毎日ストレッチを

去年の暮れに足腰のどこともなく痛みが出て歩けなくなり困った。義弟の年賀状に脊柱管狭窄症から半年のストレッチで脱したとあったのを読み、これだ!と電話して、脱した方法を聞いて本を教えてもらった。酒井慎太郎『脊柱管狭窄症は99%完治する』(幻冬社)という本で、読んで納得したのでさっそくやりはじめた。

毎日やっているけど半年以上経ってもなかなかである。同病の経験者が家族にいる知り合いは1年かかるよという。
どっちにしても、わたしのはまだ治っていない。ただ便秘をしなくなり、肩こりが減り、背筋が伸びた実感がある。
今週前半は用事が発生して体操どころではなかった。今日は本を読んでいてサボり、おおいに反省しているところだ。これをアップしたらたっぷりとストレッチしよう。

ロン・ハワード監督『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』

今日配信スタートの『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を見た。昔からのスターウォーズのファンなので、なんとなく懐かしい気分である。いつごろのことかと振り返ると70年代後半は泉北団地に住んでいて、駅商店街のレコード店の店先に大きなチューバッカが立っていたような気がする。1977年から83年にかけて上映されたそうで40年も前なのだ。記憶があいまいだが、当時の『平凡パンチ』にはアメリカまで『スター・ウォーズ』を見にいった報告があったりした。
何度か映画館で見てわくわくどきどき、最初のシーンから映像と音楽がマッチして感激したものだ。テレビでやるたびに見ていた記憶もある。要するにスター・ウォーズファンなんですね。

今夜は今日から配信スタートのロン・ハワード監督『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を見たということである。おもしろく見たが、実はストーリーだってよく追えてない。でも、あたしって根っからの『スター・ウォーズ』ファンなんだわということを確認した(笑)。

ショートメール初体験

昨日ちょっと困ったことがあって世間が狭い我々はどうしたものかと悩んだ末に、こういうときのYちゃんと甥の連れ合いを思い出した。彼女は某市の消費者センターで働いている。結婚して子育てを終えてから勉強して職についた。いまはベテランの相談員である。
電話で事情を説明し、納得できる明快な回答をしてもらった。立て板に水の勢いでしっかりはっきりとしゃべるので、結論に自信がついたし、励みになった。最後に相方がショートメールでもひとつ助言をもらって、そのあとはわたしが電話でお礼をいって、家族のことなど長話して久しぶりの交流を終えた。

今日はもらった助言を生かして困ったことに対処できてよかった。
それを報告するのに、甥のスマホにショートメールを送ることにしたが、恥ずかしいことにわたしはショートメールを出したことがない。メールはなんでもパソコンである。届いたメールはわたしのiPhoneとパソコンに入るので、読むのは両方で読むが、書くほうはパソコンである。常に在宅だもんね(弁解)。

今日は甥にショートメールで「昨夜はありがとう」と伝えようと、ネットで「ショートメールサービス(SNS)の使い方」を探して、勉強(恥!)。すごく丁寧なサイトで初心者にやさしく教えてくれた。
甥からは即返信「お役に立ててなによりです。Yさんはあの手の話になると、水を得た魚のごとく云々」とあって、返信送ったら「了解です」とまた返信あり。便利やなショートメール。

コンピュータを使う生活

急に涼しくなっていろいろと忙しい。寝具類をしまうのあり、出すのがあり、しまうのは順番に洗濯して干してとやることがいっぱい。
いまは掃除が相方の仕事になっているし、カーテンの付け替えもわたしの手を離れた。それでもしんどいのだから困ったものだ。年齢には勝てない。
30代、40代、50代は仕事に行って帰ってからは家事全般をやってたのだから大変だった。でも元気だった。相方にしても仕事に打ち込む上に新しい技術の取得ということでコンピュータの勉強で忙しかった。元気だったなあ。

いまはわずかだけど年金があって、それを補う仕事がある。両方足してても少ないけど、まあまあ生きていけてる。コンピュータを使う生活から元気が生まれる。

さば缶キムチ鍋

今日は良い天気の日曜日だった。昼前に起きてどこも行かず洗濯を2回して、あとは雨宮処凛の『非正規・単身・アラフォー女性』を読んでいた。この本すごくいい!大勉強した。
夕方からネットで友だちのメールを読んで返信したり、ヴィク・ファン・クラブの会報用に整理したり。毎日やっているようなことをやった日曜日だった。

さば缶キムチ鍋は去年12月の『anan』の料理特集号に出ていたカンタンな料理。白いご飯のときでも玄米ご飯のときでもおいしいおかずになる。というものを相方が気に入ってときどき作ってくれる。晩ご飯にこれから作るというので、作り方を聞いたらぽいと『anan』を出した。

さば缶キムチ鍋はこうして作る。
白菜キムチをざく切り、長ネギは斜め1センチ幅、小松菜は3センチほどのざく切り。それらと鯖を鍋に入れて、水3カップ、鯖缶の汁、味噌を加えて中火で煮る。
残ったら明日ご飯をいれておじやにする。

