田舎の家で困ったのはトイレ(わたしの戦争体験記 22)

田舎の家は大きい。二階、三階ではお蚕さんを飼っていた。朝早くから蚕が桑の葉を食べる音が聞こえてくる。早起き夫婦が早朝からカゴを背負ってもいできた桑の葉だ。お昼にはまた捥ぎに行って昼ごはんを食べさす。蚕は繭が現金収入になった。残ったのは糸にしたり、糸から布にしたり、綿にしたり、捨てるところなしで役に立っていた。

叔母の家は左右に長くて向かって左側が座敷、次は掘りごたつが真ん中にある座敷でご飯はここで食べる。二つの部屋には庭に向かって縁側がついていた。右側が玄関兼なんでも部屋。その右が土間で外からはここへ入る。奥は台所で大きなカマドがあり、囲炉裏が切ってありいつでも湯が沸いている。井戸から汲んできた水を入れる大きな瓶が置いてあった。
台所の裏側には風呂場があって、風呂を沸かす日は「ふろ、おくんなって」といって近所の人たちが順番にくる。お湯は当然汚いがそのほうがよいという人もいる。石鹸の溶けた湯に入るのがいいんだって。

トイレは外にある。徒歩1分かからないが外だから暗くて怖かった。おもや(母屋)から便所まで外を歩いて行くので、雨や雪の日や寒い日は大変だった。大きな番傘と合羽が用意されていた。
裸電球が弱々しくまたたき、板囲いで床も板が渡してあるだけ。トイレは丸い穴である。おおざっぱに切った新聞紙がトイレットぺーパーだ。便は大切な肥料なので、溜めて日が経ったものを汲んで畑にもっていき作物の肥料にする。当然、寄生虫がいて、学校で「虫下し」を飲まされた。

便所の外側にザクロと梨の木があり、実は採って食べてもいいといわれていた。おかげで木登りがうまくなった。
足元にはいろんな草花が咲いていた。

牛乳鍋

いつも無農薬野菜を売りに来る女性から牛乳を1,8リットルもらった。しぼりたてを煮立てて冷ましてから瓶に入れて持ってきたそうだ。いつもの売り場に野菜を買いに行った相方がいただいて帰った。そのまま飲んでみたが市販の牛乳とは味が違う。これが本物のミルクと感じた。

さあて今夜は牛乳鍋だぞと、帰る途中のスーパーのベンチに座り込んでつくり方を検索し、野菜など入れるものを買ってきた。
味噌と牛乳と調味料をいろいろ入れただし汁に、豚肉、とうふ、にんじん、みずな、きのこなどを入れてぐつぐつ煮立てた。
今夜はご飯とかうどんとかいっさい食べず、牛乳だけで腹いっぱい。3時間経ってもお腹が空かないよ。いつか機会があれば、お餅、中華麺なんかを入れてもうまいかも。

懐かしのかちんうどん

今日の晩ご飯は相方が知り合いとよそでご飯を食べることになって、わたしは個食になった。昼ご飯に食べた鯖の味噌煮缶と野菜と豆腐とキムチの味噌汁にお餅を入れてぐつぐつ煮たのを大丼で豪快に。なにに入れてもお餅はおいしい。

先日、近所のそば処 宋平で焼酎とおかずのあとに「かちんそば」を相方が食べた。食べる前に「かちんそばてなんや」と質問あり。「そばにお餅を入れてある、かちんうどんもうまいよ」と返事したが、わたしはその前に鍋焼きうどんを注文していた泣。餅入りのお蕎麦、かちんそばがおいしかったって。

最近宋平以外にうどん屋さん蕎麦屋さんに入ることがない。通天閣の側にある総本家 更科の蕎麦はうまかった。そして鍋焼きうどんのまたとないうまさかな。大晦日の年越し蕎麦もすごーくうまかった。こちらも長いことご無沙汰だが道頓堀の「今井」のうどんもうまい。
すいすい行けるようになったら食べに行くぞ〜

