秋の長雨

このしつこい雨は好かんわといっても雨は聞いてくれないし勝手に降っている。昨日の好天気のことはすっかり忘れて今日の雨の苦情をいっているわたし。昨日の夜にたくさん洗濯物を取り入れたのに、その感謝をいわずに今日洗濯できないモンクをいっている。

昨夜の天気予報を見て今日の姉の家行きはアウトだとわかった。姉に約束していた買い物ができないよと電話してから長電話、去年まで毎日かけてた姉への電話を週一くらいにしてもらっているが、一度かけると引っ張られて長いながーい。うまく引っ張るのでつい長電話してしまう。

相方がツイッターにおもろいこと書いたというので読んだら、「これから晩ご飯作り。腹が減った、と言いながら、待っていたら食えた頃が懐かしい・・・ サバの煮付けに日野菜の塩揉みとか、作る。」と書いている。ごはんはそれだけでなく、一人あたりおかず4皿とご飯と味噌汁だった。

終わりのスイカと始まりの柿

最近は果物をよく食べている。そのときの旬の果物のうまさは格別で、唇を濡らしながらほうばる快楽におぼれる。旬の果物を食べるとうまさとは別に血の巡りがよくなったり、胃腸の働きが活発になるような気がする。

今日は今年最後のスイカだといいながら小ぶりのスイカを買ってきたのを半分夕食後に食べた。甘いあまーい今年最後のスイカ、四つ切りしてかじったら甘い汁が口元からこぼれた。至福のとき。残りは明日の昼ごはんのときに食べよう。

まだあるぜと買い物袋を開いたら柿の包みがあった。今年はじめての柿。明日の夜かあさっての昼の食前にいただくことにしよう。
夏の終わりのスイカを食べたら、次は秋の初まりの柿を食べる。

お彼岸に彼岸花咲く

整形外科のリハビリに行くのに公園の横を通ったら、植え込みの隅っこに真っ赤な彼岸花がひとかたまり咲いていた。そうだ!お彼岸だ!と思ったが、今日は何日でお彼岸はいつだっけというのがわたしのアタマの中。帰って検索したらお彼岸は9月20日から26日までで中日が秋分の日の23日だそうだ。季節は順当にまわり、お彼岸には彼岸花が咲く。なにごとの不思議なけれど、ですね。

そういえば、毎年1本だけ彼岸花が咲くところがあるのを思い出した。四角く区切った地面に街路樹が1本だけあって、その周りの土部分に雑草がひょろひょろ生えているんだけど、なぜか毎年1本だけ曼珠沙華が咲く。いつも見てはその健気さに感心するんだけど、今年も健気に咲いてほしいな。あの樹は台風に耐えたかしら。明日見に行こう。

昨日(18日)の追記
昨日の日記「お彼岸に彼岸花咲く」の追記です。
さっきつるかめ整体院の帰りに通ったら数本の茎が伸びていて、半分くらい花が咲いていたのでびっくりした。実は街路樹は去年からなくて雑草の園になっている。その中で健気に咲いていた。
昨日はふじわら整形外科、今日はつるかめ整体院とからだのケアで忙しい。目の酷使と座りすぎで腰にきてるのと、悪くなることばかり。さて、ぼやいてばかりいないで体操しよう。

アン・リー監督『ビリー・リンの永遠の一日』

3連休の3日目のご飯がすんでからなにか映画を見たいねとなって相方が決めた。わたしは戦争ものはあまり好きでないが、おまかせで見ることになったのは、アン・リー監督のイラク戦争もの『ビリー・リンの永遠の一日』。

イラク戦争で行き交う危険な銃弾の中に身を投じたビリー・リン(ジョー・アルウィン)はその姿をニュースに取り上げられてアメリカの英雄となる。彼の戦闘チームは一時帰国の間に全米凱旋ツアーにひっぱり出される。豪華なリムジンに乗せられて感謝祭のアメフトのハーフタイムイベントに迎えられたビリーとチーム、彼らを利用して一儲けをたくらむ人間がいる。
ビリーの姉はなんとか戦闘に出るのを忌避させようと考え熱心に説得する。
揺れ動くビリーだが、仲間たちとの友情と上司との信頼を優先して再びイラクの戦場に戻ることを決める。

ビリーが感じたり考えたりするところが初々しくて好感をもった。『ブロークバック・マウンテン』がアン・リー監督だったと後で思い出した。

おいなりさんが食べたい

長かった夏の疲れか、恐ろしかった台風の疲れか、その後の長雨の疲れか、それともトシのせいか、しんどくてしょうがない。
ぶらぶらしているもので、しんどいといえども夜の寝つきが悪い。寝てしまえば一直線なのに寝付けなくて転々としている。昨夜はほんとに寝つきが悪かった。時計と明るくなる外を見ながら、夜がしらじらと明けてくるってこのことやなと納得した。

