姉が施設へ

10月の終わり頃にドラマチックに倒れて入院していた姉が、明日から高齢者向け施設に移ることになった。姪2人(姉が長女で姪たちは亡き次女の娘である。わたしは三女)が奮闘して病院での世話をし、施設を見つけ、明日の引越しにこぎつけた。「わたしらがするからおばちゃんは落ち着いたら行ってやって」とのことで、こちらも高齢者のわたしは木曜日にゆっくり姉の相手をしに行くことにした。

姉は入院はしたものの、内臓に悪いところがなくいつまでもいられないのと、ベッドに寝たきりになったらいけないので、出て行くところを探したわけ。日本家屋の家にもどって一人暮らしは無理だから。

施設は個室で介護付き。食事や入浴の世話もしてくれる。ベッドは備え付けで他の家具は自分のものを持って行くんだって。今日は下の姪Aが夫を動員して家具やテレビを運んだそうだ。とりあえずは整ったので、明日午前中に病院から介護タクシーで引っ越すそうだ。

わたしはその翌々日に行って片付けなど手伝い、姉の話し相手をして夕方までいる予定。

ケイシー・アフレック主演『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

マット・ディロンとケネス・ロナーガンその他の共同製作。脚本・監督ケネス・ロナーガン。不運な主人公リーをケイシー・アフレックが演じてアカデミー主演男優賞を得た。

マサチューセッツ州のマンチェスター・バイ・ザ・シーという街で暮らしていたリーは思わぬ事件を起こしてしまい、街にいられなくなりボストンで便利屋をして細々と暮らしている。ある日、兄の死の知らせを受けて車で故郷へ帰るが、兄の遺書には息子のパトリックの後見人に指定されていた。

故郷の街マンチェスター・バイ・ザ・シーでパトリックと小競り合いがありつつ暮らしながら、

自分はここには住めないと見極めてボストンへもどるリー。

すごくいい映画で心を動かされたが、もう一度見たくはないなあ。

イザベル・ユべールに心和む『間奏曲はパリで』

牛牧場の牧歌的なシーンからはじまって、妻ブリジットを若い時からひたすら愛してきた寛容な牧場主の行動に心が和まされる。

胸にできた湿疹が治らないので、パリの皮膚科医院に予約して出かけるブリジットだが、偶然いろんな人間と交わることになり、かなりいい加減だが楽しく付き合う。夫は妻が行ったはずの皮膚科が休診と知って妻を疑いだし、車でパリへ出てくる。妻は立派な風采の男と出歩いていて楽しそう。
いろいろあって最後は丸く収まりほっとして映画は終わる。おしゃれな映画だった。
デンマークの男に死海の水が湿疹に効くと聞いたブリジットが夫にそういうと、夫は慣れないインターネットで航空券を予約して死海に共に行く。マルク・フィトゥシ監督。

女子たちの授業放棄(わたしの戦争体験記 26)

この話はわたしの疎開生活の中でもっとも輝いているエピソードなので最後に書こうと思っていたのだが、親友が病気治療中なので病床の彼女に捧げる。

疎開して4年生の2学期から村の国民学校に入り、5年生の夏に敗戦を迎えたので、戦中1年、戦後1年を村で過ごした。戦後の1年は母親と弟と妹と4人で近所に6畳くらいの広さの納屋を借りて住んでいた。

この話はまだわたし一人で叔母の家にいたときのこと。

担任の男先生は男尊主義者だった。男だけが優れていて、女はダメだというのが主義。毎日毎日授業でいい、体操の時間にいう。わたしは女だから鉄棒ができないのでなく、わたしだからできないのだとわかってほしかった。

