大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請

夕方7時のNHKラジオニュースの第一声で『大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請』といってた。おどろいたというか、ここまできたかという気持ちである。聞いているときは笑ったが。まあ兵庫県へ行く用事はないし、知り合いもいないし、静かにしてるけど。

昔阪急神戸線の神崎川に住んでいたことがあって、隣り駅は園田で兵庫県だった。歩いて行ける身近な場所だったなと思い出した。あのときだったら近所の人たちとひと騒ぎしたかも。おしゃべり好きな下町のおばちゃんばかりだったから。

コロナ騒ぎがすごいことになってきて、戦争中を思い出した。
太平洋戦争中のわたしが子供の時、わずかなお米を水増しして炊いて「楠公炊き」と称した。新聞や雑誌に作り方がのっていたのを読んで各家庭で炊いた。
これから米不足になることがあれば、テレビの料理番組で「楠公炊き」をやりそう。「レンジでチンして楠公炊き」なんちゃって。

新町花街九軒の桜堤(わたしの戦争体験記 81)

大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』を久しぶりに本棚から出してぱらぱら見ていたら、「新町花街九軒の桜堤」とタイトルがついた見知った風景写真があった。九軒(くけんと読む)は新撰組の芹沢鴨の話で知られたところだ。その話はこの本に書いてあるが、今日は別なことを書く。

広い通りが真ん中を通っていて西を向いて南側は桜堤、北側は建物がある。今日このページを開いて「あっ!」っと声が出た。写真の真ん中は道路がまっすぐにある。この道路の真ん中に立ったら、左右と正面が見える。その景色は写真も今も同じなのだ。
子供の時にここいらを通ったことがあったかな。「あっちのほうには行くな」といわれていたような気がする。もっぱら遊びは四ツ橋、阿弥陀池、長堀川にかかる橋くらいだった。
いま道の南側は昔の桜堤の面影を残して桜の木がたくさんあり、花見シーズンはずいぶん賑わう。北側はオリックス劇場(以前は厚生年金会館大ホールと中ホールが並んでいた)である。そこが新町遊郭の一角だったのだろうか。
いまから40年前にいまの住まいを見つけて引っ越した。それ以来の新町ぐらしなのに、いままで「九軒」を忘れていた。たしか公園の植え込みに碑が建っていたはず。もう一度確かめに行かねば。

『西区むかしの物語』はたしか区役所に用事で行った時にタダでもらったものだ。なかなかおもしろくてためになる。平成12年発行。

大阪大空襲から75年目の3月13日(わたしの戦争体験記 80)

元気とはよういわんがまだ生きてます。85歳だから75年前は10歳だったのね。その前の年の夏に学童疎開で山梨県に疎開してしんどい毎日を過ごしていた。大阪大空襲でうちが焼けてしまったなんて思いもせず、雪解けの季節になっていた。下駄の歯の間に雪や泥が詰まって歩きにくかったなあ。自分で縫った鼻緒をつけた高下駄だからなおさらだ。

その日は3月だから雪解けがはじまった畑や道はどろどろしていた。なぜか道路にいた子供たちが「向こうから人が歩いてくるじゃん、だれづら」と騒ぎ出した。「乞食づら」という者もおり、わたしも「乞食け〜」といいながら歩いてくる人らを眺めた。なんと!その乞食と思ったのは母と姉2人と弟と妹だった。5人は手をつないで道いっぱいに歩いていた。

3月13日のアメリカ軍空襲から命からがら逃げて、とにかく母の実家へ汽車を乗り継いでやってきた。「家は焼けてもうないよ」「えらい目におうたわ」「生きているだけありがたい」母と姉たちは口々に話した。
そのとき、わたしがいったという言葉「うちが焼けてよかった」はのちのちまで母が笑い話にしていた。親戚とはいえ他人の家にいるのはしんどかったんやな。

薄日がさしてきた

なにがなんでも毎日の日記だけは書こうと思って何年経ったやろか。特にこの2年間は体調がすぐれず、足腰よろよろ、目と歯が弱って、口だけはしゃべるほうも食べるほうも達者・・・というありさまであった。
周りの人たちからはデイサービスに行けとか最近はデイケアというのがあるでと意見され、ようやく重い腰があがったところである。デイケアって知らなんだ。からだを動かすことを教えてくれるんや、これにしよと見学に行ったところである。
行こうと思うと心を決めたので、いま申し込み書を書くつもりのところ。けっこうめんどうくさい。

