わたしの父親は若い時に浅草で働いていたそうで、東京に住んでいるときは浅草をぶらつくのが大好きだった。「お前を抱いてミミー宮島の踊りを見たんだぞ」と子供のときに聞かされた。3・4歳のときのことである。聞かされた歌は「ダイナ、わたしの恋人〜、胸に抱くはうるわしき姿〜」というんだった。そういう実演とアメリカ映画の影響が我が家では子供達にも浸透していた。「本を読んでも兄や姉のことを兄さん姉さんと呼ばないだろ。名前を呼んでいる。うちも名前で呼ぼう」と父がいったそうな。長女はねえちゃんでなくて和ちゃん、次女武ちゃん、長男みっちゃん、次男勝ちゃん、三女久美ちゃん、三男よっちゃん、四女せっちゃん。父母も子供達を名前で呼ぶようにした。わたしは「くみちゃん」と呼ばれた。母は父の文化的な面を尊敬していたので否応なく笑って従った。
4年生になったころ『若草物語』を読んで、名前で呼びあっているところをうちと同じやと納得。世の中は大東亜戦争真っただなかというのに、我が家は敵のアメリカ式なのであった。よそでいうなよといわれました(笑)。
さすがにパパママとはいわされなかった。ずうーっとおとうちゃん、おかあちゃんと呼んでいた。あれ、なんでやろ。