太平洋戦争開戦日(わたしの戦争体験記 77)

前に書いていて重複するかもしれないが、いまの記憶で書く。
今日12月8日は「太平洋戦争開戦日」だ。 1941年(昭和16年)だから78年前のことである。1941年12月8日、日本はアメリカの太平洋艦隊の根拠地・ハワイの真珠湾を急襲、アメリカ・イギリスに宣戦布告をし、太平洋戦争がはじまった。

我が家はいつものように父母が7人の子供たちに朝食を食べさせ職場と学校に行かせた。わたしは一年生としてランドセルを背負って西六国民学校へ行った。学校ではいつものとおりだったと思う。まだ戦時色はなかったような気がする。
お昼前の4時間目前の教室へ父親がやってきて先生になにか話している。よろしいと返事があって父が呼んだので、わたしはついていって阪急電車に乗り、父の働く会社についた。
その日は年末近いのにも関わらず会社の祝いの会だったようで、舞台のついた広い食堂ではお弁当が出て社員たちが和んでいた。舞台には漫才や落語や流行歌の芸人が芸を披露して午後遅くまで賑やかだった。いま思うと会社の戦時特需だったのかも。
父の姉が紹介してくれた会社で東京から移転してきた父と姉2人が働いていた。戦時の特需というか鉄工の仕事は忙しかったのだろう。長女は経理課、次女はタイピストとして働いていた。

夕方にお開きになり、父と二人で帰ったのだが、阪急電車が梅田に着くと駅構内がものものしい雰囲気だ。いつも空いているシャッターが閉められ薄暗い。号外が出たのか夕刊か床に新聞紙がばらまかれている。ちょっと違和感を感じる風景だ。
駅ビルの外はすっかり夜で真っ暗だ。新町の家に帰るのに市電に乗ると、乗客たちが殺気立っている。父はこどもを連れているんだ、ちょっと奥へ入れてくれと叫んでいる。ようよう奥へ入れて家に帰れた。
「戦争だ、大変だぞ」と拾ってきた新聞紙を広げて父がいう。ハリウッド映画とジャズとミステリをこよなく愛している父にとって大変な時代がはじまった。わたしにはまだなにもわからなかった。疎開もB29空襲もまだまだ先の話である。

人生が始まったときに疎開があり、つぎにアメリカ軍の空襲で生活基盤を根こそぎ失った。それでもわたしは開戦から78年生き延びていま85歳である。そうだよ、どっこい、おいらは生きている。

吸血虫 ブユ(わたしの戦争体験記 76)

ブユまたはブヨに噛まれて大変だった話は早めに書いたような気がするが、山梨県で過ごした最初の夏に足と腕を掻きまくり、死ぬような思いをしたことをしっかり書いておかねば。

ブユは知らぬ間に忍び寄り血を吸っていく。腕や足のすねに小さな黒い点があるとそれはブユ。素早く叩くと噛まれたあとでも爽快だ。赤い血を残してつぶれたブユを見ると笑みが浮かぶ。つぶれたブユを見ているとその隙に次のブユが噛んでいたりするが。
わたしは毎日毎日腕と足のすねを掻きまくって血だらけだった。メンソレータムを塗りまくって、出血が止まらないと包帯を巻いた。庭の木の枝にはわたしの血を洗った包帯が風に揺れていた。いまでも包帯を巻くのはうまい、バンドエイドには負けるが(笑)。

学校に行くと病人は体操を休めたので、病身のAさんと二人でいつも見学だった。意地悪な子はくみこさんは仮病だとわたしに聞こえるようにいっていたが、なんのその、体操は休んだ。おかげで6年生になっても鉄棒と跳び箱は最低のままだった。逃げ足が速いから走るのは得意だったけど。

長じて登山に目覚め槍ヶ岳に登ったこともあったが、日常的には六甲山に登っていた。単独行と称して一人で登ることが多かった。関西の山ではブユはあまり出会わないが、たまには噛まれることがある。長袖シャツ、長スボンで山登りしていても顔を噛まれることがあるし、シャツの隙間から忍び寄って噛んでいくことがある。

ブユの一番好きな時間の夕方に道を歩くときは、鈴の音を響かせながら歩いたらいいと祖母が教えてくれたのをいま思い出した。

休息村の記憶(わたしの戦争体験記 75)

戦時中のことを考えていたら突然「休息村」を思い出した。なんか芋畑の芋づるのように記憶がずるずる出てくるのがおかしい。
山梨県に疎開したときに隣村に住む遠縁のおばあちゃんが、ある日疎開先の家にやってきた。母親が来ていると聞いて会いにきたのだ。母とは親しげでイトコかハトコといった間柄のようだった。母は「休息村のおばあちゃん」と教えてくれた。「休息」という変わった地名は、昔、日蓮聖人が歩き疲れてどっこいしょと休息村の道端の石に腰掛けて休息したからだという。わたしはおもしろく受け止めて、それから休息村という言葉を忘れていない。いまは他の村と合併して東雲村となり休息村は廃止されている。なんか残念。