もっと昔の話だが(ハタチごろ)東淀川区の三国の幼稚園を借りてコーラスの練習をしていた。薄汚い神崎川が流れているところで、頑張って泉合唱団という名前をつけた。あたりにまだ蓮池が残っていた頃のこと。
週に一度の練習日に仕事を終えて集まるのだが、たまに三国商店街にある「力餅」できつねうどんかかちんうどんを食べたものだ。小遣いの都合で毎週とはいかなかったが、ここで晩ご飯を食べる工場労働者もけっこういた。大メシと素うどんのセットが懐かしい。

コルカノンを食べて北アイルランドのミステリー

今日の晩ご飯は焼酎のソーダ割りと前菜としてハムとコルカノンを盛った一皿。アイルランドのジャガイモ料理コルカノンが大好き。茹でたジャガイモと茹でたケールを合わせてつくる。
ついでに書いておくと、主菜は野菜とキノコと鶏肉の鍋。残ったスープに中華そばを入れて食べた。

このところ10日くらい暇があれば家中の椅子に座り込んで読んでるのが『コールド・コールド・グラウンド』。主人公ショーン・ダフィは王立アルスター警察隊巡査部長。口が達者で手が早い。一人暮らしで簡単な料理をさっとつくる。お酒はもちろんよく飲む。北アイルランドでカトリックであることが大変なことだとこの本でよくわかる。
北アイルランドのことは児童文学、たしか岩波少年文庫に入っていた女性作家の作品を読んで勉強になった。かなり前の話だけど、うっすらと頭に残っているからこの本を読むのに助けになった。
誰かとなんかしゃべっていて相槌が「あい」。この翻訳をうまいと思った。ふだん「あい」といっているけど書くときは「はい」になってしまうから。

事件は撃ち殺してから手首を切りとり、胴体の上にその手首を置いてある死体が発見されたことからはじまる。ところが胴体と手首は別々の人間のものだった。
(エイドリアン・マッキンティ 武藤陽生訳 ハヤカワ文庫 1000円+税)

叔父さんは見栄っ張り(わたしの戦争体験記 21)

母のきょうだいは女3人の次に男、そのあとに女が2人の6人きょうだいだった。わたしが世話になった母の実家は末っ子の女子が養子を迎えていた。4人目で長男の叔父さんは、百姓はいやだと甲府へ出て商売をしていたようだ。
この叔父さんは羽振りがいいときは気前がいい。国民学校の旗日にミカンを一箱寄付したりする。朝礼の時に先生からミカンを分けてもらって「くみこさんはいい叔父さんがいていいね」とクラスの子がいう。ふふと笑うしかないわたし。実のところ叔父さんはわたしにはミカン一個すらくれたことがなかった。

学校帰りに出会ったとき「くみこ、お前の靴はなんだ、ボール紙じゃないか、今度オレが皮の靴を買ってやるぞ」と愛嬌のある大きな声でいった。わたしはずっとおじさんの姿を見るたびに、靴箱を持っていないかと気にしてたが、何ヶ月後にようやくこの叔父さんのいうことを当てにしてはいけないと悟った。

みんなと同じように国民服を着てもぴしっとしていてとても見栄えがよかった。誰にでも愛想がよくてうまく生きているように見えたが実はどうだったんだろう。

ヴィク・ファン・クラブの会報できたよ

このブログではヴィク・ファン・クラブの会報づくりの話題が月に一度は出るが、毎月一度出す会報が今月ほど負担なことはなかった。いままでなんやかやいいながらなんとかなってきた。今月もなんとかなるさという楽観的観測でいたが、日にちは経つばかり。

ほんまにやらねばと思ったときに姪から姉を入院させたと電話。からだが動けないぶん連絡係をすると引き受けた。兄二人と家族、妹一人と家族、亡き弟の娘R子、姉の亡夫の妹夫婦と電話とメールでかなめになって大忙し。
よそから来る人は、わたしか姪が病院に詰めてるとでも思っているのか、好きな時間にやってくる。こちらにも選ぶ権利がある。仲良しのR子とは新大阪見送りまで付き合った。

