懐かしのかちんうどん

今日の晩ご飯は相方が知り合いとよそでご飯を食べることになって、わたしは個食になった。昼ご飯に食べた鯖の味噌煮缶と野菜と豆腐とキムチの味噌汁にお餅を入れてぐつぐつ煮たのを大丼で豪快に。なにに入れてもお餅はおいしい。

先日、近所のそば処 宋平で焼酎とおかずのあとに「かちんそば」を相方が食べた。食べる前に「かちんそばてなんや」と質問あり。「そばにお餅を入れてある、かちんうどんもうまいよ」と返事したが、わたしはその前に鍋焼きうどんを注文していた泣。餅入りのお蕎麦、かちんそばがおいしかったって。

最近宋平以外にうどん屋さん蕎麦屋さんに入ることがない。通天閣の側にある総本家 更科の蕎麦はうまかった。そして鍋焼きうどんのまたとないうまさかな。大晦日の年越し蕎麦もすごーくうまかった。こちらも長いことご無沙汰だが道頓堀の「今井」のうどんもうまい。
すいすい行けるようになったら食べに行くぞ〜

もっと昔の話だが(ハタチごろ)東淀川区の三国の幼稚園を借りてコーラスの練習をしていた。薄汚い神崎川が流れているところで、頑張って泉合唱団という名前をつけた。あたりにまだ蓮池が残っていた頃のこと。
週に一度の練習日に仕事を終えて集まるのだが、たまに三国商店街にある「力餅」できつねうどんかかちんうどんを食べたものだ。小遣いの都合で毎週とはいかなかったが、ここで晩ご飯を食べる工場労働者もけっこういた。大メシと素うどんのセットが懐かしい。

コルカノンを食べて北アイルランドのミステリー

今日の晩ご飯は焼酎のソーダ割りと前菜としてハムとコルカノンを盛った一皿。アイルランドのジャガイモ料理コルカノンが大好き。茹でたジャガイモと茹でたケールを合わせてつくる。
ついでに書いておくと、主菜は野菜とキノコと鶏肉の鍋。残ったスープに中華そばを入れて食べた。

このところ10日くらい暇があれば家中の椅子に座り込んで読んでるのが『コールド・コールド・グラウンド』。主人公ショーン・ダフィは王立アルスター警察隊巡査部長。口が達者で手が早い。一人暮らしで簡単な料理をさっとつくる。お酒はもちろんよく飲む。北アイルランドでカトリックであることが大変なことだとこの本でよくわかる。
北アイルランドのことは児童文学、たしか岩波少年文庫に入っていた女性作家の作品を読んで勉強になった。かなり前の話だけど、うっすらと頭に残っているからこの本を読むのに助けになった。
誰かとなんかしゃべっていて相槌が「あい」。この翻訳をうまいと思った。ふだん「あい」といっているけど書くときは「はい」になってしまうから。

事件は撃ち殺してから手首を切りとり、胴体の上にその手首を置いてある死体が発見されたことからはじまる。ところが胴体と手首は別々の人間のものだった。
(エイドリアン・マッキンティ 武藤陽生訳 ハヤカワ文庫 1000円+税)

叔父さんは見栄っ張り(わたしの戦争体験記 21)

母のきょうだいは女3人の次に男、そのあとに女が2人の6人きょうだいだった。わたしが世話になった母の実家は末っ子の女子が養子を迎えていた。4人目で長男の叔父さんは、百姓はいやだと甲府へ出て商売をしていたようだ。
この叔父さんは羽振りがいいときは気前がいい。国民学校の旗日にミカンを一箱寄付したりする。朝礼の時に先生からミカンを分けてもらって「くみこさんはいい叔父さんがいていいね」とクラスの子がいう。ふふと笑うしかないわたし。実のところ叔父さんはわたしにはミカン一個すらくれたことがなかった。

学校帰りに出会ったとき「くみこ、お前の靴はなんだ、ボール紙じゃないか、今度オレが皮の靴を買ってやるぞ」と愛嬌のある大きな声でいった。わたしはずっとおじさんの姿を見るたびに、靴箱を持っていないかと気にしてたが、何ヶ月後にようやくこの叔父さんのいうことを当てにしてはいけないと悟った。

