いつまでも暑いなあ

昨日はヴィク・ファン・クラブの会報を送る封筒にゴム印を捺し宛先ラベルを貼って、出来上がった会報を三つ折りして封筒に入れ、切手を92円分貼って封をした。カンパの切手がたくさんあるので、金額を確かめつつ貼っていく。古い切手はわたしの切手帳に残っていたもの。金額が細かく半端なので計算しながら貼っている。まだ残っているのでもうしばらくはやらなきゃ。たまにびっくりするほどオシャレな切手があり使うのがもったいなくなる。いまごろは滅多に手紙を書かないし、置いとくよりも使うように心がけている。絵葉書がすごくたくさんあるのもなんとかせねば。便箋セットなんかもおいてあるけど使わんとあかんね。

昨日の夜はオムライスを作ってもらって和んだ。作ってもらうとうまい(笑)。
作るのを見ていて日記に書いたら独断と偏見に満ちていたようで訂正を求められた。どうやら自分で作ったときと混同していたみたいで、申し訳なく今日訂正した。

暑さと湿度が体にも頭にも影響しているみたいだ。暑さもだけど、わたしのからだには湿度のほうが影響力がある。
今日は晴れていたけど膝の痛みがきついから湿度が高かったのでしょう。
毎月の会報作りが今月も大幅に遅れたけどできたからええとせんかい。

ヴィク・ファン・クラブの会報

毎日うっとうしい天気が続いている。
午後からつるかめ整体院へ行ってきた。昨夜寝つきが悪かったせいか朝から不調だったが、治療してもらって体調があがってきた。夕方までコーヒー飲んだり本を読んだりしゃべったりしていたが、体調があがったら「会報せなあかん」気持ちになってきた。

ヴィク・ファン・クラブの会報8月号がまだできていない。モンゴルで活動している人の報告2ページは先日できあがっている。毎月連載の「Live on」を片付けようとやりだした。ご飯をはさんで2ページさっき出来上がり。予定は12ページなのであと8ページ、残りのほうが多いじゃん。
まあ、なんとかなるでしょ。いつもそういってなんとかやってきた。今月ができないはずはない。送るのは9月に入るけどなんとか8月号やっつける。

それでいま気になってちょいと調べてみた。最初の号は1992年1月である。ええっ、27年経ってる。延々やり続けて途中休みなしで27年、いかに体と心が丈夫かわかる(笑)。実は、いま体のほうがちょっと危ういんですけどね。

VFCの会報はアップルのパソコンとともに歩んできた。機械音痴のわたしがこうしてやっていけてるのは、アップルのおかげである。創刊号から会員のみなさんの手紙を文字打ちしてレイアウトして、という作業をアップルのパソコンだからできた。初期の頃、黙々と日曜日に仕事場で文字打ちしていたことを思い出す。いまはでっかいパソコン机に向かってえらそうにしているわたし。もうすぐ85歳になります。

ソウルフード 上原善広『被差別の食卓』を読んで

上原さんの子供時代の食べ物の話からはじまって、世界のソウルフードを求めた旅の話を興味深く読み終わった。そしてわたしのソウルフードってなんだと考えた。

わたしが疎開先から大阪へもどったのは1946年夏だった。新町の家がB29の爆撃で焼け、父が働く会社の寮に一家が集合したとき、知り合いの韓国人が故郷へ帰るから、空いた家に住むようにと手配してくれた。小さな家だが家具がついていてありがたい話だった。その近所には朝鮮人、被差別部落、沖縄人らが住んでおり独自の生活をしていたように記憶する。近所に住む弟の友達からの情報で、親が弟に口止めしても偉そうにわたしに伝えるのだった。

貧しい上に小さな子供まで抱えての生活は大変だった。母は近所の農家を手伝って現金収入を得ていた。内職はなんでも引き受け子供達が手伝った。
晩のおかずは必ず鯖の煮付けか塩焼きだった。それにほうれん草のおひたしがつく。思い出して上原さんが書いている「あぶらかすと菜っ葉の煮物」そのものやないかとうれしくなった。毎日母は魚屋で大きな鯖を2匹買ってきて自分でさばいていた。鯖は兄達には不評だったがわたしは大好きだった。鯖を炊いた汁にほうれん草を浸して食べるのは我が家のソウルフードだったといまごろわかった。

