疎開するとき、10歳年上の二番目の姉T子が大切に持っていた中原淳一の絵葉書や雑誌をわけてくれた。戦後に出たひまわり社発行の雑誌『ひまわり』『それいゆ』をそれぞれ1号から買ってくれたのもこの姉である。わたしは国民学校へ入学してから戦時教育を受けて育ったのだけれど、心は中原淳一描く少女だった。淳一が挿絵を描いた川端康成『乙女の港』、吉屋信子『紅雀』の物語が大好きだった。
この2冊は姉が手放さなかったので、田舎には持っていけず、結局はアメリカ軍の空襲で焼けてしまった。戦後だいぶ経ってから古本を見つけたときはものすごく感激したっけ。その後に復刊本を新刊で買ったときのうれしさ。
結局わたしが田舎に持って行ったのは、中原淳一が関わった雑誌『少女の友』数冊と絵葉書が数枚だった。姉が就職した会社の伝票用紙の切れ端や設計室で余った色鉛筆などをもらってきてくれたので、淳一の絵をその紙に写してなぞり色をつけて便箋をつくった。一心不乱に絵を描いて、その横に手紙を書いた。辞めていった先生に送って喜ばれたのがうれしかった。田舎の家の叔母の机の前で必死でつくった便箋がなつかしい。
父が送ってくれた本の他に座敷にしっかりした本箱があって藤村全集その他文学ものが並んでいたから読む本には苦労しなかった。淳一しおりをいろいろ作ってはさんだ。最初のうち藤村全集は「しまざきふじむら」と読んだものだが、「とうそん」とわかったときは恥かし嬉しだったなあ。
そのころの中原淳一はわたしの神様だった。絵が好き、人形が好き、淳一挿絵の物語が好き。
そして、少女への言葉が好き。
インテリアという言葉を知らなかったが、住みよい部屋にしましょうという提案に従って、納屋での生活をまるで『小公女』のセーラの部屋のように空想で仕上げるのだった。
部屋のすみにたたんであるふとんにまだしもの布をかけて見よくするとか、お膳の上に自分が千代紙で作った箸置きを置くとか、ツユクサを活けたり、猫じゃらしを束ねて飾ったり。「この子はまあ・・・」と母は笑うだけだった。こころだけは美少女のわたし(笑)。
いまも淳一絵葉書は大切にしまってある。