白髪アタマまであと15%

夕方から美容院へ行ってきれいにしてもらってきた。白髪はうしろのほうはひいき目で見ているのでわからないが、少し黒っぽいのが残っているので、あと15%かなあと眺めている。白髪にもどそうと思ってから1年近く経っているかな。白髪染めしていた人が白髪にもどす決意をするのは大変だと聞いていたが、自分がやるとやっぱり大変やなと思う今日このごろ。もう少しだ!

夕方に姪からメールがあって姉(姪からすると伯母)が住んでいる老人施設では、今日から4月末まで家族等の訪問お断りとなった。渡すものがあれば受付で預かるそうである。来訪者から高齢者施設にコロナ菌を持ち込まれては大変だもんね。住んでいる高齢者の方々の生活と気持ちが大変だろうなと思いやる。自分も高齢者やけど笑。家で普通の日常生活ができているのは幸せだなとしみじみ思って毎日暮らしている。

春はコゴミ

1ヶ月ほど前のこと。近郊野菜を持ってくる八百屋さんの荷にコゴミがあった。買って帰ったのを一目見て「あっ、コゴミ!」と叫んだら「なんや知ってるのか」って。食べたことはなくて図鑑で知っていただけだけど(笑)。

料理の本を見たら和洋の料理で食べられる。これうまそうとオリーブオイルでさっと炒めてレモンをふって洋皿に並べたら見た目も良くワインのおかずにうまかった。カタチがユーモラスなので、カタチのままお皿にのせると楽しい。マヨネーズをちょっとつけたり。

だけどいちばんうまいのは厚揚げと炊いたやつと今日も食べて確認した。やっぱり昔から代々伝わった食べ方があっている。出汁をちゃんととるのがコツというか基本だ。この1ヶ月はコゴミで春を感じていた。

女子たちの授業放棄(わたしの戦争体験記 26)

この話はわたしの疎開生活の中でもっとも輝いているエピソードなので最後に書こうと思っていたのだが、親友が病気治療中なので病床の彼女に捧げる。

疎開して4年生の2学期から村の国民学校に入り、5年生の夏に敗戦を迎えたので、戦中1年、戦後1年を村で過ごした。戦後の1年は母親と弟と妹と4人で近所に6畳くらいの広さの納屋を借りて住んでいた。

この話はまだわたし一人で叔母の家にいたときのこと。

担任の男先生は男尊主義者だった。男だけが優れていて、女はダメだというのが主義。毎日毎日授業でいい、体操の時間にいう。わたしは女だから鉄棒ができないのでなく、わたしだからできないのだとわかってほしかった。

その割に平気で女子に肥えたごを担がせていた。女子は頭がダメだから疎開児だって肥えたごくらいかつげということだろう。

ある日、授業でうまく答えた男子を褒め、これは女子にはできないというようなことをいった。腹を立てたのはできる女子たち。お昼前の授業だったので、「わたしはこれで帰る。こんな状態であの先生に教えてもらいたくない」と言い出した子がいて、「そうだ、そうだ、これから家に帰って自分で勉強しよう」とできる子たちが賛同し、結局、勉強のできる子たちが家に帰った。わたしも家に帰って机の前に座り教科書を出した。叔母さんがどうしたのと聞いたので、かくかくしかじかと話したら、気持ちはわかるけど、ここで謝らないと大変なことになるという。結局は先生方が出てこない子の家に行って説得したみたいで、ストライキは中止となり、首謀者は教室の床に長時間にわたって正座させられた。わたしは首謀者ではなかったが、座っている子らの後ろに一緒に座った。途中で女性の先生が「あなたはもういいから帰りなさい」とわたしにいいにきた。

ふだんから勉強がよくでき、遊ぶときも中心になる子たちがその日は特別に叱られたが、結局は村の中でも恵まれた家の子なので穏当にすんだのだと思う。

彼女らは翌日けろっとして登校してたが、男子生徒の女子生徒差別は表面上は少しマシになった。

次の学期には違う先生が担任になった。

思い出いろいろ 第5回

東京の思い出 その6 関東大震災

わたしの両親は大災害に二度遭遇している。関東大震災と大阪大空襲だ。二度とも家を焼かれなにもかも失った。なぜか生き延びたのが不思議だといつもいっていた。

我が家は年齢が合わなかったのでひとりも戦争に行かずにすみ、近所の人たちから陰口をいわれていた。

関東大震災のときはわたしはまだ生まれていない。母親は長女を妊娠中だった。両親ともにもういないので聞いておけばよかったと思っても後の祭りである。
地震があったときは家から逃げ出し、近所の空き地に逃げて松の木の根っこに座って揺れが過ぎ去るのを待ったとか。家は丸焼けだったそうだ。

