楠公炊き(わたしの戦争体験記 18)

楠公炊きは戦時中にお米が増えるご飯の炊き方ということで大きく報じられた。たしか町内会からの呼びかけがあり、新聞の家庭欄や婦人雑誌にも何度も取り上げられたのを読んだ覚えがある。いろんな著名婦人たちが自分の炊き方を披露していた。我が家も一回目は母と姉が立ちあって土鍋で炊いた。お米を炒って膨らませてから水を加えて炊く。量はたしかに増える。

楠公こと楠木正成公が苦難の戦いのときに、こういうご飯を食べて戦ったという話から、模範とするということなんだけど、いくらかの米を水でふやかして炊いて量があるように見えるよう工夫したってお腹がふくれるはずもなく。
うちの母はサツマイモが手に入ったときは芋粥にし、雑草を抜いてきたときは七草粥ふうに炊いていた。でもなにを入れて炊こうが戦時中に腹いっぱいになったことはなかった。

ともだちが減っていく(わたしの戦争体験記 17)

いままで気にしていなかったけど、わたしが4年生の1学期を終えて母の実家の山梨県に疎開する前に学校から去っていった子が多かったようだ。殺伐とした学期末だったと思うが、少しも覚えていない。ただ壽(ひさ)さんとさかえちゃんとの別れがショックだった。『小公女』のセーラのように孤独な境遇になると思うと怖かった。
その頃よく見た夢だが、わたしは座敷に幽閉されていて、ふすまを開けるとまた次のふすまがあり、警護の侍がいて開けたふすまは何度でも閉められる。まさに出口なしの夢だった。トイレの戸を閉めるのが怖くていつも開けたままにしていた。

なんで仲良くなったのか忘れたが堀江の芸者屋の娘の壽さんとしょっちゅう家を行き来する仲になっていたが、一家で引っ越すからと突然来なくなった。向かえに住んでいた1年上のさかえちゃんは、わたしが新町にきたときから引っ張りまわして遊んでくれたが、一家で南海沿線の粉浜に引っ越していった。粉浜では戦災にあわずに済んだそうで、戦後に探して会いにきてくれた。
その他、電気科学館の屋上で遊んだ子、体操の時間をいっしょにサボっておしゃべりしていた子はその後どうなったかしらと70年経ったいま思うのである。

姉(いつもこの日記にでてくる人)がピンク地に白い花が浮かんでいる布でワンピースを縫ってくれた。この服を気に入って夏中着ていたが涼しくなるころにはモンペに変わり、それ以来何年かモンペで暮らした。

集団疎開の訓練(わたしの戦争体験記 16)

1・2年生のときは戦時教育もゆったりしていたが、3年生になるとだんだん戦時色が強まってきた。なにかにつけ「君が代」「海行かば」を歌う場面が増えた上に、なにかにつけ「勅語」を暗唱させられた。

アメリカ軍の空襲が激しくなるとのことで、大阪市内の国民学校生徒は疎開させられるという噂が駆け巡った。4年生になるとすぐに担任の先生から、子供を預かってくれる親戚がある人は報告するようにと呼びかけがあった。わたしは以前お向かいに住んでいて引っ越したさかえちゃんを思い出したが、親は「親戚でないとダメだろう」と、結局は山梨県の母の実家に頼んだ。疎開先を自分で決めないと集団疎開組に入らねばならない。親はそれよりましと思ったようだ。弟は2年生だったから親といっしょに大阪に残った。

1学期の間にだんだん子供がいなくなっていく。校庭が寂しくなっていった。
ある日、校庭に4年生以上の生徒が呼び出され、明日は集団疎開の訓練をするから用意して登校するようにとのこと。着替えと小さな毛布か布団をリュックに入れ、水筒を忘れずにと注意があった。
うちには大きなリュックがないので、母が大風呂敷を袋に縫って小さな布団を入れて背負えるようにした。

翌日は珍妙なリュックで学校に集まり、ぞろぞろと南海電車のなんば駅に行き、高野線に乗って河内長野で降りた。電車に乗っても遠足ではないし、どこへ連れていかれるのかわからず車中みんな暗かった。
河内長野の駅を降りてすぐに村の国民学校があってここだという。みんな校庭に並んだ。話がついていなかったのか、今日になって断られたのか、今日はここに泊まらずに帰ると聞いたときはほっとした。
校庭に集まった子供たちを実際に見たら、何百人のこどもを教室に一夜寝かせるって無茶過ぎだと誰でも思うだろう。

