記憶の夜店(わたしの戦争体験記 82)

子供のときの思い出に「夜店」がある。ずっとその夜店はどこだったか考えていたが思いつかなかった。「三国」だと父母と姉2人と兄2人とで風呂屋に行ってそれぞれと帰りに夜店に寄ったような気がしていた。でもどうも違うのだ。三国の風呂屋は2軒あって、待ち合わせて風呂から出ると帰り道はキャンデーを舐めたりしゃべったりしながら30分歩くのだった。それほど文化はてる地域が疎開から戻ったわたしの我が家だった。
三国の夜店はよく覚えている。三国商店街が駅前からすぐにあって、商店が閉まるとその前に屋台が並んだ。古本屋が1軒あってミステリ誌『宝石』を月遅れで毎月買っていた。風呂屋の帰りによく寄った。

歩きながら姉たちと兄たちと親たちの話を聞いて、彼らの買った本や雑誌を読んで、わたしもいっぱしのことをいうようになった。戦後文化を身いっぱい浴びていた。

いつも「夜店」という言葉で思い出すのは「三国」だけで、なにか違うなーという気がしていた。薄暗い夜道に浮かんだ緑色のテント生地の「焼ヲジラ」という文字。「ラジヲ焼」が右からになっていた。あれはどこだ。ラジヲ焼を食べさせてもらったことはない。その文字を眺めていただけである。その文字がいまもわたしの脳裏にあってぼーっと浮かんでいるだけである。

それが大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』にあったのを先日見つけて晴々した。「焼ヲジラ」の写真があったらもっと喜んだと思うけど(笑)。

昨夜はここまで書いてアップした。ちょっと書き残しがあったのと、間違いがあったので訂正する。
●書き残し
夜店の名前は「戸屋町の夜店」。徳川時代からという古い町だそうだ。明治になってから阿波座上通りと改名されたが、夜店だけに「戸屋町」と名前が残ったそうである。
●訂正
「焼ヲジラ」ではなく「焼オヂラ」と読者の方が書いておられた。こっちが正しい。

クシャミハナミズ花粉症

数日前に鼻水を垂らしていてティッシュを渡された。ブサイクなことだが、流れはじめの覚えがなくてなぜか鼻の下に鼻水が垂れていた。そのときはハナをかんですませたが、今日も同じく鼻水を垂らしていてティッシュを渡され、「花粉症や」と叫んだ。花粉症の季節だと1週間くらい前にニュースでいってたとき、この前の鼻垂らしがそうだったと悟った。

春浅くよく冷える。いつの間にやら奈良のお水取りが終わって、今日はお彼岸だ。今年はお水取りの日記を書かずに過ぎてしまった。あまり寒くない冬を通り越したからかな。最近はぐっと冷えて桜も縮こまったみたいね。
季節は春となったけど、いろいろとしんどいことが重なる。ひざは痛いし、腰は重いし、なにか用事をするときの動作がびびっている。
そこへコロナの心配がある。

花粉症が正面に出て、他の「しんどい」が後ろに引っ込んでくれたらいいのにと願う。それにしてもよくクシャミが出る。鼻水も出る。

大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請

夕方7時のNHKラジオニュースの第一声で『大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請』といってた。おどろいたというか、ここまできたかという気持ちである。聞いているときは笑ったが。まあ兵庫県へ行く用事はないし、知り合いもいないし、静かにしてるけど。

昔阪急神戸線の神崎川に住んでいたことがあって、隣り駅は園田で兵庫県だった。歩いて行ける身近な場所だったなと思い出した。あのときだったら近所の人たちとひと騒ぎしたかも。おしゃべり好きな下町のおばちゃんばかりだったから。

コロナ騒ぎがすごいことになってきて、戦争中を思い出した。
太平洋戦争中のわたしが子供の時、わずかなお米を水増しして炊いて「楠公炊き」と称した。新聞や雑誌に作り方がのっていたのを読んで各家庭で炊いた。
これから米不足になることがあれば、テレビの料理番組で「楠公炊き」をやりそう。「レンジでチンして楠公炊き」なんちゃって。