上原さんは世界を旅して、被差別の人たちの歴史と現状を報告している。その食べ物への好奇心には恐れ入ってしまう。本書は食べ物の話から入って差別について深く考えさせてくれる本である。
(新潮新書 680円+税)

上原善広『被差別の食卓』を読んで思い出したこと

1週間ほど前に夫が図書館で借りてきた本(上原善広『被差別の食卓』)を「先に読んでええで」と渡してくれた。若い友人に教えてもらったそうで「興味あるやろ、ソウルフード食べたことあるしな」「ええっ、覚えていてくれたん?あれは忘れられない味や、先に読ませて」と読み出した。

本の紹介を書く前に、たった一回だけど、わたしが日本のソウルフードを食べた話をしたい。

わたしは阪神大震災のあと、なにかできることでボランティアに参加したいと思っていた。最初は当時まだあんまり普及してなかったパソコンを使う仕事を手伝ったりしていたが、現地へ行きたくてネットで知った「週末ボランティア」に連絡して参加した。神戸三ノ宮から地下鉄で終点の西神駅へ行って駅構内で集合する。それから歩いたりバスに乗ったりしていろんな場所にある仮設住宅に行き居住者から話を聞く。3人くらいのひと組で、もどると報告書を書いて話し合う。

それに参加するほかに、報告・感想を「週末ボランティア掲示板」に書いていたら、パソコンがない人が多いからプリントして配りたいと相談され、3年くらいのあいだ編集してプリントアウトして事務局にファックスしていた。それをプリントして綴じ次の参加者に配る。猫のイラストなんかいれて楽しいと好評だった。

そんなある日、正月を過ぎてまもない冬の日に震災ボランティアのネット関連者たちのオフラインミーティングが三ノ宮で開かれた。わたしはボランティアのメンバーの1人やからええやろと勝手に参加した。中心の人たちの顔を見たい。
そのとき来ていた1人が部落解放同盟のKさんだった。わたしはKさんのブログを愛読していたので、顔を見られ、話ができるのでうれしかった。全部で10人くらいで女子はわたしひとりだけ。食べるものをそれぞれ持ってくるように言われていて、わたしは巻き寿司とおいなりさんを持っていった。
隣にすわったKさんが出したのが「魚の煮こごり」、いまこの本でわかったのだが兵庫のソールフードだったんだ!

兵庫県の海で獲れた魚だが、昔から普通の漁師さんが見向きもしない魚だという。しっかり煮付けてあって、汁は煮こごりにしてあった。
わたしは自分の母親の煮魚が好きだったのですぐに手を出し魚の身と煮こごりを食べて「おいしいです。これ好き〜」といった。
だけど、男子連中は見るだけで箸をつけたのは2人だった。みんな酒飲みで、瓶が空くと一升瓶を買いに走っているくらいなのに飲むだけで食べない。巻き寿司は好評だったけど、なんで魚を食べられへんのやろと不思議だった。みんなファーストフードに取り込まれているのかな。
わたしはずいぶん食べたけど、魚はけっこう残ってしまった。残りを黙々としまい込むKさんは寂しそうだった。
それ以来Kさんには会っていない。

その後だいぶ経ってから近所に「かすうどん」の店ができた。一度行って食べたらおいしかったが日常的にうどん屋に行くということがないからそのままになっていた。今日この本を読んで「かすうどん」のことをいろいろ知ったのでこれは行かねばと思っているところだ。

焼ける前の大阪、川と船(わたしの戦争体験記 67)

焼ける前といっても昭和16年に入学し4年生の夏休みに疎開したから3年ちょっとしか大阪市の学校に通っていない。いま長堀通を西に向かって歩くと北側に日新会病院があるが、そこが西六国民学校の跡地である。校名を記した立派な碑が立っていて「あたしはここの学校に通っていたんや」とちょっとうれしくなる。病院ができたとき碑もできた。