結局はなにもせずなにも食べずにまた電車に乗って学校へ帰った。全員揃った学校で、みんなにコッペパン1本ずつが配られ、これは学校からお昼の弁当として出すものだから持って帰って家族と食べなさいと先生がいった。

4年生の1学期が終わるとき、ここには2学期はないのだと先生がいった、夏休み中にそれぞれがそれぞれの親戚などに引き取られる。縁故疎開せずに集団疎開した子がいたのか知らないままに。

遠足はほとんど史跡(わたしの戦争体験記 15)

西六国民学校では一学年に2〜3回は遠足があった。ただ一回だけは箕面へ行ったと覚えているが、その他は史跡とか神社だった。

よく覚えている一日。湊町から関西線で笠置へ。関西線は山梨県に行く時に名古屋まで利用するから慣れている。いかにも関西らしい車窓からの眺めが好きだった。

笠置駅に着くとすぐに神社に詣でて後醍醐天皇がいかに偉大かという神秘的な講話があって頭を垂れて聞いた。
外に出ると境内に石組みのちょっと神秘的な場所があった。そこがお墓なのか碑だったのかなんにも覚えていないが、どこか惹かれるものがあった。歴史の持つ重みのようなものを感じた。
お弁当は梅干しおにぎりだけだったが、うまかったあ。

後醍醐天皇と関連して楠木正成・正行親子の忠義と孝行についても教育された。遠足で千早赤阪村に行った記憶はあるけど、どんなところだったかすっかり忘れている。
紀元節(2月11日)とか明治節(11月3日)とか重要な日には橿原神宮へいった。境内がすごく広くてよその学校からもたくさん来ていたのを覚えている。

いま書いたところと戦後は無縁である。奈良や京都へはよく行ってるが、仏像や建物への個人的興味で信仰心も崇拝心ももってない。
いま、ちょっと検索したりしていたら、笠置が懐かしくなってきた。そのうち余裕ができたら奈良で泊まってゆっくりと笠置へ行くのもいいなと思った。まあ、思うだけで終わるだろうけど。

後醍醐天皇についてはまるっきり無知なので、ちょっと勉強しようと、網野善彦『異形の王権』(平凡社)を買った。今夜から読む。おもしろそう。

紙芝居と映画と教育勅語(わたしの戦争体験記 14)

西六国民学校へあがって1年生、2年生のときは普通に過ごしていたように思う。その普通には「修身」の時間に教育勅語を全員で暗唱とかあったけど、目立って戦争教育のようなものはなかった。たまーに教室で紙芝居をすることがあったがかなり退屈な授業であった。それから生徒全員集合で映画を見ることがあった。思い出せば、やっぱりそれぞれ戦争教育であったな。

紙芝居で覚えているのは、出征した夫が戦線で敵弾にあたって名誉の戦死を遂げる。妻は同じ時間に畑で働いていたが、なにか飛んできて腕にあたって怪我をする。その同時刻に夫は亡くなったと後でわかる。
それだけの内容を30分くらいのドラマに仕上げてあったから退屈だった。あくびが駆け巡ったように覚えている。

立派なコンクリート建ての新校舎の3階には広い講堂があって、映画を見せるとなると窓にカーテンをかけた。どっしりとした生地が豪華で明るい窓辺が暗くなるところが好きだった。上映された映画で思い出すのは「加藤隼戦闘隊」かな。あと何本か見ているけど覚えていない。「杉野はいずこ、杉野はいずや〜」という歌の物語もあったような気がする。

そんな調子で教育現場は戦争教育を加速させていった。教育勅語をそらで言えるように強要されて「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・」と毎朝勉強の前にとなえた。わたしは記憶力がいいので楽勝だったよ。その他、「青少年に賜りたる勅語」というのも毎朝いわされた。兄は中学3年で「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」というのを唱えていたから、わたしはそれを横で聞いて覚えた。文語体が気に入ってカッコよく思った。

それから30年くらい経って、全共闘で活動している友人と話しているとき「教育勅語いえるよ」とわたしが唱えてびっくり仰天されたことがあるが、ふだんは知らぬ顔して暮らしている(笑)。

水引草に風が立ち(わたしの戦争体験記 13)