お見舞いに堀江ベースのケーキ

高齢者には特に危ない新型コロナウィルス。今日は伊丹市のデイケア施設で感染確認が37人、1人が死亡したとニュースがあった。大阪のデイサービスやデイケアはどうするのだろう。
わたしは近くのデイケアを体験しに一回行っただけで、早く毎週1回行きたいと思っているところだ。お世話になるには健康診断書が必要とのことで、かかりつけの先生に頼んである。それをつけて書類を出してOKしてもらえば晴れてデイケアにいけるのだが・・

わたしが毎日どこへも行かず家で鬱々としていると相方が察して、堀江のベースまでお見舞いにケーキを買いに行ってくれた。チョコレートケーキがめちゃくちゃおいしい。見た目も美しいお菓子だ。わたしのために買ってきてくれたと思うとよけいにうまい。
お店にはわたしも知っているDJさんが遅めのランチに来ていていろいろ話をしたらしい。どこへも行かずネットと本を読むだけで満足しているわたしの大きく開いた窓(笑)。家にいるだけでもけっこう情報通です(笑)。

伝統的食事

いつもいろいろばたついているが、このたび高齢者としてまじめに食養生というかきちんとしたご飯を食べることにしようと決めた。そこにはパスタやサンドイッチだって入るけど、伝統的な食べものを主体にする(ここに「(笑)」を入れたいな笑)

晩ご飯は納豆に「めかぶ」を混ぜてお醤油をかけて、麦ご飯にのっけたのがうまかった。「柚子胡椒」なんていままで知らなんだけどうまいものだ。名前を聞いただけでうまそうな気がする。
「めかぶ」は野菜でなくて海藻である。検索したら「メカブは、ワカメの付着器の上にある、葉状部の中で厚く折り重なってひだ状になった部分」とあった。きれいなみどり色で酢の物にあう。

赤ワインが残っていたので、イワシにハーブをふりかけてフライパンで焼いたのをおかずにしたらこれもなかなかいけた。
お酒でちょっとうまいものを食べ、あとはご飯と味噌汁と漬物と納豆。最後に番茶がうまい。あっ、甘いものもちょこっとあったよ。

今日から一日三食

我が家では昨日から一日三食にした人がいるが今日からわたしも三食にした。いっしょにつくってもらえる。お腹はちゃんと減っているからいっしょに食べたほうが片付けもカンタンだと一転、今日から三食主義に笑。

朝食は、トースト、野菜スープ、サラダと残り物のウインナーソーセージ1本、はっさく、紅茶。昼食は豚肉と野菜のパスタとサラダ。おやつはコーヒーとビスケット。
晩ご飯はご馳走で赤ワインととっておきの魚の缶詰いろいろに炒めたキノコ、サラダ、トースト、紅茶。なんやら一日中食べていたような気がする。
ただ食べ過ぎに気をつけなくては。そしてストレッチと体操を忘れずに。

介護保険で部屋に手すりをつけてもらえることになって、先日業者さんにつける場所を見せて見積もりしてもらったのが今月中にできる。できたら狭い部屋ながら手すりを利用して行ったり来たりするつもり。とにかく体を動かさにゃ。

おやつはサンドイッチに決まり

夕方になるとお腹が減る。そしてコーヒーが飲みたくなる。「コーヒー淹れよか」と声をかけてくれるのがありがたい。もう一言「腹減ったなあ、サンドイッチつくるか」これでオーケー。

今日から我が家のご飯は朝昼晩の三食になった。相方の体調と理屈による。わたしはまだ二食である。朝そうそうからご飯は無理。相方が朝食を食べてる間に半身浴をしてアロママッサージをする。それから洗濯したり片付けしているうちに相手はお昼ご飯の支度にかかり、いっしょにお昼ご飯を食べる。
夕方、相方が出先や買い物からもどって「腹減ったー」そして「サンドイッチつくるか」という。わたしは「食う、食う、おおきに」と叫んでサンドイッチをよばれる。今日はアボカドをのせたオープンサンドイッチだった。これはとてもうまい。さっさとトーストを焼いて手慣れたものである。

おやつを食べると夕食が遅くなるのが難点だが、寝る前にお腹が空くのを防げるからいい。

新町花街九軒の桜堤(わたしの戦争体験記 81)