そして会報だ。月が変わってしまって、あわててやった。さっき「あとがき」を書き、プリントし終わった。明日封筒を作って夜に出しに行けるかしら。結局は楽しい会報ができあがってよかった。お待たせした会員さんたち、きっと楽しく読んでくれるだろう。ステキなVic Fan Club Newsを。

11月3日は天気がよい

わたしが子どもで国民学校に通っているとき、11月3日は明治節といわれていて学校が休みだった。戦後に「明治節」は「文化の日」と名称が変わって祝日になった。
「明治節(めいじせつ)は、1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年)まで、明治天皇の誕生日に相当する11月3日に制定されていた日本の祝日。」とウィキペディアに書いてある。

なぜかこどもの頃から明治節は天気が良いと決まっていて、遊びに行く約束とかしても安心だった。ニュース解説や天気予報でもいってたように思うが、ちょうど気候の巡り合わせでいい天気になる日なのだ。
遊びに行かないいまは洗濯ものを干して安心な日である。
わたしは毎年11月2日に「明日は天気やで、洗濯物干しといても大丈夫や」といっている笑。2018年の今日11月3日も良い天気だった。

見舞いはひととおり終了

姉のいる病院へ。行きしは相方が車椅子を押してくれた。地下鉄「新大阪」行きに乗ってしまい、次の「千里中央」行きに乗り換えたとき、電車とホームの間が離れていてタイヤが横向きに落ちそうになって汗をかいた。駅員さんがきて「後ろから乗ったらいけます」というので、その通りにしたらスムーズにいけた。

今日は関東からの姉への見舞い最終、川崎から亡弟の娘R子が来てくれた。わたしと同じで方向音痴なので病院を探して30分ほど歩き回ったらしい。病院がちょっと先にあるのに気がつかず歩いていたって、まったくすることがわたしと同じだ。夕方からきた姪A子が「おなじや〜」と叫んで、方向音痴が3人並んで意気高し。
姪どうしは住まいが東西に分かれて会うこともなかったから、姉の入院がきっかけで話ができてよかった。

昨日は義兄の妹Tちゃんに状況を電話で説明した。そしたら今朝さっそく夫婦で来てくれたそうで、豪華な梨とりんごが置いてあった。A子と二人でもらって帰ったが、最近はお見舞いを二人で分けるのでおやつが豊富だ。川崎からは川崎大師のわらび餅をもらった。

いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)

疎開して国民学校4年生の2学期から学校へ通うようになった。村の名は後屋敷村だったけど校名は後屋敷小学校ではなかったような気がする。なんて名前だったか全然覚えていない。もしかしたら日下部小学校だったかしら。鉄道駅が日下部だったから。

学校から帰ると道を隔てた農家のK子が遊びに来てそのままうちにいることもあり、どこかへ連れ出すこともあった。他の子も連れ立って女子グループで小遠征することもあった。ある日、連れ立ってけっこう大きな川へ行った。もしかしたら笛吹川だったかもしれない。ちょうど男子グループがいて川に渡してある太い丸太の上を次々に渡っていた。軽業師みたいに軽々とうまい。親分のような少年が指図していて「女子も渡れ」といった。その瞬間にわたしは落ちて死ぬと思い、「もはやこれまで」と時代劇のようなセリフが頭に浮かんだ。女子たちも慣れたものという感じで渡って行った。とうとう最後にわたしの番になった。丸太に這いつくばっていくしかないと覚悟を決めてじっと川と丸太を見つめていると、リーダー少年が「今日はこれで終わるづら」と声をかけ、みんなを戻らせた。

あんなにほっとしたことは生涯であの一回だけ。わたしはあの声のおかげで一命を取り留めて今日も生きている。わたしが落ちたら親や先生に怒られると思って、彼はあの命令をくだしたのだろう。