毎日のように同じ路地に住むさかえちゃんや堀江に住む芸者さんの子と遊んだ。夕方暗くなるころ「さいなら、またあした」と別れて問屋橋を走って渡る。橋に身を寄せて眺めると川には船がたくさん留めてあった。どの船にも大きい看板があって船名のほかに「たばこのむな」と大きな文字で書いてあり、船によってはハングル文字が書いてあった。
夕暮れの船は寂しそうで見ているとなんだか哀しくなったものだ。でも、晩ご飯に遅れるから走ったけど。
船には川に落ちないように用心せよというようなことも書いてあったような気がする。

期日前投票にいった

今日も雨は降らないがうっとおしい日だった。洗濯したが干していいものやら迷っていたら、雨の降らぬうちに期日前投票に行こうという意見があり、そうやな行こうかと洗濯物をおいて出かける支度をした。支度っていっても、お知らせ封筒と広報紙を出して入れる人を確認するだけだけど。昨日話し合って決めてあるんで早い。
雨が降ってきても大丈夫なようにビニールのレインコートをカバンに入れ、車椅子にちょこんと坐って夫に押してもらう。区役所に着いたら投票室は空いていてゆっくりと投票した。

帰りは図書館に寄ろうと車椅子押してもらっての本棚めぐり。
いちばん奥の児童書コーナーが昔からのお気に入りの棚である。車椅子を降りて杖をつきながら久しぶりにゆっくり見て回った。読みたい本はあるのだが、目下読む本が山積みである。タイトルだけ見て満足することにした。そのうち借りるか買うかしよう。

1冊だけ目に飛び込んできたケルト民話集の『ディアドレ』、知らない本なんだけどすぐに読みたくなり借りてきた。さっき読み出したが単純な短い物語でおもしろい。

投票して、本を借りて、公園で休んで持参のお茶を飲み、餌を持ってくる人を待つ猫と、鳩と、雀を眺め、いい午後を過ごした。

焼ける前の大阪、川があって馬がいた(わたしの戦争体験記 66)

れいわ新選組候補者の一人やすとみあゆみさんが馬を連れて新宿に現れたのをツイッターの動画で見た。その数日後に見た演説会の動画では、やすとみさんは馬と人について語られていた。そうだ、そうだ、わたしが子供のころ、近所の道を馬が歩いていて、決まったところで水を飲んでいた。水は道路脇に水道栓があって容器に溜めた水を馬が飲めるようになっていた。
道路には馬糞が落ちているので歩行注意だったっけ。フンを撒き散らしながら歩いている馬もいた。そうだ、馬が日常的にいた。

家から格子戸を開けてろーじ(路地)へ出て石畳の道を抜けるとアスファルトの道へ出るのだが、路地の終わりのところに大きな水たまりがあった。天気が良いと空が水に映って美しい。のぞいていると吸い込まれそうだった。
水たまりをそおっとまわって大通りに出ると、アスファルトなのに水たまりが多くて、溜まった水にガソリンがこぼれてピンク色に染まっている。美しい縞模様にうっとりした。いま思い出すと路地から出たすぐのこの道は新町南通になるのかな。そこからもうひとつ南の川に沿う大きな通りはいまの長堀通りだ。いま地下鉄があるところは川だった。
川に橋がたくさんかかっていて、走って渡ったり友達と手をつないで渡ったりした。よく覚えているのは白髪橋と問屋橋だ。ずっと東に行くと「橋を四つ渡りけり」の四ツ橋がある。橋の向こうは北堀江。友達が住んでいてよく遊びにいった。北堀江も新町も色街だった。
馬が荷車を引いてぽこぽこ歩いていて、荷車にはおっちゃんが前方を見ながら坐っていた。

戦中を支えてくれた本たち(わたしの戦争体験記 65)

わたしは国民学校(小学校)に入学する前から本を読んでいた。読めない文字は抜かしてストーリーを追っていけばなんとかわかった。翻訳物で『小公女』『イエローエンペラー』、少女小説は吉屋信子の『紅雀』と川端康成の『乙女の港』が宝物だった。田舎のわら屋根の下でこれらの本を抱いて眠ったものだ。そらでいえるほど何度も読んだ。
その他に大人の本もあった。これは父親が戦災から逃げたときに必要と送った荷物の中にあった。思い出せるのは徳富健次郎(蘆花)の『みみずのたはこと』とE・C・ベントリー『トレント最後の事件』だ。

