ピンクの鼻緒(わたしの戦争体験記 45)

今日の大阪はとても暖かい。山梨県はまだ雪解けの季節になってないだろうけど、雪解けっぽい暖かさの大阪で回想する。

わたしの覚えている山梨県(約70年前)は、雪は降るがそんなに積もらなかった。積もっても30〜50センチくらいで、それでも田んぼとか道路とか一面の雪景色になる。はじめて雪が降って庭も道路も真っ白な朝は感動した。学校に着くまで雪をかき分けるようにして歩いた。下駄に雪が溜まるので、落とし落とし歩いた。すぐに止まっては下駄どうしの底をばたばたとはたいて雪落としした。雨と違って降りたての雪はぐじゃぐじゃにならないからよかった。

その最初の雪の日からときどき雪が降るようになった。普通の下駄ではラチがあかないので、とっておきの高下駄を出した。母が持たせてくれたピンクの鼻緒がついているおしゃれな下駄でまだ履いたことがなかった。学校ではみんなに取り囲まれて鼻が高かったが、すぐに雪まみれ泥まみれになった。あるとき下駄箱からなくなったので先生に届けたらすぐに見つかって、先生は「どんな高価な下駄かと思ったらこれかあ」とあきれ顔。盗む気がおこらんって(笑)。

雪解けが始まると道路はどろどろで下駄も足袋もどろどろになった。叔母さんの機嫌が悪いので自分で洗ったが、絞るのに力が足りなくて水がだらだら。仕方ないから素足で学校へ行っていた。
ピンクの鼻緒の高下駄は履かないで見ているとすごく可愛かったが、結局は履きつぶしてしまった。

後醍醐天皇 その1 村松剛『帝王 後醍醐』(わたしの戦争体験記 44)

後醍醐天皇とタイトルをつけたが、わたしは後醍醐天皇についてなにかいえるような知識を持っていない。だいたいが、この「わたしの戦争体験記」を書き出したら後醍醐天皇という名前が飛び出したのだ。国民学校(小学校)の遠足が「笠置」だったのを思い出し、笠置で後醍醐天皇のことを教わったのを思い出し、楠木正成の「櫻井の子別れ」の歌を思い出した。

最近、日本の中世に興味を持って勉強をはじめた夫が「こんな本があるで」と教えてくれたのが『帝王 後醍醐「中世」の光と影』(村松剛 中公文庫)だった。図書館で借りてきてくれたので読み出したらやけにおもしろい。村松剛さんは安保闘争のころは右のほうにいた人だ。左のほうにいたわたしはちょっとひるんだけど、読み出したらすごくおもしろい。図書館で借りた本は読みにくいので文庫本を買ってゆっくり読むことにした。まだ5分の1くらいしか読めてないが、この本は完読するつもりだ。

最後に「吉野の秋」「南朝残映」というちょっとせつない章がある。そしてあとがきでは「後南朝については谷崎潤一郎の『吉野葛』もあり、なかば伝説の霧につつまれているだけに主題としてたしかに魅力的です。」でも書き加えると紙数が増えるからと本書は終わりにした。

ここを読んでびっくり。『吉野葛』持ってるぞと文庫本を探したらあった〜
本を買ったときに読んで忘れてた。次回はこの本の感想です。後醍醐天皇になかなかいきつかないけど、本を読みながら謎解きしていこう。
(中公文庫 1981年発行 600円)

山があってもやまなし県(わたしの戦争体験記 43)

西六国民学校へ通っていた3・4年生のとき、クラスの子たちがこんな歌を歌っていた。「すべってころんでおおいた県(大分県)、山があるのにやまなし県(山梨県)ほいほい」というのである。なにか校庭で集合するときとか、みんなで行進するときに誰ともなく歌いだす。
わたしはそのやまなしけんへたった一人疎開したわけだが、うたはわたしに向けて歌ったわけではない。うたはうたで語呂合わせのようなものだった。