その割に平気で女子に肥えたごを担がせていた。女子は頭がダメだから疎開児だって肥えたごくらいかつげということだろう。

ある日、授業でうまく答えた男子を褒め、これは女子にはできないというようなことをいった。腹を立てたのはできる女子たち。お昼前の授業だったので、「わたしはこれで帰る。こんな状態であの先生に教えてもらいたくない」と言い出した子がいて、「そうだ、そうだ、これから家に帰って自分で勉強しよう」とできる子たちが賛同し、結局、勉強のできる子たちが家に帰った。わたしも家に帰って机の前に座り教科書を出した。叔母さんがどうしたのと聞いたので、かくかくしかじかと話したら、気持ちはわかるけど、ここで謝らないと大変なことになるという。結局は先生方が出てこない子の家に行って説得したみたいで、ストライキは中止となり、首謀者は教室の床に長時間にわたって正座させられた。わたしは首謀者ではなかったが、座っている子らの後ろに一緒に座った。途中で女性の先生が「あなたはもういいから帰りなさい」とわたしにいいにきた。

ふだんから勉強がよくでき、遊ぶときも中心になる子たちがその日は特別に叱られたが、結局は村の中でも恵まれた家の子なので穏当にすんだのだと思う。

彼女らは翌日けろっとして登校してたが、男子生徒の女子生徒差別は表面上は少しマシになった。

次の学期には違う先生が担任になった。

小春日和、ランチはココナッツカレー

昼過ぎに四ツ橋方面の用事を片付けに出かけた。小春日和の日差しの中を人力車椅子を押してもらってゆうゆう出発。これを小春日和というんやなと実感できる日差しの暖かさが気持ち良い。車椅子はじかに座っていると風が冷たいので、ひざ掛けが絶対に必要。

あちこちまわって用事をすませ、堀江で遅いランチにした。最近もらったチラシで知った自然派カフェ ココウェエルカフェは堀江公園の北側にあってすぐにわかった。ゆったりとした部屋にゆったりと音楽が流れていてくつろげた。チキンカレーを頼んだらココナッツを使った上品な味。メニューすべてにココナツを使っているそうだ。

壁に映る南の島のこどもたちの映像に気持ちが和んだ。ずんずんヤシの木に登っていく子のたくましいこと!

ところで、ココナッツってヤシの実だって今日まで知らなかった。ちょうど座ったテーブルの横に鉢植えがあったので「もしかして、これがココナッツ?」と聞いたら「そうです、ヤシの木です」と答えがかえってきた。ココナッツミルクの缶詰は我が家に常備してある。

お嬢様も疎開(わたしの戦争体験記 25)

山梨の学校に少し慣れてきて、大阪から疎開したわたしへの興味も失せたころ、こどもたちの間にうわさが流れた。あの山のふもとにある大きな屋敷に二人のお嬢様が疎開して住んでいるという。家庭教師がついていて屋敷で勉強しているそうだ。みんなの心にロマンティックな気分が広がった。
とう子さん、きん子さんと二人の名前がどこからかみんなに伝わった。わたしは、唐子、東子、錦子、欣子などと知る限りの文字を当てて想像の二人と仲良くなった。夢の中でいっしょに縄跳びをしたり、お人形ごっこしたり。

噂は結局いっときのことだった。誰もお嬢様がたを見たこともなく噂は広まったものの消え失せていった。わたしだけがずるずると思いを引きずっていた。いまも名前を覚えているぐらいだからたいしたものだ(笑)。

だけど、大きな会社のえらい人のお嬢様とかが疎開したら、唐子さま、東子さま、錦子さま、欣子さまのような生活をしていたんだろうと思う。

純米酒 秋鹿 生囲い(あきしか なまがこい)

能勢に住んでいる甥夫婦が先日姉が入院している病院へ見舞いに来てくれた。相方が奥さんのYちゃんに先日お世話になったお礼にチョコレートの小さな箱を渡した。今度はそのお返しにYちゃんが「純米酒 秋鹿 生囲い(あきしか なまがこい)」と立派なレッテルを貼ってあるお酒を送ってくれた。
先日届いたのを冷やしておいてさっき蓋を開けて飲んだところ。肴はうちとしてはがんばって鯛とハマチのお刺身。野菜いろいろを素揚げしてつけた。そのあとは、ご飯と味噌汁、煮昆布、納豆、梅干し。

