月月火水木金金(わたしの戦争体験記 63)

戦時中のいつのころか日曜日と土曜日がなくなって、日曜日は月曜日と同じに働いたり勉強したり、土曜日は金曜日と同じく働いたり勉強したりする日になった。大阪にいるときはどうだったかなあ。1年生のときは土曜日は半ドンだったように思うが。山梨県ではどうだったろう。日曜日は学校を休んでいたような気がする。休みといっても畑仕事の手伝いやらされたから、やっぱり「月月火水木金金」だったなあ。

「ヤフー知恵袋」(ベストアンサーに選ばれた回答)からの引用です。
【もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まりである。海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに猛訓練していたが、ワシントン・ロンドンの各軍縮条約で艦船の数的不利をうけて、更に休日返上で猛訓練を行っており、ある海軍士官が「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったものとされ、このニュアンスからして「月月火水木金金」は海軍精神の発露というより、むしろ猛訓練に辟易していた海軍将兵らが自嘲気味に使ったのが始まりかと思われる。
太平洋戦争中には、勤務礼賛の意味で、国民の間で広く使われた。】
引用させていただきました。ありがとうございます。勉強になりました。

わたしの歌える歌詞は以下である。

朝だ 夜明けだ うしおのいぶき〜
う〜んと吸い込む あかがね色の
胸に◯◯のみなぎる誇り
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金

ちょっと忘れたとこあるけどこんな歌詞で調子が良かった。何十年も前の歌をよく覚えているもんだ。
しかし、第二次世界大戦中って標語や歌がえらく流通してた。しょっちゅうラジオから流れていたし、道路とか学校とか拡声器でがなり立てていたから。

千人針(せんにんばり)(わたしの戦争体験記 62)

千人針(せんにんばり)。思い出すのもいやな言葉である。いやなのは前回書いた「パーマネントはやめましょう」も同じで、忘れていたいいやな記憶である。戦争中のことでいい思い出はないから、書こうと思いついたときからわかっていたが。

大阪西区の西六(さいろく)小学校に通っていたとき、たまに映画や紙芝居や講演があった。映画は新しい建物の講堂で生徒全員、紙芝居や講演は木造の各教室で行われた。紙芝居は銃後の民(前線に行かずに後方にいる女子や子供のこと)のわたしたちを啓蒙するためのものだった。
ストーリーがあって、銃後の妻が鎌で手を切ったりしてあっとのけぞると、その同じ時間に戦地で夫が戦死したのが後でわかる。
映画では飛行隊ものが多かったような気がする。勇ましくかっこよく出撃するシーンを主題歌とともによく覚えている。
ようするに、わたしら銃後の民は兵隊さんの苦労をありがたく思い、支えていかなければならないということだった。千人針もその一環だった。

千人針というのは1メートルくらいの長さに折った晒し木綿に赤い糸で結び目をつけたもの。何センチおきかというと・・・左右2センチくらいかな。とにかく1000人から針目を作ってもらうわけだ。市電の停車場とか盛り場の曲がり角とかで女性が2、3人立って、通る人に頭を下げていた。
何度か「千人針」をやってきたと姉たちが仕事から帰ってきて報告してた。会社の人から預かって家族全員が刺したこともあった。「これで弾がそれるのかねえ」というようなことは誰もいわなかった。

パーマネントに火がついて(わたしの戦争体験記 61)

この歌知っている人いるだろうか。
これ、歌なのか、なんなのか、なんかの替え歌か。
こんな歌詞をよくぞ思い出したと自分を褒めている。頭のどこかに書庫があるみたい。続きはあるのかどうか知らないが、わたしの書庫にはない。

パーマネントに火がついて
見る見るうちに禿あたま
禿のあたまに毛が3本
ああ恥ずかしや恥ずかしや
パーマネントはやめましょう

もしかして知っているのはわたしだけかと思って(笑)、検索したらいろいろ出てきたのでびっくりした。

髪を縮らせているのが非国民ということで道を歩いていると知らない人に注意されたりする。うちでは長女と次女がおしゃれしたい年頃だった。髪の先をくるっとしたいが、まっすぐでないとダメらしくて文句をいっていた。火鉢に髪用アイロンを突っ込んで熱くして髪を巻いてカールをつける。そのカールが愛おしくてそっと触ってみる。他愛ないそんな女子の楽しみも道を歩いていて見つかるとおこられたんだとか。

