さあストレッチしよ

北海道帯広で39度なんぼまでいったと昼のラジオニュースでいっていた。大阪も暑い! けど、うちは暑さの中をベランダから入った西風が部屋を通り抜けて東側の窓へ出ていくのが心地よくて、機嫌よくヴィク・ファン・クラブ会報の仕上げ(綴じと封筒入れ)をやっていた。
相方が出ていくのにケーキを置いてくれていたので、それとコーヒーとビスケットでおやつ。途中で『マンハッタン花物語』を読んで気分をロマンチックに入れ替えた。

相方が夕方帰ってきて、外は暑かったとレモンと氷をたくさん入れて焼酎の炭酸割りをつくったのでちょっともらった。買ってきたトリの唐揚げとサラダも少しづつ。なにか食べたと思ってたみたい。
これでお腹がおさまり、わたしは台所の片付けして、パソコンに向かっている。相方はぐーぐーと夕寝。起きたらサンドイッチをつくってくれるらしい。それが晩飯。
昼に起きてからヴィク・ファン・クラブに体も時間も使った一日だった。さあストレッチしよ。

今夜は大雨かな(5月20日月曜日)

東京の友人(ヴィク・ファン・クラブ会員)から月曜日に出張で大阪に行くので夕方食事しましょう、と数日前にメールがあった。天気がどうなるか心配だったが、堀江のアブサンに予約した。わたしは1年以上友達つきあいから遠ざかっているので、これで社交界復活なるか、というところ。

(月曜日)今夜は大雨らしい。はじめの予報では午後から降り出しそうだったが、午後になってみたら夕方から大雨予想に変わっている。ちょうど出かけるときならやっかいやなと思いつつタクシーで出かけたら、さいわい小降りだった。車椅子なし、杖なし、傘あり。お店の前で降ろしてもらった。
Nさんはすぐにやってきた。9年ぶりだそうだ。そういえば9年前にはシャーロック・ホームズで待ち合わせてギネスを飲んでから新町ギロチンに行ったっけ。

おいしい料理を食べながらいろんな話をして、明日仕事で早起きのNくんはホテルへ。われわれはコーヒーとケーキでちょっと和んでから帰った。

久しぶりの外食と会話で疲れた。この体調では当分は社交は無理だとわかった。相方にも無理させてしまったので、同伴を頼むのは慎まねばと悟った。背柱管狭窄症による体調不良はどこまでも続いている。ええ加減に元気になりたい。

※昨日20日は帰りが遅くなったのでブログはお休みしました。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)(わたしの戦争体験記 58)

新しい元号(令和)発表のときに『万葉集』についての論評をツイッターで知ってちょっと興味を持った。今日図書館で元の意見が出ている本を相方が借りてきたのでその章だけ読んでみた。

東京大学教養学部編『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』(白水社)
III 現代にこだまする歴史
『万葉集』はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか 品田悦一

難しそうと思ったがそうでもなかった。
わたしは『万葉集』は岩波新書の斎藤茂吉『万葉秀歌』しか読んだことがない。それも大昔に買ってざっと読んだだけだ。好きな歌もあったが忘れてしまった。だから品田さんの文章を読んで、「ああそうなのか」と思うところが多かった。
最後のほうに「うみ行かば」のことが書いてあってびっくりした。元は大伴家持の歌だって。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)
山行かば 草生す屍(むすかばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

山梨の学校で『君が代』の次に歌わされた歌だ。いまでも歌える。兵隊さんのみならず、子供のわたしらまで死ぬことを強制されてるみたいで好きでなかった。本書で品田さんに教えられて子供のときの嫌悪感がわかった。
引用「・・・勇ましい歌は、『万葉集』全体でもごく僅かしかないのにそういう例外的な歌をことさら取り上げ、戦争遂行に利用するという恣意的かつ一面的な扱いがまかり通っていたのである。」

ヴィク・ファン・クラブ会報4・5月合併号発行するよ

10連休が終わって、今日はみんな仕事や勉強や日常にもどったことでしょう。うちのへんは休み中は静かだったけど、今日はクルマが通るし建設工事の音は響くし、しゃべる声が響くしと騒音の日常に戻った。じっと静かよりもなんなと音がしているほうが落ち着く(笑)。

今月は毎月出しているヴィク・ファン・クラブの会報をさぼった。連休中は郵便配達が休みと知って、月末にでき上がってもどこかで詰まってしまうと思い、休み中はなんにもしないことにした。本を読んだり映画を見たりしよう。そりゃ作っておいて連休が終わると同時にポストに入れたら一番だが、せっかくの休みだから休んでしまおう。

そう思って毎日お昼まで寝て、甘いおやつを食べて、本を読んで、iMacで映画を見た。そして、しゃべって、ストレッチして、遅くお風呂に入って、ツイッターに熱中した。
そんなもんで、今日から会報制作中。30年近く会報をやっているが合併号は初めてである。きっと会員の皆様は待ちくたびれていることでしょう。