みんなと同じように国民服を着てもぴしっとしていてとても見栄えがよかった。誰にでも愛想がよくてうまく生きているように見えたが実はどうだったんだろう。

ヴィク・ファン・クラブの会報できたよ

このブログではヴィク・ファン・クラブの会報づくりの話題が月に一度は出るが、毎月一度出す会報が今月ほど負担なことはなかった。いままでなんやかやいいながらなんとかなってきた。今月もなんとかなるさという楽観的観測でいたが、日にちは経つばかり。

ほんまにやらねばと思ったときに姪から姉を入院させたと電話。からだが動けないぶん連絡係をすると引き受けた。兄二人と家族、妹一人と家族、亡き弟の娘R子、姉の亡夫の妹夫婦と電話とメールでかなめになって大忙し。
よそから来る人は、わたしか姪が病院に詰めてるとでも思っているのか、好きな時間にやってくる。こちらにも選ぶ権利がある。仲良しのR子とは新大阪見送りまで付き合った。

そして会報だ。月が変わってしまって、あわててやった。さっき「あとがき」を書き、プリントし終わった。明日封筒を作って夜に出しに行けるかしら。結局は楽しい会報ができあがってよかった。お待たせした会員さんたち、きっと楽しく読んでくれるだろう。ステキなVic Fan Club Newsを。

11月3日は天気がよい

わたしが子どもで国民学校に通っているとき、11月3日は明治節といわれていて学校が休みだった。戦後に「明治節」は「文化の日」と名称が変わって祝日になった。
「明治節(めいじせつ)は、1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年)まで、明治天皇の誕生日に相当する11月3日に制定されていた日本の祝日。」とウィキペディアに書いてある。

なぜかこどもの頃から明治節は天気が良いと決まっていて、遊びに行く約束とかしても安心だった。ニュース解説や天気予報でもいってたように思うが、ちょうど気候の巡り合わせでいい天気になる日なのだ。
遊びに行かないいまは洗濯ものを干して安心な日である。
わたしは毎年11月2日に「明日は天気やで、洗濯物干しといても大丈夫や」といっている笑。2018年の今日11月3日も良い天気だった。

見舞いはひととおり終了

姉のいる病院へ。行きしは相方が車椅子を押してくれた。地下鉄「新大阪」行きに乗ってしまい、次の「千里中央」行きに乗り換えたとき、電車とホームの間が離れていてタイヤが横向きに落ちそうになって汗をかいた。駅員さんがきて「後ろから乗ったらいけます」というので、その通りにしたらスムーズにいけた。

今日は関東からの姉への見舞い最終、川崎から亡弟の娘R子が来てくれた。わたしと同じで方向音痴なので病院を探して30分ほど歩き回ったらしい。病院がちょっと先にあるのに気がつかず歩いていたって、まったくすることがわたしと同じだ。夕方からきた姪A子が「おなじや〜」と叫んで、方向音痴が3人並んで意気高し。
姪どうしは住まいが東西に分かれて会うこともなかったから、姉の入院がきっかけで話ができてよかった。

昨日は義兄の妹Tちゃんに状況を電話で説明した。そしたら今朝さっそく夫婦で来てくれたそうで、豪華な梨とりんごが置いてあった。A子と二人でもらって帰ったが、最近はお見舞いを二人で分けるのでおやつが豊富だ。川崎からは川崎大師のわらび餅をもらった。

いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)

疎開して国民学校4年生の2学期から学校へ通うようになった。村の名は後屋敷村だったけど校名は後屋敷小学校ではなかったような気がする。なんて名前だったか全然覚えていない。もしかしたら日下部小学校だったかしら。鉄道駅が日下部だったから。

学校から帰ると道を隔てた農家のK子が遊びに来てそのままうちにいることもあり、どこかへ連れ出すこともあった。他の子も連れ立って女子グループで小遠征することもあった。ある日、連れ立ってけっこう大きな川へ行った。もしかしたら笛吹川だったかもしれない。ちょうど男子グループがいて川に渡してある太い丸太の上を次々に渡っていた。軽業師みたいに軽々とうまい。親分のような少年が指図していて「女子も渡れ」といった。その瞬間にわたしは落ちて死ぬと思い、「もはやこれまで」と時代劇のようなセリフが頭に浮かんだ。女子たちも慣れたものという感じで渡って行った。とうとう最後にわたしの番になった。丸太に這いつくばっていくしかないと覚悟を決めてじっと川と丸太を見つめていると、リーダー少年が「今日はこれで終わるづら」と声をかけ、みんなを戻らせた。