わたしがいた後屋敷村(ごやしきむら)とは橋ひとつ渡ったところの村で山道が多くて歩きづらかった。川もけっこう深かった。でも、ここで日蓮さんが一休みしはったんかと思うと登り道がつらくなくなった。それに座りはった石というのに座るのがなにか楽しかった。ほんまかいなと思いつつ。

※ウィキペディアには【休息村(きゅうそくむら)は山梨県東山梨郡にあった村。現在の甲州市勝沼町休息にあたる。】と書いてある。

戦争が終わっても(わたしの戦争体験記 73)

1945年(昭和20年)8月に戦争が終わった。夏休み前には勇ましいことをいっていた先生が、少してれくさそうに手のひらを返して2学期の授業を始めた。1学期から使っている教科書を墨で塗りつぶしたり破ったりを先生に言われるとおりにして、残ったところが教科書だった。勅語と国歌から解放された。

疎開児童は住むところがある子からもどっていった。まず家が焼けなかった子が姿を消した。焼け出された子は疎開した家に引き取られて田舎の子になる子もいた。私は帰る組だが、大阪大空襲で家が焼かれいるから、大阪に帰っても住むところがないじゃんと田舎に腰を据えた母と弟妹と4人で納屋暮らしを続けた。
この暮らしは戦争中よりもきつかった。田舎の人から同情されることもなくなった。大阪から送れるものはすべて送ってもらって食料に換えた。「これだけは」と置いてあった着物もみんな食べ物に代わった。

母は若い時に学校の先生をしていたそうで、そのときの生徒の子供がわたしと同じクラスにいたため、ときどきお米や野菜を我が家に放り込んでくれた。学校の先生もそのときになってわたしが母の子であるとわかり、「久美子さんは知子さんのボコだったのけ」とうれしがってくれた。疎開生活もたまに楽しいことがある。利害だけでなく善意のやりとりだってあった。

こうしてわたしの一家4人はすぐに大阪に帰れず、1年間疎開先にとどまった。戦後の1年間は苦しかった。兄はのちに「ちょっとだけ離れたところの友達の家は焼けずに、戦後すぐに大学に行ったのに、おれは働くしかなかったもんな」ともらしたことがある。きょうだいみんな勉強できたのにお金がないから上の学校に行けなかった。

いろいろあったけど、どっこい、おいらは生きている。

奉天 3(わたしの戦争体験記 72)

いままで何度か思い出しつつ疎開のことを書いてきた。
記憶から小刻みに出てきたのだが、今日はもうちょっと記憶を掘り出し、すこしまとまったことを書こうと思う。
太平洋戦争がはじまったのは昭和16年12月8日でわたしは国民学校(この年から小学校が国民学校になった)の1年生だった。2年、3年は都会の子供としてのんびりと育ったが、それでも授業前に勅語を音読し「君が代」を歌うように強制されていった。
町内の青年たちが戦地に赴くのを見送り、遠い戦地から遺骨で還るのを出迎えにいった。

学校が疎開を勧めだしたのは4年生になったときだ。先生から子供を預けられる人はこの用紙に書いて届けるようにと紙が配られた。わたしは「うちにおいで」と前からいっていて、粉浜に移転したさかえちゃんのところに行きたかったが、知り合いはダメ、親戚をと先生がいって、母は「久美子一人預かってくれと妹に頼むか」ってことで手紙を出した。「お国のためなら」と承諾してもらったので、わたし一人が叔母の家(母の実家)に預けられることになった。のちに次兄が甲府の叔父の家に世話になった。甲府は二回爆撃があり次兄は2回戦火の中を逃げ惑うことになった。

4年生の1学期が終わるとすぐに山梨県へ出発した。家が焼けるだろうことは無言の承諾があったような気がする。すでに入り口を板で打ち付けた家もあった。級友とは疎開についてあまり話さなかったように思う。それぞれ黙って消えていった。

大阪を出て行く日は、母とハタチくらいの長女と一年生の三男と赤ん坊の四女といっしょに家を出た。母と姉は食料買出しも兼ねていた。姉たちの晴れ着を米や芋と換えてもらう。
市電で湊町へ行き、関西線で名古屋へ。夜の8時ごろだったか名古屋に着いて中央線に乗り換えて塩尻へ。わたしは姉が縫ってくれたピンクのワンピースを着て、手に『奉天』の本を持って汽車に乗っていた。昼も夜もその本を読んでいた。表紙に処刑されている士官の姿が描いてあった。
翌朝、たしか新宿行きに乗り換えて日下部下車。1時間ほど歩いて叔母の家にたどりついた。

