紙芝居と映画と教育勅語(わたしの戦争体験記 14)

西六国民学校へあがって1年生、2年生のときは普通に過ごしていたように思う。その普通には「修身」の時間に教育勅語を全員で暗唱とかあったけど、目立って戦争教育のようなものはなかった。たまーに教室で紙芝居をすることがあったがかなり退屈な授業であった。それから生徒全員集合で映画を見ることがあった。思い出せば、やっぱりそれぞれ戦争教育であったな。

紙芝居で覚えているのは、出征した夫が戦線で敵弾にあたって名誉の戦死を遂げる。妻は同じ時間に畑で働いていたが、なにか飛んできて腕にあたって怪我をする。その同時刻に夫は亡くなったと後でわかる。
それだけの内容を30分くらいのドラマに仕上げてあったから退屈だった。あくびが駆け巡ったように覚えている。

立派なコンクリート建ての新校舎の3階には広い講堂があって、映画を見せるとなると窓にカーテンをかけた。どっしりとした生地が豪華で明るい窓辺が暗くなるところが好きだった。上映された映画で思い出すのは「加藤隼戦闘隊」かな。あと何本か見ているけど覚えていない。「杉野はいずこ、杉野はいずや〜」という歌の物語もあったような気がする。

そんな調子で教育現場は戦争教育を加速させていった。教育勅語をそらで言えるように強要されて「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・」と毎朝勉強の前にとなえた。わたしは記憶力がいいので楽勝だったよ。その他、「青少年に賜りたる勅語」というのも毎朝いわされた。兄は中学3年で「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」というのを唱えていたから、わたしはそれを横で聞いて覚えた。文語体が気に入ってカッコよく思った。

それから30年くらい経って、全共闘で活動している友人と話しているとき「教育勅語いえるよ」とわたしが唱えてびっくり仰天されたことがあるが、ふだんは知らぬ顔して暮らしている(笑)。