山梨県はほんまはやまあり県で、どっちを向いても四方に山があった。どうしたらあの山の向こうへ行けるのか小さな胸を痛め、小さな頭で脱出方法を考えたが、むろんのこと、脱出不能ということがわかっただけだった。
まわりの山が全体に低いのだが、途切れなく囲んでいるのがうざかった。低い山の間に高い山もあって、富士山も見えていた。毎朝山々を眺めるのが気分良い日もあったが、暗い気分の日のほうが多かった。「山があってもやまなし県、すべってころんでおおいた県」と大きな声で叫んでも返事は返らず。

中原淳一と松本かつぢ(わたしの戦争体験記 42)

中原淳一が好き。淳一先生が一番で二番はないのだけれど、松本かつぢ先生は違った意味で好きだった。淳一の描く少女が『小公女』のセーラとしたら、かつぢ先生のくるみちゃんは近所の子の感じ。あくまでも少女のわたしが感じたところである。わたしの中でセーラは王女さまだったから、二人の画家についても子供ながらにこんな感じを持っていた。

疎開する前に二番目の姉が「これあげる」と自分の大切なものバッグから紙の着せ替え人形をとり出した。前から欲しかったくるみちゃんの着せ替え人形だったが、人形だけでなく素晴らしいドールハウスがあった。紙で一面だけを開けて周囲を囲った部屋に家具がうまく収まっている。本箱に並んだ本にはタイトルがちゃんと印刷してあった。テーブルや椅子が置かれテーブルの上には食器が並んでいる。立っている家具のすべてにつっかい棒がついていて前からは見えないように作ってある。
「ほんま?ほんま?」と大喜びでもらいうけ田舎に持って行ったが、近所の子に見せびらかしたらすぐになくなってしまった。

それからは着せ替え人形を自分で作った。淳一先生の少女全体像をなぞって描いて切り抜く。脚を交差させて靴を履いている。その上に着せ替えるドレスやスーツや着物を描いては切り取る。バッグはどうしようとか、レインコートには傘がいるかなとか想像するのも楽しかった。服や着物は古い『少女の友』や『主婦の友』を真似して、どんなバッグを持たせたらいいのかとか考えるのが楽しかった。少女小説の物語を頭の中でつくって、主人公の少女は淳一スタイル(笑)。戦争中で甲府市は空襲で焼けているというのに、アタマの中は金持ちの少女だったり、貧乏でも健気な少女だったり、空想は自由で。ご飯はすねりもちであっても紙とはさみと色鉛筆があれば幸せだった。

着せ替え人形つくりは戦後もやめることなく続き、ドレスの見本は『スクリーン』や『映画の友』『ひまわり』『それいゆ』からいただいて尽きることがなかった。ストーリーは父が古本屋で買ってくる海外ミステリーからいただいた。やがてドロシー・L・セイヤーズにたどりついたときのうれしさ!そのときは着せ替え人形からは卒業していた。

まずいものは、すねりもち(わたしの戦争体験記 41)

「うまいものはかぼちゃのほうとう」は山梨出身の母の言葉である。甘いかぼちゃの入ったおほうとうはほんまにうまかった。いまその続きの言葉を思い出したところ。続けて「まずいものは、すねりもち」というのである。すねりもちは、干したとうもろこしを粉にしたのを水で混ぜて火にかけてとろとろにしたもの。ぶつぶつと煮えて見た目もうまくなさそう。ほんまに全然うまくないし匂いもよくない。
これが朝食に出ると家族全員からため息がもれる。兄は食べずに茶碗を母の前にもどして学校へ行った。どこかで食べ物を調達できるのだろうか。どこかで木に生っている果物にでも出会えたのだろうか。いまになってちょっと聞いてみたい気もする。

とうもろこしはどんな畑でも育ってよく実るらしい。皮をむいてぶら下げて干して、実をとってまたザルで干して、水車小屋に持って行って挽いてもらった。粉になったのを熱して食するわけだが、味がないというかうまくなかった。まさに、まずいものはすねりもちだった〜

