「撃ちてし止まむ」てなに?

わたしは昭和16年に国民学校(小学校がこの年から国民学校になった)に入学した。6年生が終わったときに国民学校が廃止されて小学校と呼ばれるようになった。だからわたしは小学校の生徒になったことがない。
国民学校1〜2年生のときは軍国主義教育の始まりの時期だったが、新町の子だし、どっちかというと都会の子供という感じでのんびりしていた。3年生になってから急速にすべてが戦時下的になっていった気がする。

夏休みが終わって宿題の習字や図画を提出すると、全員の作品が壁に張り出される。
習字では、ほとんどが1枚の半紙に「撃ちてし」「止まむ」と2行に書いてあった。意味がわからないわたしは頭をひねったが、先生がこの言葉を教えていたときはぼっーとしていて聞いていなかったのだろう。先生の言葉から推し量って「にくい」と「米英」と2行で書いた。もちろんボツ。でも意味のわからん言葉は書きたくなかった。執念深く70年以上経っても覚えている(笑)。

「撃ちてし止まむ」を検索したら、【出展は古事記の神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつが、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。】とあった。
そうなんだ。だから昭和18年の夏休みに習字の宿題に出たんだ。無視したわたしはよく叱られなかったなあ。

失われた2年間を振り返る

今日は8月15日で敗戦の日。ウキペディアには1945年(昭和20年)8月15日に玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日」とある。73年前の今日、わたしは玉音放送を叔父と叔母の家の葡萄棚の下で聞いていた。部屋のラジオからかすかに天皇の声が聞こえていた。集まって来た近所の人たちや大人はみんな「戦争に負けた」「終わった」「よかった」「息子が帰ってくる」と口々にいっている。庭の隅には掘ったばかりの防空壕があって(山梨弁が出てこないので大阪弁)「もうこれはいらんようになったな」「一度も使わんかったな」と叔父さんたちがつぶやいていた。
この防空壕ができたのは最近で、わたしは前日壕の中に入れてもらった。3段くらいの階段を降りると6畳くらいの部屋が作ってある。物を置く場所もあって、お米などの備蓄食料やら衣類の箱やらが積んであった。
いま考えると大人たちは真剣に防空壕に入るとは思っていなかったような気がする。上からの命令だから作ったのだろう。

大阪では3月に大空襲があって、わたしら一家の住まいはB29の爆撃にやられてなにも残っていない。井戸におろしておいた荷物は翌日明け方にとりにいったらすでに盗まれていたそうだ。
わたしは1943年の8月に国民学校4年で大阪から疎開したのだが、翌年3月の大阪大空襲で焼け出された家族はばらばらになった。次兄は甲府の叔父の家で7月6−7日に再び米軍の空襲に遭って火の中を自転車で後屋敷村まで逃げてきた。その後兄は再び甲府に住まいを見つけた叔父の世話になって帰阪が遅れた。

母とわたしと弟と妹は叔母の家の近くの農家の納屋を借りて住むことになった。台所も押入れもない一部屋で隅にふとんを積んで、もう一方の角には勉強机、真ん中に食卓という時代劇に出てくるような貧乏暮らし。土間だけやたらと広かった。近所に住む母の従兄弟が野菜などを土間に放り込んでくれた。ちょっとした植え込みや林では落ち葉などを拾いかまどでご飯を炊いた。チョー貧乏暮らしだったが、気持ちは落ちぶれた姫のつもり(笑)。
ここで1年過ごして、1947年夏に大阪へ帰った。両親と子供7人そろって住むことになったのは狭い文化住宅だった。

※疎開暮らしのあれこれを思いつくままにぼちぼち書いていきます。
疎開から帰ってからは、疎開のこと、山梨県のことを考えないようにして生きてきた。叔母さんに便りもせず、従兄弟たちともつきあわず。いま73年ぶりに記憶を蘇らす。

