薪でご飯を炊いていた(わたしの戦争体験記 87)

いまや笑い話であるけれど、戦後から何年かわが家は薪でご飯を炊いていた。もちろん近所中がそうだった。煙突のついたかまどがあって、新聞紙を丸めて火をつけ細く割った薪を燃やす。そのあとは太い薪をずんずん燃やしてご飯を炊く。
かまどの他に鉄のガスコンロが一つ、七輪が一つあって、それで9人の3食をまかなう。味噌汁やカレーが大鍋で出てきてた。
親が留守の時はお腹が空いたらフライパンを七輪にのせて「おやき」を焼いた。小麦粉を水でとき砂糖があれば上等だった。

まあ、いまも同じようなものか。ガスレンジとオーブントースターがあるから一応文化的笑。電子レンジは使いません。食器洗い機がなくてお湯を流して洗っている。

台所の水道がうまく床上までこなかったので入り口横のかめに溜まるようにし、ひしゃくで汲み出していた。父がお風呂が好きで大きなタライを手に入れてきたので、場所を作ってタライで湯あみした。工夫したらなんでもできると自慢していた父と行水の後始末に追われる母。

イタチが走る昔も今も(わたしの戦争体験記 86)

「ネコがネズミとってイタチが笑う、ぱちぱち」子供たちがはやしている。なんか引き込まれる声にこっちもそっと真似してはやしていた。戦争中に夜の新町を兄たちと歩いていると、イタチがすごい勢いで前を横切っていった。「イタチを捕まえたらいかんぞ、屁が臭いぞ、最後っぺが」と父にいわれていた。いわれなくても、あんなスピードで走っているのをどうしようもない。

「うちの台所にも住んでるよ」と母がいう。古い木造の二階建ての家で北側に台所があり、水捌けが悪かった。アメリカ軍の空襲でやられて「あの台所から解放されたのはよかった」と母がいっていた。昔は田舎から女中として新町に住み込みで働きにきた女性たちがいて、古いつくりの台所で働いた。北向きの寒い台所を使うことになった母親は辛かったろうが、あの台所には新町の女中さんの気持ちが残っていたんやな。母は足元をイタチが走るので高下駄を履いて仕事していた。

いまも元新町演舞場の横の溝からイタチが飛び出し道を横切って全速力で走っていく。近所の地主さんにイタチを見たといったら「イタチようけおりますで。よう走っとる」とのことだった。戦争中に見た子らの子孫かな。

コロナの日々

今日も朝起きるなりネットでコロナニュースを読んだ。全国と大阪府を読んでからユーチューブでいろんなひとたちの意見を聞く。聞いているうちに落ち着いてきて安心する。その合間に、お風呂に入ってマッサージをして、洗濯機を動かして今日の第一食目のご飯になる。

今日はコロナさえなければゴールデンウィークの最初の日である。暖かく柔らかい日差しが瑞々しい。そんなことをふと思ったが、ふと思っただけでコロナの日々は変わりようがない。毎日、感染者や死者の数が加わっていくニュースを聞いて過ごす。
いつ自分の番になるか、やっぱり戦々恐々という気持ち。毎日お日さん浴びて三密に気をつけよう。

いつかコロナの日々が終わって、思い出話になることだろう。いま太平洋戦争の思い出を書いているように、コロナの思い出を書く時代がくるだろう。そう思いつつ工夫してコロナを避けよう。

手紙友達からメール友達へ

毎日メールで友達とつながっている。すぐに返信をくれる友がいて幸せなことだ。昔は手書きの手紙をよく書いていた。若い女子が夜に手紙を書くと感傷的になって朝になって読み返すと顔から火がでる状態になる。兄貴分のボーイフレンドがいて、悩みなんかを聞いてくれるのだが、しまいには聞き飽きてしまう。それほど身勝手な悩みがあったのだなあ。下手な絵も添えてよく書いたものだ。甘えの構造くん。

中学校に図書室ができて、どこからか本がやってきて壁際に並べられた。図書委員に立候補して当選し、毎日図書室で本を読んでいたっけ。図書室にある夏目漱石をほとんど読んだ。
姉・兄の買ってくる『改造』や『思想』や真面目な雑誌もよく読んだ。『スタイル』や『それいゆ』や『スクリーン』は出るごとに姉が買うのを読んだ。なんでも文字を読むのが好きだった。
本を読む間に手紙を書いていた。さすがに学校では女子にあてて書いた。夜書く手紙は少し年上の男子宛。