1年半かけて腰の痛みにストレッチで対処して脊柱管狭窄症を治したのはよかったが、次に控えてたのはひざ痛だった。いまアロママッサージと体操で治すのに懸命である。
プラス、今度はちゃんとデイケアの専門家に教えてもらおうと必死のかまえ。

今日は家にいて台所の片付けをしてネットニュースを見て、村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んでいた。地下鉄サリン事件は阪神大震災のあとに起こった事件だったが、どちらも衝撃的だったなあと改めて思い出した。村上さんのおかげで。

今日は久しぶりに初めての方からメールをいただいた。そのあとに、もう30年近く付き合っているヴィク・ファン・クラブの会員さんから楽しいメールがとどいた。なんかうれしい。暗かった心に薄日がさしてきた。

かぼちゃのほうとう(わたしの戦争体験記 79)

「うまいものはかぼちゃのほうとう」は母の口ぐせだったが、そのわりに我が家は「おほうとう」は食べてなかった。母自身が若い時に食べ過ぎてもう食べたくなかったのかも。
昨夜ふと、今年はおほうとうを食べてへんなあと言い出したら「かぼちゃがあるし、明日してやる」との返事。「豚肉も入れてかぼちゃだけでなく野菜たっぷりのうどんにしてやる」そうで、今夜これからつくるので楽しみだ。

昔は山梨県ではみんな「おほうとう」を食べていたようで、山梨県出身のパンクミュージシャンと話していて笑ったことがあった。もうだいぶん昔の話で、わたしよりは10年くらい若いとしてもいいお年になっているだろう。話したときだって「いまはおほうとうといっても若者に通じないよ」といってた。

そういえば、東京の友達が「おほうとうセット」をおみやげに買ってきてくれたことがあった。太い半生のうどんで出汁のパックも入っていてけっこう高価そうだったが、うちで普通に作るうどんのほうがうまいと思った。

わたしは太平洋戦争というと「疎開」と「おほうとう」と「吸血虫 ブユ」を思い出す。「空腹」とともにきれいな「湧水」と「桑の実」も。いまは湧水を手ですくって飲むなんてしないだろうし、桑の実だって洗ってから食べるだろう。桑の木が道端で伸びている風景ももうないだろう。

大阪大空襲から75年

1945年の大阪大空襲から75年経つのか。さっき妹から電話があって大空襲のことを知りたくて本を買ったという。小山仁示さんの『大阪大空襲』と聞いて「小山さんご夫婦知ってるがな、昔は奥さんとよく遊んでた」と大声が出た。妹はびっくり。

妹は大阪生まれだけど大阪大空襲を知らない。二番目の姉に背負われて爆撃の中を逃げ惑っていたのも覚えていない。それでも毎年3月になると思い出して電話してくる。今年は本を買ったとうれしそう。本の著者を聞いたら小山仁示さんというので、「ご夫婦とも亡くなったけど友達やったよ」といったらびっくりしていた。若いとき奥さんの節子さんにお世話になった。わたしがボーッとしているとあれこれ世話をやいてくれた。まあ子分のようなものでお二人の結婚式では来客受付をした。でもいつのまにか別々の方向に進んで、お会いすることもなくなった。
節子さんはお子さんを残して早く亡くなられたが、わたしはそのことを知らず、小山さんの講演会で声をかけて何時間か話したときに伝えてくださった。

そのとき以来、小山さんにお会いしていなかったが、新聞で訃報を読んで、わたしの時代の人が減っていくのを実感してさびしくなった。あの講演会のあとのコーヒーが最後だった。

関西弁と関東なまり(わたしの戦争体験記 78)

わたしは東京都品川区で1934年に生まれた。5歳で大阪新町に移転したときは近所の子たちに東京弁をからかわれ、必死で大阪弁をしゃべるように努力した。国民学校(小学校)に行く頃は大阪の子として大阪弁を使うようになっていたが、家では父親が東京弁を使い、母親は東京弁と山梨弁を交えた大阪弁を使っていた。姉兄たちは外では大阪弁、家では東京弁も交えて使っていた。
わたしは国語の時間に教科書を読むとき関東なまりで読むので、先生にうまい朗読とほめられるわ、みんなに感心されるわで得意になっていた。

山梨県へ疎開したときは、最初に大阪弁を笑われてから気を付けて東京弁を使うようにしたので違和感が少なかった。それも山梨弁よりも正しい標準語という感じで読むので国語の時間はクラスの華だった。6年生になると講堂で本の朗読をさせられたりした。でも勉強のできる子たちのほうが結局は勝ちで、勉強のできない子たちに慰められたりした。