あんなにほっとしたことは生涯であの一回だけ。わたしはあの声のおかげで一命を取り留めて今日も生きている。わたしが落ちたら親や先生に怒られると思って、彼はあの命令をくだしたのだろう。

冷えるなあ、今日で10月が終わり

今朝といっても遅い朝のせいか、寒さを感じないで昨日と同じようにベランダの戸を開け放して洗濯物を干していた。体操して朝昼兼用ご飯を食べて片付けて歯を磨いて、予約してあるつるかめさんに出かけた。いつものようにばたばたして出たから寒いと思わなかった。

暖かい施療室で体の手入れをしてもらい、マックの昔話なんかして和んだ。なんといってもわたしのマック愛好歴は長い。そのわりにたいして使えないけど・・・真剣にマックに向かう姿は愛嬌があると自認している(笑)。

外へ出ると吹き抜ける風におおさむーと縮こまった。風に吹かれて歩いたら秋というより初冬だ。
今朝オイルヒーターをつけたから部屋がほんわかぬくい。夜遅くなってエアコンもつけた。今夜は羽毛布団でぬくぬくして寝る。
湯たんぽも出しておかなきゃ。ひざ掛け毛布もね。

電話やらメールで連絡、直接会うのも

姉の入院でいままでとやることが変わり生活が変わった。週一に姉の家に行ってたのがなくなって、もうちょっとさいさい病院へ行く。わたしは足の都合で行けなくても用事次第で相方が代わりに行ってくれている。
姪A子は毎日のように病院へ行き、帰りに姉の家に寄っている。自然にA子を中心に物事がまわっている。
外を歩き回れないわたしは連絡係を引き受けて、電話とメールに大忙しというほどではないが、そこそこ気を使ってやっている。つい先日ショートメール初体験のことを書いた。今月の17日だ。それから半月でショートメールの達人になっておるよ笑。

この間、シュリットでショートメール初体験の話をして大笑いされた。今度行ったら達人になったと自慢しよう。固定電話では留守電が大活躍。便利なものだ。
明日は妹と甥がくるがパス。金曜日には亡き弟の娘R子がくるので病院へ行く。いつも電話で話すばかりだから顔を見るのが楽しみ。

車椅子で地下鉄乗車初体験

去年の秋ごろから体調が悪くなり、寒さが増したらどんどん悪くなり、ついに精神力で持ちこたえていた足腰にきて歩けなくなった。なぜか病気とは思えず健康雑誌を調べたりしていたのが、義弟の年賀状で病名は解決した。脊柱管狭窄症になった義弟はストレッチ半年で復帰したという。これだっ!とさっそく本を買って毎日ストレッチに励んでいるが(励むというほどできてないのがほんまのところ)なかなか回復しない。つるかめさんに聞いたら筋力があるから男性のほうが治りが早いそうだ。
短い距離は歩き、ちょっとあるところは車椅子を相方に押してもらう。ちょっと距離のあるところはタクシーを利用している。

今日は姉の病院に行くのに、タクシーに乗らずに車椅子を相方に押してもらって出かけた。去年の秋から出かけるのはほとんどタクシーである。タクシー代がかさんでどうしようもないわが家計。ここで1年数ヶ月ぶりに地下鉄に復活しようとなって、今日の午後のお出かけとなった。

電車が空いている時間にと出かけて鶴見緑地線→御堂筋線に乗るのに、ホームからエレベーター、またエレベーターと乗り換え、車椅子マークのついた電車の乗り口から乗って降りて、またエレベーターで上下して外に出た。乗ってる方もああしんど。押すほうはものすごくしんどかったでしょう。それを往復だから。
道路を15分くらい歩いて病院到着。姉と話していたら姪が到着。今日来ているはずの次兄は早く来て次へまわったそうで会えなかった。

帰りは通勤客がそろそろ乗ってくる時間で、けっこう人の多い出入り口を大声で「すみません」と叫んで通してもらった。
駅を出てホッ。スーパーで食べ物を買って帰ってきた。