なんとか今週中に仕上げて送りたい。やり出したらけっこう頑張るからいけるかも。でも頑張る気力があっても体が追いつかないかもしれない。まあ、やってみよう。

桑の皮の国民服と桑の葉のお茶(わたしの戦争体験記 57)

桑の実ほど美味しいものはなかったといまも思うほどに、疎開した山梨県の桑の実は美味しかった。田舎の子が食べているのをあんまり見たことがなくて、わたしは一人でむさぼり食べていたが、みんな桑の実よりうまい果物が自分の家の庭にはあったんだろう。むさぼっているところをじっと見つめられた記憶はない。桑畑がいっぱいある上に畑の外側や道に勝手に生えている木があって、たいていの木に実がなっていた。

疎開した4年生の夏休みの宿題に桑の枝の皮をむいて干したのをもってこいというのがあった。わたしの初登校の日、みんなリヤカーや自転車で運んだり、担いて運んだりした。わたしはみんなの10分の1くらいの1束を持って行った。この1束だって叔父さんに手伝ってもらってやっとできたもの。

桑の皮むきは桑の枝の皮をむいたのを乾燥し繊維にして布地にし服を作るという国家の計画だった。その夏の国民学校生徒はいっせいに桑の皮を供出した。次に桑の葉を乾してお茶の葉代わりにせよと命令がきた。生徒全員が桑畑で葉を採集してムシロに広げて乾した。こちらは簡単だったけどお茶はどうにもこうにもまずかった。桑茶といって薬用になるくらいだから乾し方にきっと工夫があるはずだけど、ムシロで乾しただけだからうまくない。

忘れた頃に桑の皮の服が学校に届けられた。ごわごわして気持ちわるかった。当時、木綿の代わりに化学繊維のスフが使われるようになっていたが、スフよりずっとごわごわしてたのが桑の皮の繊維だった。

国民服と国防色(わたしの戦争体験記 56)

日本大百科全書の解説によると、「日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装」とある。我が家も兄たちの学校行きの服や、父親の通勤服が国民服になっていった。(まだ疎開前のこと)兄たちは国民服を着て肩掛けカバンをかけ、ズボンの上からふくらはぎにゲートルを巻いた。上の兄はコツがあるらしくうまく巻いていたが、下の兄が下手くそで毎朝かんしゃくを起こしていたっけ。

女子はブラウスやセーターにモンペだったが、大阪の学校に通っていたときはまだスカートだったような気がする。おしゃれで裕福な子からモンペ姿になっていった。わたしは夏に山梨県に疎開したときはスカートだったがその秋からモンペになった。最初はピンク色の入った絣のモンペがうれしかったけど、おばさんが洗濯をしてくれなかったからピンクが汚れて見苦しかった。

国民の着るものが国防色という気持ち悪い色に統一されてしまい、ネクタイなんてすっかり忘れられた。布地がスフというのがさっきアタマの中から出てきた。スフという言葉をよく覚えていたもんだ。スフでできた衣類は洗濯するとごわついた。着ても暖かくなかった。母親は古着かスフか家族の着るものに困っていた。それよりも食べるものがなくて困ったから着るものは第二第三の問題だったかも。
おしゃれな甲府の叔父さんも田舎の道で会ったとき国民服だった。さすがにアイロンのかかったのを着ていたが一回り大きくて哀れな感じがした。

灯火管制(わたしの戦争体験記 55)

わたしは4年生の夏に疎開してしまったので、翌年の大阪大空襲のときは山梨県にいて空襲の恐ろしさを体験していない。次兄は山梨県だが甲府市の叔父の家にいて二度空襲にあい、二度とも命からがら逃げている。わたしは後屋敷村にいて甲府方面の空が真っ赤になっているのを見ていた。翌朝、兄が黒焦げの自転車を引きずってやってきた。それから兄はどうしたのかしら。叔父のところにもう一度お世話になったか、さきに大阪へ帰ってたのか。今度あったら聞いてみよう。わたしは疎開したので、空襲後の大阪の状況がわからずじまいなのが残念だ。戦後何十年も経ってから各区の戦災を語る会などに行って当時の状況を体験者に聞いた。西区は3月に暗い時間にやられたが、ちょっと北のほうは真昼間に機銃掃射されたことなどそのとき始めて知った。聞いておかないと当時のことを知っている人たちが亡くなってしまう。

戦中のことをいま思い出そうとしているがあんまり出てこない。灯火管制という言葉がいま出てきた。灯火管制がしかれたのは3年生のときだったかな。玄関の戸をぴったりと閉め、灯りは茶の間だけで、コードをさげた電気の傘の上から黒い布を被せた。灯りは黒い布の下だけにとどいていた。家族全員が火鉢に手をかざしながら小声で話していた。外から隣組長が点検して明かりがもれていると怒られる。本を読もうとして明かりを取り合いきょうだいゲンカが勃発する。
息を殺すようにして父が話し出す。幼い時から浅草の仲見世で働いた話がおもしろかったが、本人はすごい苦労をしたといってた。お金の苦労をたくさんしたが、遊びもしたみたいで、いろんなことを話してくれた。アメリカ映画が好きで、『駅馬車』『暗黒街の顔役』はストーリーを最初から何度でも聞いたので耳にタコができた。映画は戦後だいぶ経ってから見ることができたが、父の言葉をまともに信じていたからがっかりした(笑)。