その後はぐっすり眠って、アマゾンの本の配達に起こされた。買った本は安藤礼二の『折口信夫』(講談社)。分厚い本で3996円だった。姉が誕生日になにか買うようにとくれたお金が間に合った。もう1冊は今日注文して明後日配達の安藤礼二編集『折口信夫天皇論集 』(講談社文芸文庫) である。最近安藤さんの本をたくさん読んでいるけど感想書いてないので、ぼつぼつ書かないとね。

晩飯なににしようかと相談あり。いろいろ作るのが大変だ、お互いに疲れてるもんね。ということで、「おいなりさんが食べたい」とわたしが発言。それだけでは頼りないとカツオのたたきとタコのお刺身、高野豆腐、プチトマトのピクルス、そしておいなりさんと玄米茶。
今夜はあとお風呂に入って寝るが、寝る前に安藤さんの本を撫でたりさすったりしてから少し読む。

水引草に風が立ち(わたしの戦争体験記 13)

立原道造の詩「のちのおもひに」の一節
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

山梨県に疎開してよかったのはかっこよくいえば自然と触れ合えたこと。東京都品川区→大阪市西区の都会っ子だったから山梨県へ行った当初はすごくおどおどしていた。人間もだけど道に蛇が横たわっていたりね。夏休みが終わって二学期がはじまり、新入生はわたしだけだったので注目された。もう一人大阪から来た子がいたが一学期からなので、彼女は意識してわたしには東京の子っぽく振舞っていた。

学校に通う道の左側に大きな竹やぶがありその横に清水から流れ出た小川があり、川端に雑草が生い茂っていた。その中に夏は赤まんまがいっぱい生え、秋になると水引草が咲いた。そのころはもちろん水引草なんて知らずにただ気に入っていただけだけど。
履いて行った運動靴が破れても代わりを送ってこないので、みんなと同じように下駄や藁草履を履いて登校した。下駄はだんだんちびて鼻緒は切れ切れで情けなかったが、じっと我慢の子。そんな姿には水引草がよく似合う、なんて考える子だった。

のちに詩集など読むようになって知ったのが冒頭の詩である。あの花だ!と思った。しかし大阪では水引草にお目にかかったことがない。詩だけを胸に日にちが経った。
大阪へもどり、友達もたくさんでき、働き出してどこへでも出かけるようになった秋のある日、友達と天王寺公園内の植物園に行った。当時は温室もありいろんな植物があったが、いまはなくなったのかな。植物園内の庭にいろんな植物の植え込みがあって、なんと!水引草が咲いていて、掲示板に名称も書いてあった。植物園だから水引草も大きく伸びて立派で、風が立ちという風情はなかった。当時はカメラもなく長い茎を折って持って帰るわけにもいかず、思い出の水引草の確認をしただけで帰った。

いまは姉の庭に毎年雑草ぽく咲くし、花屋で売ってるのを見たこともある。どちらも見るだけでもらいも買いもしない。水引草はわたしの思いのなかにある。

夏目漱石『行人』を青空文庫で読む、長雨の夜

ここんとこ毎日雨が降っている。ずっと暑い日が続いていたから涼しいのは大歓迎だが、最近は雨が降りすぎだ。
洗濯物が乾かなくて、部屋の中は室内干しの衣類がいっぱいぶら下がっている。洗濯物を見ないようにして読書とMac。

悪い膝関節が湿気に反応して重苦しくいやな感じ。
ずっと昔のことだが、祖母が肘の痛みで雨が降るのがわかるといってたのを思い出す。笑って聞いてたけど、「あんたらもそのうちにわかる」といわれた「そのうち」の時節が到来したようだ。祖母の予言はぴたっと当たった。そのうち誰かにいってやろう。

こんなときは読書しかない。今日はiPhoneの青空文庫で読む。夏目漱石の『行人』はわりと好きというか心に作用するところがあるのでときどき読む。今日も主人公の苦悩をともに苦しみながら読んでいる。

戦争が始まった日(わたしの戦争体験記 12)

第二次世界大戦(そのとき日本では大東亞戦争といっていた)が始まったのは1941年(昭和16年)12月のことで、その年の4月にわたしは大阪市西区の西六国民学校に入学していた。この年の子供たちだけが小学校体験なく国民学校に入学し卒業している。住まいは新町南通りで学校はいまの細野ビルの東の日新会病院が建っているところにあった。病院の左前に西六国民学校のことを説明した碑がある。
コンクリート造りの威厳のある校舎には講堂と高学年の教室があった。低学年には昔からの木造校舎が横にあった。校庭には奉安殿があり、中には天皇陛下の写真が入れてあると誰かが教えてくれた。生徒はおしゃれな子が多かった。