いまはメールでなんやかやと身の回りの話や病気の話が多い。病気というより体調の話やね。目も耳も歯も疲れてよれよれであるから。それを笑い飛ばすのがわれわれ女子のなれの果て。

堀江、新町 いまむかし(わたしの戦争体験記 84)

「ちょっと野菜を買いに行ってくるわ」と相方が午後出かけて行った。知り合いの堀江のレストランがコロナ騒動で休んでいて、代わりに野菜や食品を売っている。「売り上げに協力せんとなあ」とズッキーニとか買って帰った。明日はうまいパスタが食べられる。

我が家は新町にあったが堀江は4年生で疎開するまでわたしの遊び場だった。壽(ひさ)ちゃんという友達の家は芸者屋だった。そのおうちで人形ごっこなんかしてよく遊んだ。わたしは疎開してしまったが、ひさちゃんはあれからどうしたろう。

のちのち75年後、市立図書館の庭にある「木村蒹葭堂」の碑を知り、図書館で催された蒹葭堂展を見て、蒹葭堂作品のカタログを買い、図書館で借りて中村真一郎の大きな本『木村蒹葭堂のサロン』を読んだ。
江戸時代、木村蒹葭堂を訪ねてきたひとは、蒹葭堂が留守だと新町の遊郭へ遊びに行ってその夜を過ごしたそうだ。蒹葭堂はすごい数の友人がいて、ものすごい博学の人である。いま生きていたらTwitterやFacebookで大活躍だろうな。

緊急事態宣言が出る

なんだかよくわからんけど、明日7日緊急事態宣言が出る。外へ出ないようにして生活するのなら毎日家にいるから大丈夫。静かに暮らす。密集、密着、密閉の「三つの密」を避ける「三密回避」も大丈夫。おとなしくしてます。

これで今日の日記は終わり、では色気ないなあ。
なんかことがあって張り切るのは好きで、震災ボランティアに打ち込んだり、「なんたら反対デモ」に行くのも好き。

今回は反対になにもしない非常事態である。
いや違う、相手は手強い新型コロナウイルスだ。わたしのしなければいけないことは、じっと耐えて「三密回避」である。

コロナの日々を書き続ける

おとといはあまりにも平凡な日だったのでブログは休もうと思って、ほんまに休んでしまった。書くネタがないからたまに休もうぜってことなんだけど、1人からはコメント、1人からはメールをもらって両手を引っ張りあげてもらった感じ。
こんな珍しい時代に生きているのに寝てしまってはいかん。いかにこのしんどい時代を生き抜いているか書き残さなあかん。いまはまだ生き抜いているとはいえないし、生き抜いていけるかもわからん。そんな時代のその過程を書いておこうと改めて思う。

午後にケアマネさんが来てくれた。わたしがデイケアに行くための書類を書いたのと医師に書いてもらった康診断書書をとりに来てくれたのだ。約束時間をずいぶん越えて現れた彼女は「コロナ関連の相談事が多くてどんどん時間がとられる」とぼやいていた。
デイケアは開いているそうだが、わたしはコロナが落ち着くまで待とうと思う。せっかくリハビリに励もうと思ったのがまた伸びてしまうが、高齢者につきイノチを大切にしようと思う。家でじっとしているのは得意だし。

部屋につける手すりのOK書類が区役所からまだきてない。業者さんはOKがきたらすぐに取り付けてくれるそうだ。手すりで支えて体操したいので早く取り付けてほしいなあ。

毎日、新型コロナウィルス関連のニュースを追いかけながら過ごしています。

灯火管制(わたしの戦争体験記 83)

21日に書いた「記憶の夜店」から記憶をたぐっていって「ラヂオ焼」にいたった。記憶の中の夜店は「戸屋町の夜店」だった。阿波座から四ツ橋へんまで連なる長い夜店だったという。父親と兄たちといっしょに夜店をぶらつき「ラヂオ焼」はテントを見るだけで食べさせてもらえなかった。四ツ橋から住まいに帰る道はびっしり民家が建っているが、みんな灯火管制によって灯りは少しももれてなかった。薄暗い街並みを黙々と歩く一家。話す声も抑えたヒソヒソ声でたよりない。それでも兄たちは落語の物真似をして笑わすのだった。