中原淳一先生(わたしの戦争体験記 40)

疎開するとき、10歳年上の二番目の姉T子が大切に持っていた中原淳一の絵葉書や雑誌をわけてくれた。戦後に出たひまわり社発行の雑誌『ひまわり』『それいゆ』をそれぞれ1号から買ってくれたのもこの姉である。わたしは国民学校へ入学してから戦時教育を受けて育ったのだけれど、心は中原淳一描く少女だった。淳一が挿絵を描いた川端康成『乙女の港』、吉屋信子『紅雀』の物語が大好きだった。
この2冊は姉が手放さなかったので、田舎には持っていけず、結局はアメリカ軍の空襲で焼けてしまった。戦後だいぶ経ってから古本を見つけたときはものすごく感激したっけ。その後に復刊本を新刊で買ったときのうれしさ。

結局わたしが田舎に持って行ったのは、中原淳一が関わった雑誌『少女の友』数冊と絵葉書が数枚だった。姉が就職した会社の伝票用紙の切れ端や設計室で余った色鉛筆などをもらってきてくれたので、淳一の絵をその紙に写してなぞり色をつけて便箋をつくった。一心不乱に絵を描いて、その横に手紙を書いた。辞めていった先生に送って喜ばれたのがうれしかった。田舎の家の叔母の机の前で必死でつくった便箋がなつかしい。
父が送ってくれた本の他に座敷にしっかりした本箱があって藤村全集その他文学ものが並んでいたから読む本には苦労しなかった。淳一しおりをいろいろ作ってはさんだ。最初のうち藤村全集は「しまざきふじむら」と読んだものだが、「とうそん」とわかったときは恥かし嬉しだったなあ。

そのころの中原淳一はわたしの神様だった。絵が好き、人形が好き、淳一挿絵の物語が好き。
そして、少女への言葉が好き。
インテリアという言葉を知らなかったが、住みよい部屋にしましょうという提案に従って、納屋での生活をまるで『小公女』のセーラの部屋のように空想で仕上げるのだった。
部屋のすみにたたんであるふとんにまだしもの布をかけて見よくするとか、お膳の上に自分が千代紙で作った箸置きを置くとか、ツユクサを活けたり、猫じゃらしを束ねて飾ったり。「この子はまあ・・・」と母は笑うだけだった。こころだけは美少女のわたし(笑)。
いまも淳一絵葉書は大切にしまってある。

焚付けで社会勉強(わたしの戦争体験記 39)

かまどの焚付けと便所紙に『主婦の友』など婦人雑誌の古いのを破って使っていた。叔母さんがいらなくなった古雑誌を持ってくると、わたしが受け取って中身を読む。なんだかかんだか書いてある戦時の女性の過ごし方や生き方やモンペのファッションなど、ふーむといいながら読むのであった。楠公炊きのことを前に書いたけど、婦人雑誌にもこの手の記事がいっぱいあった。お尻にぶら下がった回虫をつかんだのも古雑誌か古新聞だった。便所に入る前に読み、入ってからも読み、未読分は持って出て続きを読む。

連載小説はいまでも好きだが、当時はほんまに好きやったな。貧しい家の息子が勉強できるので援助者が現れ大学に進む。お互いに好き同士の村娘がいるのだが娘は相手の将来を思って身を引く。おお、このあとどうなるの? この物語はハッピーエンドだったような気がするが、どうなったんだろう。
「お世話になる人に挨拶に行くときは羊羹を持って行きなさい。あの方は「夜の梅」が好きだから」と教える先輩がいて、わたしはなるほど大切な挨拶には「夜の梅」か〜と覚えた。いまでも大切なときには虎屋の羊羹「夜の梅」をもっていくことにしている笑。

おほうとう(わたしの戦争体験記 38)