国民学校1年生のときの12月8日、わたしはいつもと同じように学校へ行った。午前中の授業時間に父親が先生のところへ行ってなにかいっている。先生はちらりとわたしの方を見て「いいですよ」と返事した。それで父はわたしを連れて教室から出た。
家に帰ってよそ行きに着替えさせられ、市電に乗って梅田へ出て阪急電車で父と姉2人が働いている工場の事務所へ行った。その日工場は仕事をしておらず、社員たちがあちこちに数人ずつかたまっている。従業員の食堂を片付けたようなところに舞台が作ってあった。漫才師や浪曲師や手品師がいて、華やかにざわめいている。男女の社員がわたしを見て「娘さんですか」「妹さん?かわいいね」とかお世辞をいってくれた。

どうやら会社の創立記念日とからしい。でないと12月8日などという年末にこんな祝いはしないよねとわたしは頭をめぐらせた。すでに大衆小説を読んでるませた子なもんで。
お昼に一合瓶がついた弁当が配られた。
姉たち(上は経理課、下はタイピスト)は会社の男性におおいにもてている。姉たちの関心を買うためにわたしにお世辞をいってたみたい。

本来ならおおいに賑わうはずだったろうが、すでに電灯の明かりが暗くされており、笑い声も低く、パーティは夕方にはおひらきになった。
仕方がないよと父はまたわたしの手を引いて駅へ歩き出した。阪急電車の中は夕刊をもっている人が目の前で大きく広げていた。真珠湾の記事だったろうか。父親はそれを横目で見つつため息をついていた。彼にとっては西洋文化は知識の泉だった。浅草で洋画を見て育ったのに、これからは戦争で見られなくなる。その後は機会あるごとに子供達に洋画とミステリーの話をしてたっけ。

阪急電車が梅田に着くと8時過ぎなのにシャッターが降ろされていて駅員がそっちを通れと指図している。暗い中を市電の乗り場へ行ったらすごい混雑で、殺気立っている人がいる。父が子供を連れてるんだと東京弁でいって中のほうへ入らせてもらった。市電から見た大阪の街は暗くて寂しかった。
この日は真珠湾攻撃の日だったと後で知った。

美味しいワインでバースディをもう一度

知り合いにいままで知らなかったワインをいただいた。長野県塩尻にある城戸ワイナリーのもの。塩尻というと昔は山梨県へ行くのに名古屋から乗っていた中央線の最後の駅で、ここで山梨方面に行く汽車に乗り換えるのだった。登山しているときは八ヶ岳へ登るのに塩尻で乗り換えていた記憶がある。
村名は忘れたけど子供のとき、母の妹が嫁いだ家に塩尻からバスで行った記憶がある。まあなんとなく親しみをもっている場所だ。赤ん坊のときから塩尻で汽車を降りた回数はすごく多いはず。

昨日は外食だったので今日は家でうまい魚を食べようと買ってきたカツオのタタキがあるところへ白ワインをいただいたもので大喜び。カツオはカルパッチョにして、サラダを2皿、このワインうまいねとにこにこ。
バースディパーティ2回目やなとワインのコップを傾けてハッピーバースディ。
そのあとはご飯と味噌汁とサバの塩焼きと漬物でお腹いっぱい。

昼夜外食

台風後の姉の家に行かなきゃと思いつつまだ行ってなかった。台風で塀の一部が倒れたそうだし、大きく伸びていた萩が荒れているというので、相方と食料をたくさん買いこんで出かけた。いい塩梅に雨は止んだが街には台風の爪痕がまだ残っている。

姉の家の塀は工務店に頼んでいるが、屋根の修理をたくさん頼まれているので、後回しになるそうだ。家のほうをしっかり戸締りすることで手が空くのを待ってるしかない。今日は萩が折れ曲がっているのを片付けて、紫陽花の花が終わったのを整理した。小さな庭だけど荒れかたに台風の威力を感じた。近くのマンションの壁が剥がれ落ちて道の隅に積んであった。姉の家に着くまでずいぶんと台風の爪痕があって運転手さんが説明してくれた。堀江公園の大きな木が倒れたんでっせというてはった。

お昼ご飯はビッグビーンズの焼肉弁当とサラダなど。おやつはサツマイモの甘納豆と大福と煎茶。夕方まだ明るいうちに帰ってきて近所の蕎麦屋へ寄った。麦焼酎のソーダ割り(最近ビールをやめてこればっかり)と天ぷら盛り合わせと出汁巻卵、そして鍋やきうどん。うちらが昼夜外食って珍しい。あとは風呂入って寝る!!