女子たちの授業放棄(わたしの戦争体験記 26)

この話はわたしの疎開生活の中でもっとも輝いているエピソードなので最後に書こうと思っていたのだが、親友が病気治療中なので病床の彼女に捧げる。

疎開して4年生の2学期から村の国民学校に入り、5年生の夏に敗戦を迎えたので、戦中1年、戦後1年を村で過ごした。戦後の1年は母親と弟と妹と4人で近所に6畳くらいの広さの納屋を借りて住んでいた。

この話はまだわたし一人で叔母の家にいたときのこと。

担任の男先生は男尊主義者だった。男だけが優れていて、女はダメだというのが主義。毎日毎日授業でいい、体操の時間にいう。わたしは女だから鉄棒ができないのでなく、わたしだからできないのだとわかってほしかった。

その割に平気で女子に肥えたごを担がせていた。女子は頭がダメだから疎開児だって肥えたごくらいかつげということだろう。

ある日、授業でうまく答えた男子を褒め、これは女子にはできないというようなことをいった。腹を立てたのはできる女子たち。お昼前の授業だったので、「わたしはこれで帰る。こんな状態であの先生に教えてもらいたくない」と言い出した子がいて、「そうだ、そうだ、これから家に帰って自分で勉強しよう」とできる子たちが賛同し、結局、勉強のできる子たちが家に帰った。わたしも家に帰って机の前に座り教科書を出した。叔母さんがどうしたのと聞いたので、かくかくしかじかと話したら、気持ちはわかるけど、ここで謝らないと大変なことになるという。結局は先生方が出てこない子の家に行って説得したみたいで、ストライキは中止となり、首謀者は教室の床に長時間にわたって正座させられた。わたしは首謀者ではなかったが、座っている子らの後ろに一緒に座った。途中で女性の先生が「あなたはもういいから帰りなさい」とわたしにいいにきた。

ふだんから勉強がよくでき、遊ぶときも中心になる子たちがその日は特別に叱られたが、結局は村の中でも恵まれた家の子なので穏当にすんだのだと思う。

彼女らは翌日けろっとして登校してたが、男子生徒の女子生徒差別は表面上は少しマシになった。

次の学期には違う先生が担任になった。