扱いにくい子

叔母夫婦の家(母の実家)へ着いて3日後に噂を聞いて近所に住んでいるK子さんが遊びに来た。ここの国民学校は1学年に1組だから同じクラスになる。母と叔母が仲良くしてねと頼んでくれた。姉にもらった着物を着た人形と着替えの着物を見せると、すぐに着替えさせて遊び出した。「良い着物はどれ?」はすぐに返事ができたが、「いな着物はどれ?」がわからない。「いな」が「否」とわかるまでだいぶかかった。
K子の家はいちばん近くだが道路と畑を隔てたかなり向こうだった。それから2年は否応なく彼女と連れになって過ごすことになった。

わたしは東京で生まれて5歳で大阪に転居したので言葉で苦労した。ようやく関西弁に慣れたのに、今度は関東系の言葉である。もともと無口だったのがよけいに口をきかないようになった。いまそういうと嘘やと笑われそうだが、ほんとに10代のはじめまで無口でとおした。
山梨弁は関東弁をもひとつ田舎弁にした「そうけ」とか「そうずらよ」とか、いまになれば深沢七郎の小説でなじみだけれども、だんだん慣れてきて日常的に使うようになった。
それにしても、山梨県では大阪は異界だった。「この子は扱いにくい」という祖母の口調が思い出される。

わたしの手足はブヨのご馳走

わたしが咬まれまくり掻きまくってデキモノになったブヨは「関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる」とウィキペディアに出ていた。小さな黒い虫で気がついたときはしっかり咬まれている。腕と脚は掻いて血だらけ。大阪から持って行ったメンソレをつけたって効くはずなし。富山の薬屋さんの薬を叔母さんが塗ってくれた。血を拭って包帯を巻いたがその上から痒い。現地の子は慣れてるとみえて掻いている子は全然いなかった。それからのまる2年、体操の時間は見るだけであった。おかげで元々あかんかった鉄棒や跳び箱は見学だけ。6年生になっても試験のときなど特別に跳び箱3段(笑)。

持って行った夏物ワンピースを最初のうちは着ていたが、やがて学校からモンペをはくように命令がきた。ピンクに白い花模様のと、グリーンに白い子犬もようの服がお気に入りだったが、絣のモンペに着替えた。それでも母が縫ってくれたピンクを織り込んだ絣だったのが救い。モンペの上からもブヨの噛み跡を掻いていたっけ。

田舎の生活はいやでしようがなかったが、救いは桑の実とあちこちから湧き出す泉だった。ちょっとした石が積まれた奥に冷たい水が湧いていた。村の名は当時「御屋敷村字清水」だったが、地名にまで「清水」と入っているくらい水がきれいなところだった。ブヨに噛まれた足に泉の水は冷たくて気持ちよかった。

ブヨは噛まれたときはもう遅い。腕にたかっているのを見たらすぐに叩くのだが、いつも遅れる。小さいくせに強烈な毒針を持っていた。夕方が特に好みの時間帯みたいだ。
とにかく腕と脚の表面がずるずるで包帯だらけ。傷には包帯しないほうがいいといわれても、汚い腕や脚を出すのもいやだった。

疎開少女の友『小公女』と『イエロー・エンペラー』

『小公女』は姉から譲られた本で小学校へ行く前から読んでいた。いまも大好きでときどき読む。逆境から抜け出して幸せになるところがいまだに好き。夜中に物音で目を覚ましたらベッドには暖かい毛布がかかっており、暖炉が燃え、食事の支度ができている。夢かと触ってみるとみんな本物だった。戦争中のこどもにはありえないことだが、夢を見るのは自由だ。

『イエロー・エンペラー』は、戦後になって出た村岡花子訳の文庫本『リンバロストの乙女』上下を大切に持っている。『イエロー・エンペラー』にわたしがあんまりこだわるので読書会に来ていた図書館員が調べてくれたら千里の児童図書館にあるのが判明。わたしは千里まで行って懐かしの本に再会できた。コピーをとってもらって(コピー代6000円払った)大事に保存してある。3年生の誕生日に父から贈られた本で、いま読むと翻訳が下手くそでしかも抄訳だが、空想でふくらませて主人公エルノラに憧れていた。みじめな疎開少女のわたしはこの本で自立することを学んだ。無神経な田舎の大人や子供の言葉がつきささったが、黙って耐えることも覚えた。孤独に桑の実を食べながら。

疎開するにあたって父からたくさんの本を田舎へ送ってもらったが、ほんとうにわたしは本で命をつないだといっていい。これも大事な人形とともに物語を紡ぎながらカイコのガサガサ桑の葉を食べる音を聞きながら眠った。