立原道造の詩「のちのおもひに」の一節
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

山梨県に疎開してよかったのはかっこよくいえば自然と触れ合えたこと。東京都品川区→大阪市西区の都会っ子だったから山梨県へ行った当初はすごくおどおどしていた。人間もだけど道に蛇が横たわっていたりね。夏休みが終わって二学期がはじまり、新入生はわたしだけだったので注目された。もう一人大阪から来た子がいたが一学期からなので、彼女は意識してわたしには東京の子っぽく振舞っていた。

学校に通う道の左側に大きな竹やぶがありその横に清水から流れ出た小川があり、川端に雑草が生い茂っていた。その中に夏は赤まんまがいっぱい生え、秋になると水引草が咲いた。そのころはもちろん水引草なんて知らずにただ気に入っていただけだけど。
履いて行った運動靴が破れても代わりを送ってこないので、みんなと同じように下駄や藁草履を履いて登校した。下駄はだんだんちびて鼻緒は切れ切れで情けなかったが、じっと我慢の子。そんな姿には水引草がよく似合う、なんて考える子だった。

のちに詩集など読むようになって知ったのが冒頭の詩である。あの花だ!と思った。しかし大阪では水引草にお目にかかったことがない。詩だけを胸に日にちが経った。
大阪へもどり、友達もたくさんでき、働き出してどこへでも出かけるようになった秋のある日、友達と天王寺公園内の植物園に行った。当時は温室もありいろんな植物があったが、いまはなくなったのかな。植物園内の庭にいろんな植物の植え込みがあって、なんと!水引草が咲いていて、掲示板に名称も書いてあった。植物園だから水引草も大きく伸びて立派で、風が立ちという風情はなかった。当時はカメラもなく長い茎を折って持って帰るわけにもいかず、思い出の水引草の確認をしただけで帰った。

いまは姉の庭に毎年雑草ぽく咲くし、花屋で売ってるのを見たこともある。どちらも見るだけでもらいも買いもしない。水引草はわたしの思いのなかにある。

戦争が始まった日(わたしの戦争体験記 12)

第二次世界大戦(そのとき日本では大東亞戦争といっていた)が始まったのは1941年(昭和16年)12月のことで、その年の4月にわたしは大阪市西区の西六国民学校に入学していた。この年の子供たちだけが小学校体験なく国民学校に入学し卒業している。住まいは新町南通りで学校はいまの細野ビルの東の日新会病院が建っているところにあった。病院の左前に西六国民学校のことを説明した碑がある。
コンクリート造りの威厳のある校舎には講堂と高学年の教室があった。低学年には昔からの木造校舎が横にあった。校庭には奉安殿があり、中には天皇陛下の写真が入れてあると誰かが教えてくれた。生徒はおしゃれな子が多かった。

国民学校1年生のときの12月8日、わたしはいつもと同じように学校へ行った。午前中の授業時間に父親が先生のところへ行ってなにかいっている。先生はちらりとわたしの方を見て「いいですよ」と返事した。それで父はわたしを連れて教室から出た。
家に帰ってよそ行きに着替えさせられ、市電に乗って梅田へ出て阪急電車で父と姉2人が働いている工場の事務所へ行った。その日工場は仕事をしておらず、社員たちがあちこちに数人ずつかたまっている。従業員の食堂を片付けたようなところに舞台が作ってあった。漫才師や浪曲師や手品師がいて、華やかにざわめいている。男女の社員がわたしを見て「娘さんですか」「妹さん?かわいいね」とかお世辞をいってくれた。

どうやら会社の創立記念日とからしい。でないと12月8日などという年末にこんな祝いはしないよねとわたしは頭をめぐらせた。すでに大衆小説を読んでるませた子なもんで。
お昼に一合瓶がついた弁当が配られた。
姉たち(上は経理課、下はタイピスト)は会社の男性におおいにもてている。姉たちの関心を買うためにわたしにお世辞をいってたみたい。

本来ならおおいに賑わうはずだったろうが、すでに電灯の明かりが暗くされており、笑い声も低く、パーティは夕方にはおひらきになった。
仕方がないよと父はまたわたしの手を引いて駅へ歩き出した。阪急電車の中は夕刊をもっている人が目の前で大きく広げていた。真珠湾の記事だったろうか。父親はそれを横目で見つつため息をついていた。彼にとっては西洋文化は知識の泉だった。浅草で洋画を見て育ったのに、これからは戦争で見られなくなる。その後は機会あるごとに子供達に洋画とミステリーの話をしてたっけ。