国民学校4年生の夏休みに山梨県の叔母夫婦の家に疎開して、その日から晩ご飯は「おほうとう」だった。味噌汁に野菜(主にかぼちゃとさつまいもとねぎ、たまに油揚げ)とうどんが入っている。うどんは毎日叔母さんが小麦粉を水でこねて、薄い板状に延ばしてからたたんで1センチ幅くらいに包丁で切っていた。かぼちゃが主の汁に紐のようなうどんが入っている。これが毎晩だが、わたしは好きだった。うどんになる小麦粉も自分の畑のもの、味噌も自家製だったしほんまの健康食だ。お客があったりなにか行事のある日はうどんは茹でてザルに盛られ別につくったつけ汁にネギとともに供された。なにか酒の肴は別についていたような。1年中こうだった。特にご馳走のときは鶏と兎が供された。

わたしがいまも内臓が元気で、お医者さんに「あんたは長生きするで」といわれるのは、2年間のおほうとうのおかげだと思っている。内臓だけでなく足腰元気でお医者さんに褒められたいけど、目下は内臓だけでもうれしく思わにゃ笑。
「うまいものはかぼちゃのほうとう」山梨出身の母の言葉。

夜なべ(わたしの戦争体験記 37)

「かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた」って歌がわりと好き。うたごえ運動やってるときによく歌った。うちの母もよく夜なべをしていたが、手袋を編むより兄たちの靴下のかかとの修理に追われてた。とにかく母は忙しくて歌のような情緒などひとつもありゃあせんのだった。

まだ母が田舎へ来ていなかったときのことだが、叔父さんは晩ご飯(毎晩 おほうとう)がすむと夜なべをしていた。囲炉裏の横の縄ない機で縄をなったり、四角い道具でむしろを編んでいた。縄はぐるぐる巻いて積み上げてあり、出来上がったむしろはゴザや畳のようにして重ねてあった。わらじや藁草履を両手で素早く足も使ってものすごい速さで仕上げる。とにかくそれらを作っていく工程が手早い。飽きずに見ていると「いいかげんに寝ろ」と叱られた。でも可愛げのない子供でもうっとりと眺められてうれしかったみたいだ。

朝早く起きて蚕の餌用の桑の葉を収穫してきて蚕たちに餌をやり、その後に朝ごはん、それからあとは百姓仕事、家に帰らず昼ご飯。そのご飯を笊に入れたのを畑までよく運ばされた。ひっくり返さないように気を入れて運んだものだ。
(※昨日まちがって「手袋」を「靴下」としていたので今日10日に「手袋」と訂正しました)

疎開者と引揚者(わたしの戦争体験記 36)

戦後だいぶ経ってからわたしら母子が納屋を改造して住んでいたように、小川の上流に同じような納屋に住み始めた人がいた。母親とちっちゃな子で、母は子を離さずにいつも抱くか背中におぶっていたのを不思議に思ったのを覚えている。母と叔母さんとの会話で新入り母子は引揚者だとわかった。こどもと離されて連れていかれるのをおそれているのだと、ここにいればもう大丈夫なのにと母はいうけど、こどもを取り上げられる恐怖心がおさまらなかったのだろう。

そういえば春頃に学校の校庭で満蒙開拓団へ参加する人たちの壮行会があった。にぎやかとはいいがたい歌と励ましの言葉が続き、わたしたち児童はなにもわからず日の丸の旗を振って見送ったのだった(ウィキペディアに詳しい説明あり)。

引揚者が帰ってきていると村で噂されてたのこの人だった。
こんにちはをいおうと顔を見ると、髪がごわごわ。バリカンで刈ったのではなくハサミでジョキジョキ切ったみたいなざんばら髪が伸びていてすごく見苦しい。すぐに手ぬぐいを髪の上にのせて覆ったが子供心にも恥ずかしさが伝わった。ソ連兵に強姦されるから髪を切って男の服を着て逃げてきたそうやと母が説明してくれた。最後はいつものセリフ「あんたらはこうやって親がいて毎日ご飯が食べられて幸せや」が出た。