桑の枝の皮をむいて供出

山梨県へ着いたのは夏休みがはじまって間もなくだった。母と学校へ行って先生に挨拶したらすぐにお国へ協力するようにいわれた。桑の枝をむいて乾かし束にしたものを二学期の最初の日に持ってくるように。集まった皮は繊維にする。そして軍服になるのだとのこと。
叔父が桑の枝を切ってきて、母と姉とわたしで皮をむいた。わたしにはそんなことするのは無理だったなあ、これも叔父さんが助けてくれた。

母と姉と弟2人が大阪にもどったあとの二学期の最初の日、むいた皮を干して束ねてリヤカーに積んで学校へ持って行ったら4貫目あった。他の生徒はもっといっぱい持ってきていた。10貫目の子もいた。(※1、1貫目は3.75kg     ※2、この行為を「供出」といった)

この皮の繊維で作った軍服が実用になったかは知らない。学校で先生がこれがあんたたちの桑の繊維で作った服と見せたことはあった。ごわごわして気持ち悪かった。

昭和19年夏、国民学校4年生の二学期はこうしてはじまった。

ブラックベリーと桑の実

先日、完熟のブラックベリーをたくさん自分の庭から収穫してきた人からわけてもらった。口に入れると甘くておいしい。ブラックベリーは昔から瓶詰めのジャムを買って食べていたが、採れたての熟れた実を食べるのは今回がはじめてだ。口に入れて「うまーっ」と叫んだが、このうまさって経験がある。母の実家の山梨県の桑畑で採って食べた味だ。

小学校4年の夏、一学期がすんだときに大阪市の小学校(そのころは国民学校)の子供たちは田舎に疎開させられた。縁故がある子は縁故疎開、ない子たちは学校からまとめて集団疎開だといわれ、わたしは一人で母の実家の山梨県に厄介になることになった。夏休みに母は下の弟を背負い、上の弟とわたしは上の姉と手をつないで合計5人で大阪駅から名古屋へ、中央線に乗り換えて山梨県の甲府の次の駅「日下部」で降りた。そこから1時間以上歩いて後屋敷村に着いた。
母や姉と弟たちは1週間くらい滞在して大阪へもどった。わたしはひとりで祖母と叔母さん夫婦と息子2人が住む家の居候になった。叔母さんは母の一番下の妹で婿養子をとって家を継いだ。

思い出すだに涙がにじむ疎開生活。大阪新町で暮らしていた子が甲州弁の中で生きていかねばならない。東京から来た子はまだよかったが大阪っ子はいじめられた。
聞くも涙の話はまたにして、桑の実の話。
叔母の家では畑の他に養蚕をしていた。母屋の上に2階と3階があり、低い天井の下にカイコがムシロの上でざわざわと音を立てて桑の葉を食べていた。
叔父叔母は早朝に桑畑に出て葉を収穫する。背中にカゴを背負って採った葉を入れる。ある日、わたしは桑畑で桑の木に実がなっているのを見つけた。口に入れると甘くてうまい。これは商品ではない、食べても大丈夫だととっさに思って食べ続けた。おいしいから食べたのだけれど、桑の実のせいでビタミンCが摂取できたのだと思う。実のなる木を見つけて覚えておき摂取に励んだ。けっこう寒くなるまで実っていたっけ。現地の子はだれも食べてなかった。

それから半世紀くらい経ってから、長野県の物産展で桑の実ジャムを見つけて買ったことがあった。調味料のせいで甘すぎ。その後また忘れていた。
八ヶ岳に登った時など山に入るまでの道で畑を目で追ったけど、桑畑はあったけど実のなっている木は見当たらなかった。

地震、大雨、酷暑、台風

6月18日の朝に地震があった。書いておくととても便利で、「大阪府北部地震 震度6弱、震源の深さ:13km、地震の規模:M6.1」というタイトルを見つけてコピペし、そうやった〜と納得した。余震がたいしたことなくてよかった。それから梅雨に入って大雨だ。でも大阪はたいしたことなく早めに梅雨明けした。

だけど西日本豪雨ではマスコミのニュースによると、死者126人、不明79人の大災害が起こった。
今回、友だちの親戚のおうちが被害を受けた。家や車が大打撃の様子を聞いてショック。早く復興できますように。
阪神大震災のときの様子を思い出し、第二次大戦の空襲を思い出し、父親に聞いていたはるか昔の関東大震災を思い出した。