先日本の整理をしていたら『みみずのたはこと』上下の文庫本が出てきた。だいぶ古びているが読めるので、むかし次兄が読みたがっていたのを思い出して電話したら、昔の情熱はなかったがくれというので送ってやった。届いたともいってこないが、読んだかしら。

ここまで書いてわたしも『みみずのたはこと』を読みたくなった。ものを減らそうとしているときに新しく買うのもなあ・・・そうそうこれだと困ったときの「青空文庫」で探してみたらちゃんと入っていた。さっそく読み出したら、のっけからいかに自分が田舎者かという話で思わず笑ってしまった。これで当分楽しめる。この本を読んで戦中戦後の苦しい時代を疎開少女が乗り切ったんだと思うとせつないものがある。

爆睡の予定が・・・れいわ新選組の動画

昨夜は夜中過ぎてから爆睡の予定で本を片付けて台所も片付けた。最後にミクシィをちょっとのぞいてからツイッターにいったら、「れいわ新選組」が東京秋葉原で街頭演説会をやっている動画があった。野次馬根性で先日から山本太郎さんの動きをネットで追っていたので、これを見なくちゃと座り込んだ。いやー、面白かった。政治問題を面白いといったら悪いが、ほんまにメンバーそれぞれの個性があふれていてよかった。

まず、いまの日本の現状を代表しているといっていい10人を集めたことにびっくりした。そしてその10人の個性に驚いた。そして立候補したみなさんが、即、想いを語り、演説したのにもびっくりだった。

最後まで見たら結局3時過ぎてしまい、寝つきはよくなかったけど、眠ってしまえばこっちのもの、明け方まで爆睡だった。
今日は目が疲れているが、なんとか本を読みネットも読んでいる。

桑の実に再会(わたしの戦争体験記 64)

わたしは桑の実に過剰な愛情を持っている。第二次大戦中に大阪から山梨県へ疎開したのは国民学校4年生の夏休み中で、さっそく宿題を出された。桑の枝の皮を剥いて乾かして束ねて新学期の初日に持ってこいというのだ。
居候先の叔母の家では蚕を飼っており、毎朝毎晩桑の葉をもいでは蚕に食べさせていた。わたしが桑畑で見つけたのが桑の実だった。真っ赤な実を口に含むと甘くてうまくておどろいた。それ以来実のなった桑の木を見つけるとちぎって食べていた。これは誰にも怒られなかったからうれしい甘味補充であった。
2年後に大阪へもどってからは桑の実の思い出だけが増殖していった。
大人になってから長野県の人が桑の実ジャムを作ったのが手に入って喜んだが、甘すぎてどうもあの野生の味とは違う。そのまま思い出だけを残したままで、いままで過ぎた。

今日夫が無農薬野菜のライオンファームへ買い物に行ったら、奥さんへと紫陽花の枝を数本くれた。ガラス瓶に入れたら涼しげでいい感じ。喜んでいたら「これはどう?」と野菜の袋から小さな包みを取り出した。「ありゃあ、これは桑の実じゃん」わたしの桑の実好きを覚えていて買ってきてくれたのだ。200円だったって。
見るのも食べるのも75年ぶりである。国民学校4年生の夏に疎開先の山梨県で食べて、翌年、翌々年も食べて、それ以来だ。
ライオンファームさんは出かける前に近所の桑の木から実をもいで出発したそうだ。採れたてのほやほやを車で1時間ほどかけて運んでくれた。

味は、う〜ん、もっと甘かったような気がするが、戦争中のなにもない時に枝から採って食べたのだからさぞ甘かったろう。
それにしても、いつも桑の実のおいしかったこと、桑の実で救われたことを話しているが、なんとかしてまた食べようとまで思わなんだ。
こんなもんかなあ、あまりうまくはないなあ。でも「いつかは」とは思っていたなあと納得している。

ツイッターにうれしそうに書いたら「最近はマルベリーで、たまに見かけます。」と教えてくれたSさん、ありがとうございます。桑の実をマルベリーというのも知らなかったわたし(笑)。

今回は「わたしの戦争体験記」の第1回【ブラックベリーと桑の実(わたしの戦争体験記 1】(2018/7/30)に続くものとして読んでください。