐに大阪に帰れず、1年間疎開先にとどまった。戦後の1年間は苦しかった。兄はのちに「ちょっとだけ離れたところの友達の家は焼けずに、戦後すぐに大学に行ったのに、おれは働くしかなかったもんな」ともらしたことがある。きょうだいみんな勉強できたのにお金がないから上の学校に行けなかった。

いろいろあったけど、どっこい、おいらは生きている。