大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』を久しぶりに本棚から出してぱらぱら見ていたら、「新町花街九軒の桜堤」とタイトルがついた見知った風景写真があった。九軒(くけんと読む)は新撰組の芹沢鴨の話で知られたところだ。その話はこの本に書いてあるが、今日は別なことを書く。

広い通りが真ん中を通っていて西を向いて南側は桜堤、北側は建物がある。今日このページを開いて「あっ!」っと声が出た。写真の真ん中は道路がまっすぐにある。この道路の真ん中に立ったら、左右と正面が見える。その景色は写真も今も同じなのだ。
子供の時にここいらを通ったことがあったかな。「あっちのほうには行くな」といわれていたような気がする。もっぱら遊びは四ツ橋、阿弥陀池、長堀川にかかる橋くらいだった。
いま道の南側は昔の桜堤の面影を残して桜の木がたくさんあり、花見シーズンはずいぶん賑わう。北側はオリックス劇場(以前は厚生年金会館大ホールと中ホールが並んでいた)である。そこが新町遊郭の一角だったのだろうか。
いまから40年前にいまの住まいを見つけて引っ越した。それ以来の新町ぐらしなのに、いままで「九軒」を忘れていた。たしか公園の植え込みに碑が建っていたはず。もう一度確かめに行かねば。

『西区むかしの物語』はたしか区役所に用事で行った時にタダでもらったものだ。なかなかおもしろくてためになる。平成12年発行。

大阪大空襲から75年目の3月13日(わたしの戦争体験記 80)

元気とはよういわんがまだ生きてます。85歳だから75年前は10歳だったのね。その前の年の夏に学童疎開で山梨県に疎開してしんどい毎日を過ごしていた。大阪大空襲でうちが焼けてしまったなんて思いもせず、雪解けの季節になっていた。下駄の歯の間に雪や泥が詰まって歩きにくかったなあ。自分で縫った鼻緒をつけた高下駄だからなおさらだ。

その日は3月だから雪解けがはじまった畑や道はどろどろしていた。なぜか道路にいた子供たちが「向こうから人が歩いてくるじゃん、だれづら」と騒ぎ出した。「乞食づら」という者もおり、わたしも「乞食け〜」といいながら歩いてくる人らを眺めた。なんと!その乞食と思ったのは母と姉2人と弟と妹だった。5人は手をつないで道いっぱいに歩いていた。

3月13日のアメリカ軍空襲から命からがら逃げて、とにかく母の実家へ汽車を乗り継いでやってきた。「家は焼けてもうないよ」「えらい目におうたわ」「生きているだけありがたい」母と姉たちは口々に話した。
そのとき、わたしがいったという言葉「うちが焼けてよかった」はのちのちまで母が笑い話にしていた。親戚とはいえ他人の家にいるのはしんどかったんやな。

薄日がさしてきた

なにがなんでも毎日の日記だけは書こうと思って何年経ったやろか。特にこの2年間は体調がすぐれず、足腰よろよろ、目と歯が弱って、口だけはしゃべるほうも食べるほうも達者・・・というありさまであった。
周りの人たちからはデイサービスに行けとか最近はデイケアというのがあるでと意見され、ようやく重い腰があがったところである。デイケアって知らなんだ。からだを動かすことを教えてくれるんや、これにしよと見学に行ったところである。
行こうと思うと心を決めたので、いま申し込み書を書くつもりのところ。けっこうめんどうくさい。

1年半かけて腰の痛みにストレッチで対処して脊柱管狭窄症を治したのはよかったが、次に控えてたのはひざ痛だった。いまアロママッサージと体操で治すのに懸命である。
プラス、今度はちゃんとデイケアの専門家に教えてもらおうと必死のかまえ。

今日は家にいて台所の片付けをしてネットニュースを見て、村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んでいた。地下鉄サリン事件は阪神大震災のあとに起こった事件だったが、どちらも衝撃的だったなあと改めて思い出した。村上さんのおかげで。

今日は久しぶりに初めての方からメールをいただいた。そのあとに、もう30年近く付き合っているヴィク・ファン・クラブの会員さんから楽しいメールがとどいた。なんかうれしい。暗かった心に薄日がさしてきた。