阪急電車が梅田に着くと8時過ぎなのにシャッターが降ろされていて駅員がそっちを通れと指図している。暗い中を市電の乗り場へ行ったらすごい混雑で、殺気立っている人がいる。父が子供を連れてるんだと東京弁でいって中のほうへ入らせてもらった。市電から見た大阪の街は暗くて寂しかった。
この日は真珠湾攻撃の日だったと後で知った。

台風の被害報道に驚いている

台風21号が襲来した翌日に耳に飛び込んできたNHKニュース(9月5日 14時25分)をネットで探したらでてきた。
タイトル:台風 女性死亡 トタン屋根がマンション8階の窓ガラス突き破る
本文のはじめ:大阪 港区のマンションでは、4日午後2時半ごろ、強風で飛ばされてきたトタン屋根が8階の部屋の窓ガラスを突き破って飛び込み、この部屋に住む70代の女性が死亡しました。

びっくりした。港区は西区のとなりだ。そして、うちもマンションの8階にあり、道路に向かってガラスの窓がある。そして同じ時間に窓の外には大きな物が風に煽られて飛んでいく音が響いていた。
飛んできたものが当たって亡くなったのはその部屋にいた高齢の女性と知って恐ろしくなった。わたしにもあり得た。

いつも台風がくるとなるとガムテープとダンボール箱を解体したものを用意するが、もう20年くらい出してはしまっている。今回も同じかなと思ったが出すことは出した。いつものようにのんきに考えていたら風がどんどん強まってきたので、これはえらいこっちゃと真剣になった。
いまになって、そこに港区のかたのマンションのようにトタン屋根が飛んできたらどないなったか考えてぞっとしている。

四ツ橋電気科学館のプラネタリウム(わたしの戦争体験記 11)

電気科学館の話を書いたのにプラネタリウムのことを書き忘れていた。電気科学館とはなにかと質問があったので書き足します。

わたしらが遊び場に駆け上った階段はプラネタリウムの機械を置いたところから天井の上まであったのだ。プラネタリウムは階段4つか5つ分の高さの天井に映された。ホールに座って上を見ると円形の天井に星が輝く。
一度だけ学校の授業としてそのホールに座った。円形の部屋で出入り口にはカーテンが引いてあった。そのカーテンが閉まって暗くなり音楽がはじまると、わたしらが遊んでいる西区の空が映し出されてナレーションが始まった。「日が暮れていきます。西の方をご覧ください。いつも見える◯本煙突です」
何本かの煙突は毎日家に帰るときに見ている海のほうの工場のもの。そして太陽が沈み、月が上り星が輝き出す。いまも覚えている感激のひととき。その上で毎日遊んでいるんだと、また感激(笑)。

大阪の学校に通っていてまだ戦時色の少ないときだったから2年生か3年生だろう。先生はプラネタリウムは外国で買ってきたたいへん高価なもので、それを見られるあんたらは幸せ者だといった。それから何十年か経ってからプラネタリウムを見に行ったことがある。しょっちゅうやっていたのではないようで指定の日時に行ったのでえらく混んでいた。内容はまああんなものかなという感じだったけど、屋上の遊びや西区の日の入りどきを思い出して感慨ひとしおだった。

四ツ橋電気科学館の屋上(わたしの戦争体験記 10)

四ツ橋筋と長堀橋通りが交差しているところの北側、いまはオリックスの建物があるところに同じようなかたちで電気科学館があった。わたしの1年生から4年生までの遊び場である。みんな学校から帰るとそれぞれ遊びに行った。カバンやランドセルを家に放り出すと走って四ツ橋へ向かう。電気科学館ビルの入り口には守衛さんがいるが、隠れて突入し階段に向かった。5階くらいまで部屋があったと思う。さっさと屋上へ上がるとすでに誰かが来ていて賑やかに遊んでいる。ビルの人たちは黙って遊ばせてくれてたみたいだ。帰りはそおっとおとなしく階段を降りた。

屋上のほとんどが地球の北半球になっており表面はタイルだったような気がする。プラネタリウムの部屋の天井の丸い面に合わせた天井の外側が屋上面だった。
裸足になって地球を駆け上がった。友達と抱き合ってつるつるごろごろ寝転んだり、落としっこしたりして飽きずに遊んだ。タイルの表面が気持ちよかった。

ビルは大阪大空襲で打撃を受けたものの残っていて、戦後には映画館の代わりになっていて、わたしも阪急沿線に住んでいるとき洋画を一度見に行ったことがある。文楽をやってたから見たと誰かがいってた。