家に帰っても電灯は笠にかけた黒い布におおわれているから、立って本を電灯の下に広げて読むのだった。兄が場所をとってしまうので、わたしは引き下がっていた。「あんたはおてんとさんが出ているときに読みや」と母がいうし。

夏は戸を開け放してすだれやのれんを下げているが、灯りは防げても声がもれるのが難点だった。とにかく子沢山なので、灯りも声も押し殺さねばならない。どちらも漏れると隣組の会長さんから苦情が来る。ひっそりと、ひっそりと暮らしていた。それにうちは子供が7人もいるのにひとりも戦争に行ってないので肩身が狭い。姉たちは女だから免れ、兄たちは2年ほど年齢が低いので免れていた。

コロナと戦争 どっちが怖い?

昨夜は姪と電話でいろいろ話して気分がすっと明るくなった。姪のほうも明るくなってればいいな。話の内容は明るいものではないが、言葉を交わして笑いあって気分が晴れた。

コロナ怖いの話の中に「おばちゃんの長い人生で怖かったのは戦争?それともコロナ?」というのがあった。「ちょっと比べられへんけど、そりゃ太平洋戦争は大変やったで。家は丸ごとアメリカの爆撃で焼けたし、知り合いは死ぬし、食べるものはないし・・・」「ふん、おかあちゃんからよう買い出しの話を聞いたわ」
彼女の母、つまりわたしの姉は母といっしょによくサツマイモの買い出しに出かけていた。少し年下のわたしは買い出しに行くのは免れて食べるほうだった。
疎開から帰って住んだところはちょっと田舎だったので、イモを背負ってくる代わりに、散歩しながら道端の草を抜いて帰ったりした。わたしはタンポポやセリなど見つけるのが早いので「歩く植物図鑑」といわれたものだ。

コロナと戦争どっちが怖いか。コロナは進行中である。比べるのは終わってからだ。

記憶の夜店(わたしの戦争体験記 82)

子供のときの思い出に「夜店」がある。ずっとその夜店はどこだったか考えていたが思いつかなかった。「三国」だと父母と姉2人と兄2人とで風呂屋に行ってそれぞれと帰りに夜店に寄ったような気がしていた。でもどうも違うのだ。三国の風呂屋は2軒あって、待ち合わせて風呂から出ると帰り道はキャンデーを舐めたりしゃべったりしながら30分歩くのだった。それほど文化はてる地域が疎開から戻ったわたしの我が家だった。
三国の夜店はよく覚えている。三国商店街が駅前からすぐにあって、商店が閉まるとその前に屋台が並んだ。古本屋が1軒あってミステリ誌『宝石』を月遅れで毎月買っていた。風呂屋の帰りによく寄った。

歩きながら姉たちと兄たちと親たちの話を聞いて、彼らの買った本や雑誌を読んで、わたしもいっぱしのことをいうようになった。戦後文化を身いっぱい浴びていた。

いつも「夜店」という言葉で思い出すのは「三国」だけで、なにか違うなーという気がしていた。薄暗い夜道に浮かんだ緑色のテント生地の「焼ヲジラ」という文字。「ラジヲ焼」が右からになっていた。あれはどこだ。ラジヲ焼を食べさせてもらったことはない。その文字を眺めていただけである。その文字がいまもわたしの脳裏にあってぼーっと浮かんでいるだけである。

それが大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』にあったのを先日見つけて晴々した。「焼ヲジラ」の写真があったらもっと喜んだと思うけど(笑)。

昨夜はここまで書いてアップした。ちょっと書き残しがあったのと、間違いがあったので訂正する。
●書き残し
夜店の名前は「戸屋町の夜店」。徳川時代からという古い町だそうだ。明治になってから阿波座上通りと改名されたが、夜店だけに「戸屋町」と名前が残ったそうである。
●訂正
「焼ヲジラ」ではなく「焼オヂラ」と読者の方が書いておられた。こっちが正しい。