家の中では次兄が学校で覚えてきて歌っていたような気がする。「やめとき」と母が叱るが、実はその歌で娘2人が髪をカールしないようにとなればと思っていたかもしれない。よその人にいわれることに敏感になっていたから。
疎開前だから3年生か4年の1学期だったかな。

みどりの黒髪にシラミ(わたしの戦争体験記 60)

田舎の家の井戸(ポンプで汲み上げ式になっているが、つまると釣瓶で汲みあげる式)端で、祖母と近所のおばあちゃんたちが文字通り井戸端会議をしていた。なぜかわたしが側にいてちょこんと座っていた。ばあちゃんたちは遠慮なくものをいう。「こんな子でも十八、十九になれば色気がつくヅラか」「顔はイナでも髪がイイヅラ、みどりの黒髪ジャン」。顔は悪いけど髪はみどりの黒髪という蔑み語りを渋い顔をして聞いていたら、うちのおばあちゃんは「この髪で島田を結ったらいいヅラよ」と慰めてくれた。この戦争のもとでそんなことはありえないといおうと思ったがやめた。おばあちゃんたちのいま現在の好き勝手しゃべる娯楽をうばってはいかん。

その黒髪にシラミがくっついて頭皮を噛んだから痒くて痒くて・・・。暖かくなると頭のてっぺんから降りてきて首筋を這い降りる。後ろの席に座ってる子が「くみちゃん、シラミが降りてきた」とつぶやく。「そうけ」と答えて手を後ろにまわしぷつんとシラミをつぶす。
日当たりの良い日に梳き櫛で髪を深くとかし、櫛につかまったシラミを親指の爪で殺していく。一種の快楽だったなあ。

お蚕さんから羽織まで(わたしの戦争体験記 59)

田舎で暮らすようになって驚いたのは一家そろって早朝から働き出すことだった。明るくなるより早く起きて蚕用の桑の葉を採りに出ていく。桑の葉をもいで背負いかごにびっしり入れ、かついでもどってくると自分たちの朝食よりもお蚕さんの朝ごはん。わたしが目を覚ますころはお蚕さんたちはざわざわ音を立てて朝食中。

人間はそれから朝食。わたしが行った頃はまだ白いご飯と味噌汁と漬物だった。わたしは漬物が嫌いだったから食べなかったが、たまに海苔を出してくれた。初めのうちだけだったが。

そうこうしているうちに蚕が繭になった。仲買人のような人が来て今年の蚕はどうだとか、よそはどうとか話していたから、それが商談だったのだろう、繭の大方を引き取っていった。残したのだか残ったのだか、家用のが大きなかごに入れてあった。
よくわからないが、繭を煮て糸を採る仕事を祖母が囲炉裏の前で根気よくしていた。繭から細い糸を引っ張り出す。糸をとったら染めである。庭先に染めた糸を広げて縦糸とし、次に横糸用の糸を作った。
できた糸を布にするのが叔母さんの仕事で、朝、昼、夜と長時間機織り機に向かっていた。日がな一日、縦糸をしっかり据えて横糸を右から左へ、左から右へと絡めていくのをわたしは見ていた。わたしにはできるはずない。
国民学校の6年までは叔母さんにそういう建設的な仕事をせよとはいわれなかったから命拾いした。
仕事になったのは「麦踏み」かなあ。でも体が軽いから麦踏みの効果があったかどうか。必死で麦を踏んだんだけど、跳ね返されていたりして。

叔母が織った布を母が縫った羽織がここにある。戦争が終わってからわたしがもらって大切においてあった。絹という触感がない重い荒っぽい絹である。次の冬はセーターの上に羽織って部屋着にするべし。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)(わたしの戦争体験記 58)