母の姉が東京から来ていて口やかましく行儀よくするように説教する。叔母(母のきょうだいの5女)は東京の女学校を出たので田舎にいてもしゃんとしていて、大阪弁を馬鹿にしていて付き合いにくかった。自分の子供を中心にしていてわたしは無視された存在だった。久美子は全然勉強しないと母に度々手紙を出し、それを読んだ母はわたしに「勉強しなさい」とハガキを寄越すのだった。

『奉天』の本は何度か読んだと思うがはっきり理解できなかった。そして父がなにを思ってその本をもたせてくれたのかわからずじまいでいまに至る。

先日から村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいて、ノモンハンについて学んでいるところだ。日本軍について少し知り、奉天で処刑された日本兵に思いを馳せている。村上春樹の書いている非道な戦争の記述が胸につきささる。

戦時中もおしゃれにこだわり(わたしの戦争体験記 71)

最近このあたり、新町〜堀江に高級マンションや高層マンションがたくさん建って子供人口も増えている。わたしが近くの医院、整体院、郵便局なんかに行くとき、学校帰りの子供たち、母と子の二人連れや乳母車や自転車の三人連れとよく出会う。この辺の子たちは垢抜けした服装で持ち物もかっこよくつい見惚れてしまう。

子供達を見ていると、あっそうやあたしもこのへんの道を歩いて通学してたんやなあと懐かしくなる。わたしの行った西六(さいろく)小学校は戦災で焼けて無くなってしまったが、堀江小学校と明治小学校は残っていて発展し生徒数も増えている。いまの子らが歩いている道を戦争前から戦争中のわたしは歩いていたのだ。

いまの子もおしゃれだが、私の時代の子らもおしゃれだった。歯医者さんのお嬢さんを中心に裕福な子のグループがあって、わたしはあまり近づけなかった。着ているものが違う。身体検査のときレースの下着とかちらっと見えて。いまだに覚えている執念深いわたし(笑)。

なぜか5月になったら半袖のセーターを着ると思い込んでいて、ちょっと寒くても半袖にこだわって母親に出してもらった。布でなくて毛糸または糸を編んだものというこだわり(笑)。

奉天 続き(わたしの戦争体験記 70)

おとといの日記「奉天」を書いていて気がついたことがあった。
最後の一行〈いまになって「奉天」という言葉に郷愁を誘われている。あの本はどんな話でどんな主人公だったんだろう。〉に続いて思い出したこと、考えたことを書いておく。
山梨県に疎開する娘を見送りにきた父親が渡してくれた本には、奉天で処刑された陸軍少佐のことが書かれていた。いまになればおぼろげな記憶でしかないが。汽車に乗るときは国粋主義をかぶれと父の深謀だったのだろうか。

本の内容は奉天で処刑された軍人の話だった。おとといの夜から「奉天」という言葉が胸のなかでだんだん大きくなっていった。
そこで「奉天 処刑」で検索してみたら「観るナビ」に以下の文章があった。
〈『中村震太郎少佐の墓』中村震太郎は昭和6年、陸軍参謀本部の命令を受けて満州に渡り、視察中、奉天興安屯軍に処刑された。この事件が満州事変の発端となった。当時、「護国の神」として全国民に仰がれた〉
そうだ、この人について書かれた本だった。あまりにも死者を美化していて疎開列車に乗った子供には怖い本だった。
ずっと山梨の記憶を封印していたので、「奉天」を思い出すこともなく暮らしていたが、今年になって「疎開を書く」気持ちになったとき、「奉天」の記憶も融けた。これはついおととい。

奉天の本は最後までよう読まずにリュックに入れて田舎に持って行ったが、結局風呂の焚付けとなった。
疎開生活中は相変わらず『小公女』と『イエローエンペラー』と吉屋信子にこだわっているわたしがいた。2年後に引き上げて大阪にもどるとき、坂の上で振り向いて山梨にはもう一生来ないと誓ったわたし。20代で八ヶ岳に登ったのは別として。
80歳を超えて「もう解禁してもええやろ」とひそかにつぶやいたが、いまは足が悪いので解禁はどうなるやら。
甲州ぶどうが食べたい。

奉天(わたしの戦争体験記 69)

『週刊現代』の写真ページを読んでいたら「ノモンハン事件」の写真と解説が載っていた。わたしは戦争中の子だから言葉だけはよく知っている。関わった人として辻政信って名前は知っている。でも言葉を知っているだけで、どんな出来事だったか、どんな人だったのかまったく知らない。
本棚から家永三郎さんの『太平洋戦争』を夫が出してくれたのでぱらぱらめくっている。詳しくてわかりやすい。でも、こんな厚い本を全部よう読まんから単語を見つけたら要所を読むことにしよう。