梅雨が短かかったので、今年の夏は長いでとしゃべっていたら、セミの声も聞かないうちに猛暑に突入。毎日毎日、暑い暑いといつもはなかなかつけないクーラーを早くからつけて日常生活を送っている。
その暑さの中で台風が発生。台風のコースがいつもと違うそうで、ラジオのニュースを読む人も慎重である。最初のほうの予想ではどうやら東から西へ向かっており、ほとんど大阪直撃っぽかった。いまは少しそれたようだ。だから一安心というわけにもいかないだろうけど。とにかくここでこの日記をアップしておこう。これから経験して、明日になれば結果がわかる。お風呂に水を溜めておかなくちゃ。

今度は台風、そしてヴィク・ファン・クラブ会報の件

今年はしんどい年だ。地震があって、大雨が降って、そして酷暑の毎日と厳しい気候が続いている。そこへ今度は台風がくる。明日の夜はどのように過ごしているだろう。どんな規模の台風がやってくるのだろう。

台風がくる前にポストに行きたいと、ぎりぎりになってヴィク・ファン・クラブの会報づくりに追われている。10日過ぎから気になっていたのに、とりかかったのは15日過ぎで、それからはしんどくてなかなかやる気が起きない。暑さのせいにしとこ。

おとといになってようやく9割がた形になった。昨日は「あとがき」を書きプリントした。まだ綴じ仕事が残っている。封筒作りをしたら、宛名シールを貼る糊が切れていて買いに行った。ぶうぶう。
これから綴じて封筒入れして切手貼って送るのを予定としては今日中にやる。または明日起きたらすぐにポストに入れに行く。

マイク・デイヴィス『スラムの惑星』の扉に圧倒された。外は歴史的大雨

ラジオのニュースをかけて食事している。今夜は歴史的大雨のニュースが中心だ。各地に想像を絶するような雨が降ると野村アナウンサーが告げている。今夜はときどきラジオをかけつつネットニュースにも気配りしようといいながら晩ご飯を食べた。片付けも早めにちゃっちゃっとやった。

先日からアマゾンで何冊か本を買って読むつもりでいるが、雨に圧倒されて集中できそうにない。在庫本を開いてお気に入りのところを読んでいる。まあ、これも楽しいのだが。

今日届いたマイク・デイヴィス『スラムの惑星』(明石書店)は数年前に図書館で借りて読んだことがあるが、今回「酒井隆史 監訳」というところに思い入れがあり買うことにした。開いて驚いた。いきなり扉に1行「都市は発展して、スラム、半スラム、超スラムになってしまった」(パトリック・ゲデス)とある。圧倒された1行。

雷三日だから明日も

昨日の午後遅くに雷が鳴って激しい雨が降った。夜中にも雨の降る音が聞こえていた。どっちも長く降らなかったけど、激しい雷雨だった。今日の午後も昨日と同じくらいの時間に雷が最初は遠くてだんだん近く激しくなったと思ったら降り出した。昨日といっしょやといいながら、今日はわたしひとりで洗濯物を取り入れた。今日の雨はたいしたことなく止んだが、それでも洗濯物を取り入れといてよかった。いっときでも激しい雨だからどうしようもなかったもん。

雷三日というから明日も同じような天気なのかな。雷が発生すると大気の不安定な状態がしばらく続くのが原因らしい。
そのつもりで午後の散歩は雨があがってからにしよう。
今日も夕方遅くにヴィク・ファン・クラブの会報をポストに入れに行った。6月号を6月30日に出しにいったよ〜 文字びっしりの格調高い会報だよん。

本田選手頑張って! VFC会報やりながら応援

いまヴィク・ファン・クラブの会報6月号制作中。毎月しんどいとぼやいてるけど、けっこう手間がかかって疲れる。でも出来上がってみると、いい会報だなあと自画自賛する。気持ち良い。
今月は制作途中で地震があった。お見舞いのメールを何通もいただいたので、それも中にはさんで会員の6月の生活記録が出来上がった。
何年かのちに、VFC会員の経験した大阪府北部地震のドキュメントとして貴重な資料になるかも。そんなことないか笑。
会員の方々が喜んでくれるからもうひと頑張りする。

さて、サッカーは本田選手の活躍が目立つ。わたしは本田選手がデビューしたときからのファンである。本田選手はわりとサッカー好きな人たちに嫌われていて、わたしは「くみこさんおかしいわ、なんで本田が好きやのん」と呆れられていたけど、「本田好き」を通してきた。見てみ〜本田選手すごいやん。2018FIFAワールドカップ(W杯)ロシア大会で大活躍。