東京を去るのだから見ておこうと震災の記念館のようなところへ連れて行かれた。お寺だったのか会館だったのか、いろんな記録や写真があって恐ろしかった。また父母の会話が、このへんは死体の山だったとか、朝鮮人が殺されるところを見たとか、子供には恐ろしすぎた。いまも覚えているくらいだからショックだったんだろう。

思い出いろいろ 第4回

東京の思い出 その5 七五三

東京の思い出ってあまりにも少ない。4歳という年齢のせいだろうか。今日ふと思い出したのは七五三。なぜかこの日はわたしもよそ行きの服に着替えさせられ明治神宮へ行った。昔はこういうときって必ず写真屋さんで写真を撮る。母の実家に疎開したときに東京から送った写真がたくさんあった。伯母(母の姉)一家の写真もあったからみんな実家へ写真を送るものだと知った。

わたしの七五三のドレスはちょっと地味なチャコールグレイに1センチおきくらいに赤と白の刺繍で縦に波模様の線が入っていた。胸で横に切り替えが入りウエストはすとんとして裾は広がっていた。この服を着せてもらってからは、よそいきはこの服と決まっていて、新しい服がほしかった。でもうちが貧乏というのはこども心にわかっていたから黙って同じ服を着てがまん。いまは自分で貧乏してがまん。

参拝がすむと千歳飴を買ってもらって袋をさげて写真館へ行き写真を撮った。電車に乗ったのかも覚えていない。検索したら代々木にあるようだが、代々木ってどっちのほうかも知らない。千歳飴の袋の絵は好きで、のちに見た写真にはぶら下げてうれしそうに写っていた。こどもが順番にいるので、今日の千歳飴はだれのかがわからない家であった。一袋がみんなのぶん(笑)。
いま気がついたがこの日の七五三はもう少しで大阪へ行くから東京見物しておこうということだったのかも。

思い出いろいろ 第3回

 

東京の思い出 その4 土手と富士山と

五反田の家のそばに土手があったと覚えているのだが、どこへつながっているとか、そこだけ高くなっていたのかとか全然覚えていない。ただ坂をあがれば高いところにいけて、そこから富士山が見えたのだけ覚えている。夕日と富士山という陳腐な風景があたまに残っていて、もしかしたら漫画の一コマではないかと思ったりするけど、確かに見えてたように思う。それといっぱい生えてた猫じゃらし。

散歩の好きな一家で両親と姉二人と兄二人がぞろぞろ連れ立って歩いていた。その次にわたしと弟がついていた。もう一人弟がいたのだが、ジフテリアに感染して次兄とわたしが入院して助かったときに入院しないうちに亡くなった。いつもきょうだい7人といっているが、実は幼くして亡くなった弟がいてきょうだい8人だった。末の弟は赤ん坊がいたっけというくらいの記憶しかない。末っ子の妹は大阪に引っ越してから生まれた。
東京の家のことはほとんど覚えていない。ジフテリア菌が記憶をとばしてしまったのかも。入院のことはよく覚えていて、東京の記憶はジフテリアの入院にまつわることばかりだ。

思い出いろいろ 第2回

東京の思い出 その3 雑草の名前はヤブガラシ

住んでいた五反田の家の近くの空き地に生えていた雑草がずっとアタマから消えなかった。その花か実を忘れられないで何十年も生きてきた。なんという名の草なのかずっと疑問に思っていた。よく見る草だとはわかっていたが、調べ方がわからなかった。
それが数年前にうちの近くの長堀通りで見つかった。長堀通りの中央に遊びのある草地ができた。最初はきれいに整地してあったがいつのまにか雑草の王国となって、わたしを含めて近くの雑草好き(わたしが知っていたのは1人)が喜んだ。野バラ、レンゲ、スミレ、カラスノエンドウ、ハコベ、ホトケノザ、オニタビラコ、ヒメジョオン、などが咲き、ヘビイチゴが実った。ツクシもたくさん伸びていた。季節が移ると赤まんま、月見草がいっぱい。どこからかタネが飛んできたのかハーブも生えていた。