それで思い出したんだけど、疎開したとき乗った夜行列車で読む本がいるだろうと父親が持たせてくれた本があった。その本をもらったとき、父はいつも古本屋で買った翻訳物を読めというから、おかしいなと思ったのだ。
いまも内容がつかめてないが、生真面目な青年将校のような人の話で、最後は奉天で処刑されるんだったか、処刑を免れるんだったか。母と長女と弟と4人で湊町から出る関西線に乗った。名古屋で中央線に乗り換え、塩尻で東京行きに乗り換えて日下部駅で降りる。

わたしが持ってきたのは『小公女』とか吉屋信子作中原淳一絵の乙女ものだったから、生真面目な青年たちが悲痛な運命をたどる筋にはついていけなかった。「お前の本は出すなよ」といわれていたのでリュックの底に入れておいたが、父の心配で終わったようで、女の子が持っている本まで調べられることはなかった。
戦中に翻訳ミステリーを娘に読ませたがる人だから世の中の動きを用心したのかな。

いまごろ「奉天」という言葉に郷愁を誘われている。あの本はどんな話でどんな主人公だったんだろう。

兄たちのゲートル(わたしの戦争体験記 68)

去年の初秋に買ったふくらはぎサポーターの具合がよくて、真夏を過ぎたころからつけている。クーラーの効いた部屋にいるときに最適だ。贅沢をいえばもう少し長くて膝もカバーできたらいいと思うが、膝のサポーターは別の製品になるのだろう。膝のほうはけっこう前から何足か持っていて真冬にはタイツと二枚重ねにしたりする。

わたしが国民学校3・4年生のとき、上の兄は中学生、下の兄は国民学校5年か6年だった。二人とも学校へ行く朝は玄関でゲートルを巻く。
学生服なのか国民服の学生版なのか、二人とも国防色の制服を着て足にはゲートルを巻いていた。ゲートルを巻くのが毎朝の行事で、上の兄は何日か何週間かしたら上手に巻けるようになった。7センチくらいの幅の帯のようなもので、足首から膝下まできっちりと巻く。足首は細くふくらはぎは太いから普通に巻くわけにはいかない。途中でひっくり返してうまく婉曲している部分にそわすのだ。

できたできたと上の兄は得意そうに出かけてしまい、下の兄は悔しくてゲートルを投げたり、ぐしゃぐしゃ巻きして出かけたりした。「足を出しなさい」と母がいって巻いてやることもあったが、しっくりしなくて学校の先生に叱られたり殴られたりしたこともよくあったようだ。
そのころからふくらはぎってナンギやなあと思っていたが、いま使っているのはふくらばぎにぴったりと張りついて快適である。

母親は兄たちのゲートルの布地を「スフ」といっていたが、毛織物、綿織物の代用品として用いられた布だ。ステープルファイバー (短繊維) の略なんだって。桑の木の皮が原料の布に触った感じに似ていた。
スフの服にスフのゲートル、母は可哀想だがそれでも着るものがあるだけましといっていた。

ソウルフード 上原善広『被差別の食卓』を読んで

上原さんの子供時代の食べ物の話からはじまって、世界のソウルフードを求めた旅の話を興味深く読み終わった。そしてわたしのソウルフードってなんだと考えた。

わたしが疎開先から大阪へもどったのは1946年夏だった。新町の家がB29の爆撃で焼け、父が働く会社の寮に一家が集合したとき、知り合いの韓国人が故郷へ帰るから、空いた家に住むようにと手配してくれた。小さな家だが家具がついていてありがたい話だった。その近所には朝鮮人、被差別部落、沖縄人らが住んでおり独自の生活をしていたように記憶する。近所に住む弟の友達からの情報で、親が弟に口止めしても偉そうにわたしに伝えるのだった。

貧しい上に小さな子供まで抱えての生活は大変だった。母は近所の農家を手伝って現金収入を得ていた。内職はなんでも引き受け子供達が手伝った。
晩のおかずは必ず鯖の煮付けか塩焼きだった。それにほうれん草のおひたしがつく。思い出して上原さんが書いている「あぶらかすと菜っ葉の煮物」そのものやないかとうれしくなった。毎日母は魚屋で大きな鯖を2匹買ってきて自分でさばいていた。鯖は兄達には不評だったがわたしは大好きだった。鯖を炊いた汁にほうれん草を浸して食べるのは我が家のソウルフードだったといまごろわかった。

上原さんは世界を旅して、被差別の人たちの歴史と現状を報告している。その食べ物への好奇心には恐れ入ってしまう。本書は食べ物の話から入って差別について深く考えさせてくれる本である。
(新潮新書 680円+税)