扱いにくい子

叔母夫婦の家(母の実家)へ着いて3日後に噂を聞いて近所に住んでいるK子さんが遊びに来た。ここの国民学校は1学年に1組だから同じクラスになる。母と叔母が仲良くしてねと頼んでくれた。姉にもらった着物を着た人形と着替えの着物を見せると、すぐに着替えさせて遊び出した。「良い着物はどれ?」はすぐに返事ができたが、「いな着物はどれ?」がわからない。「いな」が「否」とわかるまでだいぶかかった。
K子の家はいちばん近くだが道路と畑を隔てたかなり向こうだった。それから2年は否応なく彼女と連れになって過ごすことになった。

わたしは東京で生まれて5歳で大阪に転居したので言葉で苦労した。ようやく関西弁に慣れたのに、今度は関東系の言葉である。もともと無口だったのがよけいに口をきかないようになった。いまそういうと嘘やと笑われそうだが、ほんとに10代のはじめまで無口でとおした。
山梨弁は関東弁をもひとつ田舎弁にした「そうけ」とか「そうずらよ」とか、いまになれば深沢七郎の小説でなじみだけれども、だんだん慣れてきて日常的に使うようになった。
それにしても、山梨県では大阪は異界だった。「この子は扱いにくい」という祖母の口調が思い出される。

わたしの手足はブヨのご馳走

わたしが咬まれまくり掻きまくってデキモノになったブヨは「関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる」とウィキペディアに出ていた。小さな黒い虫で気がついたときはしっかり咬まれている。腕と脚は掻いて血だらけ。大阪から持って行ったメンソレをつけたって効くはずなし。富山の薬屋さんの薬を叔母さんが塗ってくれた。血を拭って包帯を巻いたがその上から痒い。現地の子は慣れてるとみえて掻いている子は全然いなかった。それからのまる2年、体操の時間は見るだけであった。おかげで元々あかんかった鉄棒や跳び箱は見学だけ。6年生になっても試験のときなど特別に跳び箱3段(笑)。

持って行った夏物ワンピースを最初のうちは着ていたが、やがて学校からモンペをはくように命令がきた。ピンクに白い花模様のと、グリーンに白い子犬もようの服がお気に入りだったが、絣のモンペに着替えた。それでも母が縫ってくれたピンクを織り込んだ絣だったのが救い。モンペの上からもブヨの噛み跡を掻いていたっけ。

田舎の生活はいやでしようがなかったが、救いは桑の実とあちこちから湧き出す泉だった。ちょっとした石が積まれた奥に冷たい水が湧いていた。村の名は当時「御屋敷村字清水」だったが、地名にまで「清水」と入っているくらい水がきれいなところだった。ブヨに噛まれた足に泉の水は冷たくて気持ちよかった。

ブヨは噛まれたときはもう遅い。腕にたかっているのを見たらすぐに叩くのだが、いつも遅れる。小さいくせに強烈な毒針を持っていた。夕方が特に好みの時間帯みたいだ。
とにかく腕と脚の表面がずるずるで包帯だらけ。傷には包帯しないほうがいいといわれても、汚い腕や脚を出すのもいやだった。

疎開少女の友『小公女』と『イエロー・エンペラー』

『小公女』は姉から譲られた本で小学校へ行く前から読んでいた。いまも大好きでときどき読む。逆境から抜け出して幸せになるところがいまだに好き。夜中に物音で目を覚ましたらベッドには暖かい毛布がかかっており、暖炉が燃え、食事の支度ができている。夢かと触ってみるとみんな本物だった。戦争中のこどもにはありえないことだが、夢を見るのは自由だ。

