関西弁と関東なまり(わたしの戦争体験記 78)

わたしは東京都品川区で1934年に生まれた。5歳で大阪新町に移転したときは近所の子たちに東京弁をからかわれ、必死で大阪弁をしゃべるように努力した。国民学校(小学校)に行く頃は大阪の子として大阪弁を使うようになっていたが、家では父親が東京弁を使い、母親は東京弁と山梨弁を交えた大阪弁を使っていた。姉兄たちは外では大阪弁、家では東京弁も交えて使っていた。
わたしは国語の時間に教科書を読むとき関東なまりで読むので、先生にうまい朗読とほめられるわ、みんなに感心されるわで得意になっていた。

山梨県へ疎開したときは、最初に大阪弁を笑われてから気を付けて東京弁を使うようにしたので違和感が少なかった。それも山梨弁よりも正しい標準語という感じで読むので国語の時間はクラスの華だった。6年生になると講堂で本の朗読をさせられたりした。でも勉強のできる子たちのほうが結局は勝ちで、勉強のできない子たちに慰められたりした。

6年生の夏に大阪にもどると国語の時間は先生に指名されて朗読することが多かった。クラスで勉強のできる子たちのグループがあった。わたしはできない子たちとの付き合いが多かったが、少しファンがついて投票などあるとけっこう人気があった。

わりと最近のことだが、初対面の人に「スギヤさんは関東出身?」と聞かれた。大阪弁でしゃべっていてもどこかに関東なまりが出るらしい。107歳で亡くなった父は死ぬまで東京弁だった。施設に入ったとき同室の人たちに影口をたたかれていたけど、気にせずに東京弁をとおしていた。