灯火管制のなかで映画と探偵小説とジャズとアメリカ文化への憧れを語る父と、日本帝国の勝利を信じている兄と軋轢があったのか、当時のわたしは知らなかった。ただ、真面目な兄をからかう父がいたのをよく覚えている。

軍歌でせっせっせー(わたしの戦争体験記 54)

こどものころは家で姉たちと「せっせっせー」と歌いながらやったものだ。「せっせっせーのよいよいよい」についで「夏も近づく八十八夜ホイホイ」と続けて歌って手を叩くのが定番、ホイホイは口拍子&手拍子。学校の休憩時間や手持ち無沙汰のときなど「せっせっせやろ」と始めたものだ。ほかの歌でもやったか覚えてない。もっぱら「夏も近づく」であった。せっせっせーは大阪も山梨も同じだった。

ところが、4年生くらいから「とどろーくつつおーと とびちーるだんがん」と歌うようになった。「あらなーみあーろうデッキのうえに」振りは同じだが大振り。両手をぱんぱんと打ち合ったり交差させたりしたように覚えている。
せっせっせは綾とりと同じく女子の遊びで、教室でも遠足の電車の中でも二人が向き合ってやっていた。家ではもっぱら二番目の姉とわたしとの遊びだった。

先日「とんとんとからりと隣組」の歌のことを書いてからとみに戦中の歌が口から出てくる。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからにゃ、手柄立てずに帰らりょか」なんて洗濯物干しながら歌っている。おっと、これは元気なほう。だいたいに哀愁溢れる曲が多い。「真っ先かけて突進し・・・友は野末の石の下・・・思えば遠き満州の・・・」なんて切れ切れに覚えている。

阿弥陀池和光寺の花祭り(わたしの戦争体験記 53)

今日4月8日はお釈迦様の誕生日で花祭りの日だと気がついた。
西六国民学校の3年か4年のときに下の姉に近所の阿弥陀池和光寺へ連れていってもらったことがある。我が家は父が仕事に行き、母は家で内職が忙しかったから、小さな子の世話はきょうだいがすることになっていた。路地から長堀通へ出て白髪橋を渡って阿弥陀池筋を南へ行くと左側に和光寺があった。いまもある。当時はその近くに姉が通っていた精華女学校があった。校庭には楠がのびのびと植わっていたのを覚えている。

寺に入ると池があって人がいっぱい。なにかなと覗き込むと亀がたくさんおり、亀を見ながら子供たちが指差したり叫んだりしながら遊んでいる。
池の水がお日さんに当たってぴかぴか光っている。でっかい亀が甲羅を干していたり、うるさい子供たちの声から逃れるためか首をひっこめてごろんと寝てたり。春の日差しが暖かく気持ちのよい午後だった。

亀に飽きたこどもたちには甘茶が振舞われていた。順番を待って甘茶をいただき、お釈迦様像に手を合わせた。
出店があって飴を売っていたのを姉が一袋買ってくれたので、持って帰って母にお土産として渡した。

最近、折口信夫先生がこのお寺、阿弥陀池和光寺に来られたときのことを書いておられるのを読んで、あそこへきはったんやと感慨ひとしおだった。

大日本雄辯會講談社発行 「少年講談」(わたしの戦争体験記 52)

戦争中の読書を考えると次々と読んだ本を思い出すことになる。学校にあがる前から少女ものを読んでいたが、これは姉2人が持っていたおかげで、吉屋信子をはじめとする少女小説と少女雑誌があったおかげだ。

それだけでなく、わたしは少年ものも好きだった。姉2人の下に兄が2人いて父親が買ってきた少年ものがたくさんあった。佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』『夾竹桃の花咲けば』なんか好きだったなあ。それに新町には近所に貸本屋さんがあって、兄たちは毎日のように借りに行った。借りる本はほとんど「少年講談」で、わたしは兄たちが読んだあとに回してもらって読んでいた。1冊を3人が読むので割安だ(笑)。

少年ものだけでなく熱中したのが時代もので、いまここで名前を思い出せるだけ書いてみようか。と書き出したものの、記憶力散漫ですぐには名前が出てこない。ネットのお世話になりながら書き出したのは以下で順序はばらばら。
田宮坊太郎、荒木又右衛門、柳生十兵衛、岩見重太郎、三好清海入道、稿団右衛門、真田幸村、猿飛佐助、荒木又右衛門、塚原卜伝、後藤又兵衛、などなどキリがない。
なかでも一番好きだったのが塚原卜伝。最後のほうで、白髪の卜伝が田舎の家でいろりに鍋をかけて座っているところへ悪漢が現れ刀を向ける。木の鍋ぶたを手にもって刀を受け、やっつけるところがかっこいい卜伝さまはいまもわたしのヒーローである。