『イエロー・エンペラー』は、戦後になって出た村岡花子訳の文庫本『リンバロストの乙女』上下を大切に持っている。『イエロー・エンペラー』にわたしがあんまりこだわるので読書会に来ていた図書館員が調べてくれたら千里の児童図書館にあるのが判明。わたしは千里まで行って懐かしの本に再会できた。コピーをとってもらって(コピー代6000円払った)大事に保存してある。3年生の誕生日に父から贈られた本で、いま読むと翻訳が下手くそでしかも抄訳だが、空想でふくらませて主人公エルノラに憧れていた。みじめな疎開少女のわたしはこの本で自立することを学んだ。無神経な田舎の大人や子供の言葉がつきささったが、黙って耐えることも覚えた。孤独に桑の実を食べながら。

疎開するにあたって父からたくさんの本を田舎へ送ってもらったが、ほんとうにわたしは本で命をつないだといっていい。これも大事な人形とともに物語を紡ぎながらカイコのガサガサ桑の葉を食べる音を聞きながら眠った。

桑の枝の皮をむいて供出

山梨県へ着いたのは夏休みがはじまって間もなくだった。母と学校へ行って先生に挨拶したらすぐにお国へ協力するようにいわれた。桑の枝をむいて乾かし束にしたものを二学期の最初の日に持ってくるように。集まった皮は繊維にする。そして軍服になるのだとのこと。
叔父が桑の枝を切ってきて、母と姉とわたしで皮をむいた。わたしにはそんなことするのは無理だったなあ、これも叔父さんが助けてくれた。

母と姉と弟2人が大阪にもどったあとの二学期の最初の日、むいた皮を干して束ねてリヤカーに積んで学校へ持って行ったら4貫目あった。他の生徒はもっといっぱい持ってきていた。10貫目の子もいた。(※1、1貫目は3.75kg     ※2、この行為を「供出」といった)

この皮の繊維で作った軍服が実用になったかは知らない。学校で先生がこれがあんたたちの桑の繊維で作った服と見せたことはあった。ごわごわして気持ち悪かった。

昭和19年夏、国民学校4年生の二学期はこうしてはじまった。

ブラックベリーと桑の実

先日、完熟のブラックベリーをたくさん自分の庭から収穫してきた人からわけてもらった。口に入れると甘くておいしい。ブラックベリーは昔から瓶詰めのジャムを買って食べていたが、採れたての熟れた実を食べるのは今回がはじめてだ。口に入れて「うまーっ」と叫んだが、このうまさって経験がある。母の実家の山梨県の桑畑で採って食べた味だ。

小学校4年の夏、一学期がすんだときに大阪市の小学校(そのころは国民学校)の子供たちは田舎に疎開させられた。縁故がある子は縁故疎開、ない子たちは学校からまとめて集団疎開だといわれ、わたしは一人で母の実家の山梨県に厄介になることになった。夏休みに母は下の弟を背負い、上の弟とわたしは上の姉と手をつないで合計5人で大阪駅から名古屋へ、中央線に乗り換えて山梨県の甲府の次の駅「日下部」で降りた。そこから1時間以上歩いて後屋敷村に着いた。
母や姉と弟たちは1週間くらい滞在して大阪へもどった。わたしはひとりで祖母と叔母さん夫婦と息子2人が住む家の居候になった。叔母さんは母の一番下の妹で婿養子をとって家を継いだ。

思い出すだに涙がにじむ疎開生活。大阪新町で暮らしていた子が甲州弁の中で生きていかねばならない。東京から来た子はまだよかったが大阪っ子はいじめられた。
聞くも涙の話はまたにして、桑の実の話。
叔母の家では畑の他に養蚕をしていた。母屋の上に2階と3階があり、低い天井の下にカイコがムシロの上でざわざわと音を立てて桑の葉を食べていた。
叔父叔母は早朝に桑畑に出て葉を収穫する。背中にカゴを背負って採った葉を入れる。ある日、わたしは桑畑で桑の木に実がなっているのを見つけた。口に入れると甘くてうまい。これは商品ではない、食べても大丈夫だととっさに思って食べ続けた。おいしいから食べたのだけれど、桑の実のせいでビタミンCが摂取できたのだと思う。実のなる木を見つけて覚えておき摂取に励んだ。けっこう寒くなるまで実っていたっけ。現地の子はだれも食べてなかった。

