大阪大空襲から69年

69年前の1945年の今夜から14日の未明にかけて、大阪市内はアメリカ軍の空襲で焼け野原になった。一般市民ら1万5千人以上が犠牲になったそうだ。当時わが家は西区に住まいがあったが、父と母と姉と兄が空襲の中を逃げきって危うく助かった。父母は十三大橋を渡ったという以外を憶えていなかったが、去年だったか兄と話していてわかった。東へまっすぐに末吉橋へ出たそうだ。そこへ行くまでに焼夷弾の欠片が足の甲にあたって父は歩けなくなり、道ばたにあったリヤカーに乗せて運んだ。腹が減ったのでリュックに入れていたお米を道ばたで炊いた。じゃりじゃりの握り飯がうまかったって。それから淀川を渡って十三へ、次に神崎川を渡って三国へ出て、当時働いていた会社の寮にへとへとでたどりついた。

空襲の話をすると思い出すのが小山仁示さんである。
おととし2012年に思い出を書いているが、大阪大空襲について小山さんの業績は大きい。
10年くらい前からわたしは大阪大空襲について知りたいと思って、3月になるといろんな会合に出ていた。小山さんはその中心にいた。新聞社など大きい会合だとたいてい小山さんが講師だった。
東日本大震災からは大昔の大空襲どころではなくなってしまったが、最近は自分の体力低下で外出しなくなったせいか空襲も震災も家にいて想っている。