新しい元号(令和)発表のときに『万葉集』についての論評をツイッターで知ってちょっと興味を持った。今日図書館で元の意見が出ている本を相方が借りてきたのでその章だけ読んでみた。

東京大学教養学部編『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』(白水社)
III 現代にこだまする歴史
『万葉集』はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか 品田悦一

難しそうと思ったがそうでもなかった。
わたしは『万葉集』は岩波新書の斎藤茂吉『万葉秀歌』しか読んだことがない。それも大昔に買ってざっと読んだだけだ。好きな歌もあったが忘れてしまった。だから品田さんの文章を読んで、「ああそうなのか」と思うところが多かった。
最後のほうに「うみ行かば」のことが書いてあってびっくりした。元は大伴家持の歌だって。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)
山行かば 草生す屍(むすかばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

山梨の学校で『君が代』の次に歌わされた歌だ。いまでも歌える。兵隊さんのみならず、子供のわたしらまで死ぬことを強制されてるみたいで好きでなかった。本書で品田さんに教えられて子供のときの嫌悪感がわかった。
引用「・・・勇ましい歌は、『万葉集』全体でもごく僅かしかないのにそういう例外的な歌をことさら取り上げ、戦争遂行に利用するという恣意的かつ一面的な扱いがまかり通っていたのである。」

桑の皮の国民服と桑の葉のお茶(わたしの戦争体験記 57)

桑の実ほど美味しいものはなかったといまも思うほどに、疎開した山梨県の桑の実は美味しかった。田舎の子が食べているのをあんまり見たことがなくて、わたしは一人でむさぼり食べていたが、みんな桑の実よりうまい果物が自分の家の庭にはあったんだろう。むさぼっているところをじっと見つめられた記憶はない。桑畑がいっぱいある上に畑の外側や道に勝手に生えている木があって、たいていの木に実がなっていた。

疎開した4年生の夏休みの宿題に桑の枝の皮をむいて干したのをもってこいというのがあった。わたしの初登校の日、みんなリヤカーや自転車で運んだり、担いて運んだりした。わたしはみんなの10分の1くらいの1束を持って行った。この1束だって叔父さんに手伝ってもらってやっとできたもの。

桑の皮むきは桑の枝の皮をむいたのを乾燥し繊維にして布地にし服を作るという国家の計画だった。その夏の国民学校生徒はいっせいに桑の皮を供出した。次に桑の葉を乾してお茶の葉代わりにせよと命令がきた。生徒全員が桑畑で葉を採集してムシロに広げて乾した。こちらは簡単だったけどお茶はどうにもこうにもまずかった。桑茶といって薬用になるくらいだから乾し方にきっと工夫があるはずだけど、ムシロで乾しただけだからうまくない。

忘れた頃に桑の皮の服が学校に届けられた。ごわごわして気持ちわるかった。当時、木綿の代わりに化学繊維のスフが使われるようになっていたが、スフよりずっとごわごわしてたのが桑の皮の繊維だった。

国民服と国防色(わたしの戦争体験記 56)

日本大百科全書の解説によると、「日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装」とある。我が家も兄たちの学校行きの服や、父親の通勤服が国民服になっていった。(まだ疎開前のこと)兄たちは国民服を着て肩掛けカバンをかけ、ズボンの上からふくらはぎにゲートルを巻いた。上の兄はコツがあるらしくうまく巻いていたが、下の兄が下手くそで毎朝かんしゃくを起こしていたっけ。

女子はブラウスやセーターにモンペだったが、大阪の学校に通っていたときはまだスカートだったような気がする。おしゃれで裕福な子からモンペ姿になっていった。わたしは夏に山梨県に疎開したときはスカートだったがその秋からモンペになった。最初はピンク色の入った絣のモンペがうれしかったけど、おばさんが洗濯をしてくれなかったからピンクが汚れて見苦しかった。