「秋鹿」は箕面へ行った帰りとか買って帰ったことがあって、わりと親しみのあるお酒だ。奈良には「春鹿」があったっけなどとしゃべりながら、まず一献。

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7)/最後のジェダイ(エピソード8)

9、10、11日と3日にわたって疎開先の田舎のトイレに関する日記を書いて非常に疲れた。70年も前のことを思い出すのだから疲れるはず。

昨夜日記をアップしがあとと今夜(さっきまで)スターウォーズ続三部作(シークエル・トリロジー)の2作を見た。スター・ウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7 2015年)、スター・ウォーズ/最後のジェダイ(エピソード8 2017年)、どちらも面白くてアタマの疲れが吹き飛んだ。あと1作「エピソード9」は来年公開らしい。楽しみだ。

シークエル・トリロジーはレイという女性が主人公のシリーズである。美しくて強い。
レイア姫をはじめとして昔見たスターウォーズの主人公たちが年取って出てくるのを興味津々で見ていた。みんな年取って定年退職しているようなところは少しもない。

糞尿談をもういっこ(わたしの戦争体験記 24)

便所、回虫と話が続いたところへミクシィ日記に転載した「引っ張ったら【回虫】だった」についたコメント「小さな畑に肥を撒いているおばあちゃんを見て」を読んで思い出した。
学校の畑での5年生の授業。クラスの畑としてみんなでなにかを育てるのだが、「肥をやる」と男先生が言い出し、肥溜めから桶にすくい出して運べという。もう一人の小柄な子と二人で天秤棒の中心に桶がくるようにかついで運んだ。桶の中の糞便がゆらゆらして飛び散りそうなのを必死で抑えながら。
二人の顔があまりにも必死で悲惨だったせいか、さすがに二度目はなくまたもやいのちびろいした。【一度目は2018/11/02「いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)】

稲は、苗づくり、田植え、草取り、稲刈り、それを干して積んで、脱穀してと米つくり一通りの仕事をしたっけ。
わたしの好きな畑仕事は「麦踏み」だった。黙って自分のペースでできるから。でもきっと体重が軽すぎて、麦踏みに値する重みがなかっただろうと思う。
麦畑の畝を両足で踏みながら腕を背中に組み横向きに進んでいくのは楽しかったが、畑が広すぎ踏む箇所が長すぎて畑一枚の最後まで頑張れなかった。
ようするに、なにをしても半人前以下だということ。でもなんとなく生き延びていまにいたる。

引っ張ったら【回虫】だった(わたしの戦争体験記 23)

この話はいままで夫以外に話したことがなかったが、前の話の流れで書いておこうと思う。
戦時中はいろんな人のお腹に回虫が住んでいたんじゃないかな。都会でもいるだろうが、田舎の生活だといやでも共生することになる。こやしとしてまいた糞便から回虫の卵が畑の野菜にくっつき、生で食べる漬物にくっついてお腹に入る。
学校では「虫下し」を飲むようにいわれたが、叔母さんにはいわなかった。当時は「なにごとも我慢する」がわたしの信条であった。

ある日、夏だったか冬だったか覚えてないが、便所で座っているとお腹の中がおかしなことになっている。下痢ともなんともわからずに踏ん張った。もてる力を出し切ったら、お尻から白い紐状のものが垂れ下がっている。どうするべ、と考える間もなくその紐を新聞紙でつかんで引っ張った。ずるりと白い紐は垂れ下がり、ぽかっと出きって下の便壺へ落ちて中へもぐっていった。

「あーあ」と安堵の一呼吸をしてパンツを上げ便所から出た。なんといわれるかわからないので、叔母にはいわず。学校でもいわないままいまに至る。

気持ち悪い話だけど、ずるずると出てきて、最後にすぽっと抜けたのが気持ち良かった。
ウィキペディアに回虫の写真があった。そのとおりだった。いまは平静に眺められる。