大阪大空襲から75年目の3月13日(わたしの戦争体験記 80)

元気とはよういわんがまだ生きてます。85歳だから75年前は10歳だったのね。その前の年の夏に学童疎開で山梨県に疎開してしんどい毎日を過ごしていた。大阪大空襲でうちが焼けてしまったなんて思いもせず、雪解けの季節になっていた。下駄の歯の間に雪や泥が詰まって歩きにくかったなあ。自分で縫った鼻緒をつけた高下駄だからなおさらだ。

その日は3月だから雪解けがはじまった畑や道はどろどろしていた。なぜか道路にいた子供たちが「向こうから人が歩いてくるじゃん、だれづら」と騒ぎ出した。「乞食づら」という者もおり、わたしも「乞食け〜」といいながら歩いてくる人らを眺めた。なんと!その乞食と思ったのは母と姉2人と弟と妹だった。5人は手をつないで道いっぱいに歩いていた。

3月13日のアメリカ軍空襲から命からがら逃げて、とにかく母の実家へ汽車を乗り継いでやってきた。「家は焼けてもうないよ」「えらい目におうたわ」「生きているだけありがたい」母と姉たちは口々に話した。
そのとき、わたしがいったという言葉「うちが焼けてよかった」はのちのちまで母が笑い話にしていた。親戚とはいえ他人の家にいるのはしんどかったんやな。