国民の着るものが国防色という気持ち悪い色に統一されてしまい、ネクタイなんてすっかり忘れられた。布地がスフというのがさっきアタマの中から出てきた。スフという言葉をよく覚えていたもんだ。スフでできた衣類は洗濯するとごわついた。着ても暖かくなかった。母親は古着かスフか家族の着るものに困っていた。それよりも食べるものがなくて困ったから着るものは第二第三の問題だったかも。
おしゃれな甲府の叔父さんも田舎の道で会ったとき国民服だった。さすがにアイロンのかかったのを着ていたが一回り大きくて哀れな感じがした。

灯火管制(わたしの戦争体験記 55)

わたしは4年生の夏に疎開してしまったので、翌年の大阪大空襲のときは山梨県にいて空襲の恐ろしさを体験していない。次兄は山梨県だが甲府市の叔父の家にいて二度空襲にあい、二度とも命からがら逃げている。わたしは後屋敷村にいて甲府方面の空が真っ赤になっているのを見ていた。翌朝、兄が黒焦げの自転車を引きずってやってきた。それから兄はどうしたのかしら。叔父のところにもう一度お世話になったか、さきに大阪へ帰ってたのか。今度あったら聞いてみよう。わたしは疎開したので、空襲後の大阪の状況がわからずじまいなのが残念だ。戦後何十年も経ってから各区の戦災を語る会などに行って当時の状況を体験者に聞いた。西区は3月に暗い時間にやられたが、ちょっと北のほうは真昼間に機銃掃射されたことなどそのとき始めて知った。聞いておかないと当時のことを知っている人たちが亡くなってしまう。

戦中のことをいま思い出そうとしているがあんまり出てこない。灯火管制という言葉がいま出てきた。灯火管制がしかれたのは3年生のときだったかな。玄関の戸をぴったりと閉め、灯りは茶の間だけで、コードをさげた電気の傘の上から黒い布を被せた。灯りは黒い布の下だけにとどいていた。家族全員が火鉢に手をかざしながら小声で話していた。外から隣組長が点検して明かりがもれていると怒られる。本を読もうとして明かりを取り合いきょうだいゲンカが勃発する。
息を殺すようにして父が話し出す。幼い時から浅草の仲見世で働いた話がおもしろかったが、本人はすごい苦労をしたといってた。お金の苦労をたくさんしたが、遊びもしたみたいで、いろんなことを話してくれた。アメリカ映画が好きで、『駅馬車』『暗黒街の顔役』はストーリーを最初から何度でも聞いたので耳にタコができた。映画は戦後だいぶ経ってから見ることができたが、父の言葉をまともに信じていたからがっかりした(笑)。

灯火管制のなかで映画と探偵小説とジャズとアメリカ文化への憧れを語る父と、日本帝国の勝利を信じている兄と軋轢があったのか、当時のわたしは知らなかった。ただ、真面目な兄をからかう父がいたのをよく覚えている。

軍歌でせっせっせー(わたしの戦争体験記 54)

こどものころは家で姉たちと「せっせっせー」と歌いながらやったものだ。「せっせっせーのよいよいよい」についで「夏も近づく八十八夜ホイホイ」と続けて歌って手を叩くのが定番、ホイホイは口拍子&手拍子。学校の休憩時間や手持ち無沙汰のときなど「せっせっせやろ」と始めたものだ。ほかの歌でもやったか覚えてない。もっぱら「夏も近づく」であった。せっせっせーは大阪も山梨も同じだった。

ところが、4年生くらいから「とどろーくつつおーと とびちーるだんがん」と歌うようになった。「あらなーみあーろうデッキのうえに」振りは同じだが大振り。両手をぱんぱんと打ち合ったり交差させたりしたように覚えている。
せっせっせは綾とりと同じく女子の遊びで、教室でも遠足の電車の中でも二人が向き合ってやっていた。家ではもっぱら二番目の姉とわたしとの遊びだった。

先日「とんとんとからりと隣組」の歌のことを書いてからとみに戦中の歌が口から出てくる。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからにゃ、手柄立てずに帰らりょか」なんて洗濯物干しながら歌っている。おっと、これは元気なほう。だいたいに哀愁溢れる曲が多い。「真っ先かけて突進し・・・友は野末の石の下・・・思えば遠き満州の・・・」なんて切れ切れに覚えている。