それから半世紀くらい経ってから、長野県の物産展で桑の実ジャムを見つけて買ったことがあった。調味料のせいで甘すぎ。その後また忘れていた。
八ヶ岳に登った時など山に入るまでの道で畑を目で追ったけど、桑畑はあったけど実のなっている木は見当たらなかった。

地震、大雨、酷暑、台風

6月18日の朝に地震があった。書いておくととても便利で、「大阪府北部地震 震度6弱、震源の深さ:13km、地震の規模:M6.1」というタイトルを見つけてコピペし、そうやった〜と納得した。余震がたいしたことなくてよかった。それから梅雨に入って大雨だ。でも大阪はたいしたことなく早めに梅雨明けした。

だけど西日本豪雨ではマスコミのニュースによると、死者126人、不明79人の大災害が起こった。
今回、友だちの親戚のおうちが被害を受けた。家や車が大打撃の様子を聞いてショック。早く復興できますように。
阪神大震災のときの様子を思い出し、第二次大戦の空襲を思い出し、父親に聞いていたはるか昔の関東大震災を思い出した。

梅雨が短かかったので、今年の夏は長いでとしゃべっていたら、セミの声も聞かないうちに猛暑に突入。毎日毎日、暑い暑いといつもはなかなかつけないクーラーを早くからつけて日常生活を送っている。
その暑さの中で台風が発生。台風のコースがいつもと違うそうで、ラジオのニュースを読む人も慎重である。最初のほうの予想ではどうやら東から西へ向かっており、ほとんど大阪直撃っぽかった。いまは少しそれたようだ。だから一安心というわけにもいかないだろうけど。とにかくここでこの日記をアップしておこう。これから経験して、明日になれば結果がわかる。お風呂に水を溜めておかなくちゃ。

今度は台風、そしてヴィク・ファン・クラブ会報の件

今年はしんどい年だ。地震があって、大雨が降って、そして酷暑の毎日と厳しい気候が続いている。そこへ今度は台風がくる。明日の夜はどのように過ごしているだろう。どんな規模の台風がやってくるのだろう。

台風がくる前にポストに行きたいと、ぎりぎりになってヴィク・ファン・クラブの会報づくりに追われている。10日過ぎから気になっていたのに、とりかかったのは15日過ぎで、それからはしんどくてなかなかやる気が起きない。暑さのせいにしとこ。

おとといになってようやく9割がた形になった。昨日は「あとがき」を書きプリントした。まだ綴じ仕事が残っている。封筒作りをしたら、宛名シールを貼る糊が切れていて買いに行った。ぶうぶう。
これから綴じて封筒入れして切手貼って送るのを予定としては今日中にやる。または明日起きたらすぐにポストに入れに行く。

マイク・デイヴィス『スラムの惑星』の扉に圧倒された。外は歴史的大雨

ラジオのニュースをかけて食事している。今夜は歴史的大雨のニュースが中心だ。各地に想像を絶するような雨が降ると野村アナウンサーが告げている。今夜はときどきラジオをかけつつネットニュースにも気配りしようといいながら晩ご飯を食べた。片付けも早めにちゃっちゃっとやった。

先日からアマゾンで何冊か本を買って読むつもりでいるが、雨に圧倒されて集中できそうにない。在庫本を開いてお気に入りのところを読んでいる。まあ、これも楽しいのだが。

今日届いたマイク・デイヴィス『スラムの惑星』(明石書店)は数年前に図書館で借りて読んだことがあるが、今回「酒井隆史 監訳」というところに思い入れがあり買うことにした。開いて驚いた。いきなり扉に1行「都市は発展して、スラム、半スラム、超スラムになってしまった」(パトリック・ゲデス)とある。圧倒された1行。