初夏になると先に書いた雑草とともにヤブガラシがあった。これは折って帰り図鑑で確かめた。そうか、これはヤブガラシというのかと感無量。でも喜んだのは束の間で、夏になると繁る繁る。おっそろしいほど繁殖した。これが子供の時に見たあの寂しげな草の正体かとびっくりした。繁る前のまだ暑くなる前に見たんだね。
大阪のど真ん中の道路だからきれいに整地され植木が植えられ、いまは雑草が生える隙間がない。もうヤブガラシとも会えないかもね。

思い出いろいろ 第一回

ぼちぼち書き溜めていこうと思っています。

東京の思い出 その1 東京生まれ

わたしは戦前の東京で生まれた。住所は東京都品川区五反田まで知っていてあとは覚えていない。姉か兄に聞いたらわかるだろう。両親と姉2人と兄2人と弟の8人で5歳ぐらいまで住んでいた。
覚えていることは少ない。簡素な家があり狭い庭があり巡らした木の塀から外に出る木戸があった。庭に立っている洗濯干し竿に母がいつも洗濯物を干していた。
洗濯干しが終わると母は木戸から外に出て買い物に行く。弟をおぶった母に手を引かれて出ることもあったが、留守番するようにいわれて庭や縁側で遊んでいた日が多かった。ある日、母が買い物に出たのを追いかけて迷子になり、お巡りさんに連れて帰ってもらった。迷子札をつけていたので助かったそうな。

東京の思い出 その2 紙芝居

家の庭の周りに低い木の塀が巡らされていたが、ある日、紙芝居屋さんが塀の外に来て仕事を始めた。わたしは塀の中から板の間に顔を突き出して外の子供達といっしょに紙芝居を楽しんだ。「おたけ〜」と女中さんを呼ぶお嬢さんが出てくる。姉の名前が武子なので、姉が呼ばれているような気がした。
紙芝居が終わって顔を引っ込めようとしたら引っかかって入らない。耳が邪魔になってたみたい。通りかかった大人が顔を引っ込めてくれたのだが、それを兄が見ていて、「あれは◯◯だ」と当時の喜劇俳優の名前をいった。ほんまかどうかはわからないまま。

昼ごはんはお蕎麦

うちは朝起きたら白湯を飲む。朝ご飯は抜き。遅起きなのであれこれしているとちょうどいい塩梅にお昼になる。半年くらい前までは我が家の熱心なシェフが、パスタ、サラダ、肉の入った料理とコース料理のように調理していた。あるときお昼ご飯食べすぎやなと気がつき、相談してそれからちょっと量を減らすことにした。洋食が多かったのを和食を増やし、それも蕎麦やうどん、さつまいもに小豆をかけたのとか、軽めにした。洋食にしてもパスタ少なめでサラダを多く。アラジンのオーブントースターで焼いたオープントーストは肉系よりも野菜をのせる。
午後はお腹が減るから果物とかヴィーガンケーキとかカロリーのあまり高くないものを食べ、晩ご飯は以前のとおりたっぷり。お酒少々。いまのところそれが合ってるみたいで快調。

お蕎麦は乾麺を茹でている。麺つゆは何回分かを大鍋で作って冷やしておく。つゆには梅干しと生姜をすったのと刻みネギを入れる。お蕎麦の前に卵とか魚とかタンパク質と野菜を食べる。食後は甘いものをちょっと食べる。貰い物のお菓子とかクッキーとかこんなときあるとありがたい。
まあ、だいたいにおいてよく食べる。快食である。そして快便。

街の中で曼珠沙華

こどものとき、お彼岸に山梨県の母親の実家に行った。すぐ近くの丘に彼岸花(曼珠沙華)の群落があってどこまでも真紅の花に圧倒された。近所の人が山羊を飼っていて山羊の乳を飲ませてくれた。山羊の乳で溶いた粉で焼いたお菓子もうまかった。

いま、この辺りでもちょっと歩けば家の玄関先に置いた植木鉢や公園の片隅に誰かが植えた曼珠沙華が咲いていて楽しくなる。姉の家のあたりに行くと街路樹の根元にも咲いていて、去年も見たっけと微笑ましい。姉の庭にあるのは白の曼珠沙華で、最初はわざわざ買って植えたそうなので全体に大きい。毎年きちんと同じ場所に5本くらい咲く。また近所には赤いのが乱れ咲いていてなかなかいい感じだ。

この近くの以前は街路樹が植えてあったコーナーに花の咲く雑草が茂っている。猫じゃらしもあるから勝手に生えたのか人が関わっているかわからないけど。その中に1本だけ曼珠沙華がぐっと伸びて咲いている。がんばれよ、来年も出てこいよと応援した(笑)。