6年生の夏に大阪にもどると国語の時間は先生に指名されて朗読することが多かった。クラスで勉強のできる子たちのグループがあった。わたしはできない子たちとの付き合いが多かったが、少しファンがついて投票などあるとけっこう人気があった。

わりと最近のことだが、初対面の人に「スギヤさんは関東出身?」と聞かれた。大阪弁でしゃべっていてもどこかに関東なまりが出るらしい。107歳で亡くなった父は死ぬまで東京弁だった。施設に入ったとき同室の人たちに影口をたたかれていたけど、気にせずに東京弁をとおしていた。

新型肺炎

さっきネットニュースでいってたが、新型コロナウイルスへの対処は簡単で、1 お日さんをよく浴びる、2 栄養をきっちり摂る、3 よく眠る、の3つを実践したらよいとのこと。コロナウィルス対策だけでなく生活の基本だよね。
そしてマスク。在庫を調べたらあまりないのがわかり、ちょっとまとめて買ってきた。これで一安心。そして、外出から帰ると手洗いを忘れないこと。

昔、小学校にあがる前にジフテリアで入院した。わが家から次兄、わたし、弟の3人が隔離病棟へ運ばれ入院した。1ヶ月後に兄とわたしが助かって退院し、弟は死んだ。白衣に囲まれて病室に運ばれたこと、隣のベッドの同じ年齢の少女が苦しくて暴れ、ベッドに紐で固定されたことを思い出す。彼女はその夜に暴れた末に死んだ。

退院のときは持っていった本やおもちゃなどすべてを没収された。返してもらったものも消毒薬で真っ白で、結局病院に置いて帰った。
伝染病や隔離病棟のニュースを聞くと、就学前にジフテリアで長期入院したことを思い出す。

本読みの原点

10日くらい前から久しぶりにドロシー・L・セイヤーズの『学寮祭の夜』を出して読んでいる。わたしの原点の二番目になる本だ。
一番目は『小公女』で、いまでもときどき「青空文庫」で読む。きつい仕事を終え汚い屋根裏部屋でセーラが疲れ果てて眠り込んだ頃合いをみて、隣家の使用人のインド人が入って暖炉に火をつけ、テーブルに食事を並べる。目が覚めたセーラがおどろき喜ぶところが大好き。

セイヤーズのほうは初めての訳本『大学祭の夜』をずっと抱いていたがボロボロになったので今年になってついに捨てた。浅羽莢子による新しい訳の『学寮祭の夜』も文庫本がずいぶん古びたがこればっかりは死ぬまで捨てることはない。何度も読んだ本だからどこを開いても会話やシチュエーションがわかっている。事件そのものよりも、女性と男性について考えさせてくれる本である。

サラ・パレツキーのヴィクシリーズは本箱の大きな部分をしめている。アメリカで最新作が出たが、その前の1作品が訳されていないのが残念だ。英語が読めたらええのになあ。

ひざの水を抜く

先日我が家へ来てくださったKさんがわたしのひざを見て「水が溜まってる。早く抜いたほうがいい」といいはったので、「水は抜かないほうがいいらしいけど」と答えた。いつの間にかわたしは膝の水は抜かない主義者になっていた。Kさんはわたしのひざを見て、こうなっているから水は抜いたほうがいいと説明してくれた。なるほど。
その後にネット検索したら抜いたほうがいいという意見が多くて、なるほどなあと納得できた。さっそく今日整形外科に行ってひざの様子を診てもらい水を抜いてもらってきた。決めたら早い笑。もともと先生は「今度は水を抜こう」といわれていたのだが、わたしが嫌な顔をするのでほおっておいたみたい。「そうか、そうか、痛みがきつうなったみたいやな」といってすぐに抜いてくれた。左右ともやったのだが、右足のほうが量が多かった。

診療室から出る足がしんどくてどないしょうと思った。迎えに来た夫に車椅子に乗せてもらい帰ったが、しんどくて足を引きずっていた。でも、ご飯を食べて片付けて、夫はクラブへ出かけたのでこれを書き出した。座った時はまだ痛かったが、いまは(立ってみて)かなりマシ。なんとかなりそうだ。きっと明日は元気。
せっかくの長い冬の夜だからコーヒーいれてビスケットでも食べよう。ヴィク・ファン・クラブのサイトを開いて、1998年にアップした会員たちの記録や意見や想いを読もう。なんちゃって、自分の原稿がいちばん多いんだから笑
ほんと、これを読んでる人へ。楽しいサイトです。VIC FAN CLUB 探してみてね。あえてリンクしません。