今日は酒なし。地味な日曜日だ。実は地味なのはわたしだけで、相方は昨夜はたっぷりクラブ活動してきて朝から夕方までぐっすり眠った充実の日曜日だった。

涼しいを通り越して寒い

暖かいというよりも暑いといったほうがぴったりだった9月が過ぎて、もう10月半ばだ。さすがに秋の気配といいたいところだが、昨夜は冷え込んだし今朝がたは寒いくらいだった。いま膝掛けを出してきた。冷え対策笑。

ちょっと近所に出かけていつも金木犀が咲いているところを通った。あらら花が咲いてない。咲き終わったのかこれから咲くのか、葉っぱはつやつやしていたけど。
姉の家に先週火曜日に行った。姉の木犀は木が高くなり過ぎて、花が目立たないのだが毎年咲くことは咲いている。姉がいうには今年は咲きそうだったけど、台風でやられてしまったって。上を向いて眺めても花が咲いたかどうかわからなかった。

萩は台風にやられて枝が折れたり倒れたりで、先月行ったときに大方刈りとった。残った枝だけでは風情がなくて、今年の萩はあかんかった。
大きな植木鉢3つに植えてあって毎年豪華に咲く秋の花(名前を忘れた)が、すっかり倒れているので「こりゃだめだ」とほったらかしてあった。その根本から茎がたくさん伸びてきた。これから頑張って咲くかも。咲いたら名前を思い出すかも。

30分後にストレッチやってて突然思い出した。
その花の名は「杜鵑草 (ほととぎす)」。

ようやく涼しくなった

昨夜は少し寒かったので、寝るときに用心して薄手の五本指ソックスをはいた。先日遅くまで素足で起きていて寝てから冷えを感じてソックスを探したのを思い出したから。膝と腰とがよくないのだから気をつけなきゃあかんのに、若いときと同じことをしてしもた。
今年は長いこと秋らしくならなかった。台風一過の秋空はあったし、月はきれいに見えたけど、いつまでも半袖の服を手放せなかった。半袖の服ってTシャツのこどだけど笑。

午後遅く整形外科に行って診察とリハビリしてきた。先生と会話の息があってきて笑いながら診療終わり。それはそれでいいのだが、歩くのがさっさといかなくて困る。これも冷えが原因と理屈のほうは納得しているが、真剣に冷え対策考えなくっちゃ。
これから半身浴。

もったいない

1ヶ月くらい前に部屋の夏物を片付けていて、ふと扇風機の掃除をするのが億劫やなと思った。そもそもが突然の猛暑で電気店に扇風機が品切れのときにスーパーで手に入れた安物である。来年の夏がきたら好みの新品を買うたらええやん。それで部屋の隅に片付けておいて、粗大ゴミとして出そうと思った。電話するのを忘れて半月ばかり扇風機はそこにあったが、ふと今朝目が覚めて思った。使えるものをもったいない。ちゃんと掃除して片付けておいて来年使おう。

目が覚めるなり「あの扇風機なあ、もったいないから拭いて使お、きれいに拭いたらまだ使えるで」といった。もちろん異議なし。「もったいないことするなあと思ってた」そうだ。
きれいに拭きあげた扇風機を風に当てて、明日ポリ袋を被せて片付けよう。来年もまたお役に立ってもらう。

楠公炊き(わたしの戦争体験記 18)

楠公炊きは戦時中にお米が増えるご飯の炊き方ということで大きく報じられた。たしか町内会からの呼びかけがあり、新聞の家庭欄や婦人雑誌にも何度も取り上げられたのを読んだ覚えがある。いろんな著名婦人たちが自分の炊き方を披露していた。我が家も一回目は母と姉が立ちあって土鍋で炊いた。お米を炒って膨らませてから水を加えて炊く。量はたしかに増える。

楠公こと楠木正成公が苦難の戦いのときに、こういうご飯を食べて戦ったという話から、模範とするということなんだけど、いくらかの米を水でふやかして炊いて量があるように見えるよう工夫したってお腹がふくれるはずもなく。
うちの母はサツマイモが手に入ったときは芋粥にし、雑草を抜いてきたときは七草粥ふうに炊いていた。でもなにを入れて炊こうが戦時中に腹いっぱいになったことはなかった。

ともだちが減っていく(わたしの戦争体験記 17)

いままで気にしていなかったけど、わたしが4年生の1学期を終えて母の実家の山梨県に疎開する前に学校から去っていった子が多かったようだ。殺伐とした学期末だったと思うが、少しも覚えていない。ただ壽(ひさ)さんとさかえちゃんとの別れがショックだった。『小公女』のセーラのように孤独な境遇になると思うと怖かった。
その頃よく見た夢だが、わたしは座敷に幽閉されていて、ふすまを開けるとまた次のふすまがあり、警護の侍がいて開けたふすまは何度でも閉められる。まさに出口なしの夢だった。トイレの戸を閉めるのが怖くていつも開けたままにしていた。

なんで仲良くなったのか忘れたが堀江の芸者屋の娘の壽さんとしょっちゅう家を行き来する仲になっていたが、一家で引っ越すからと突然来なくなった。向かえに住んでいた1年上のさかえちゃんは、わたしが新町にきたときから引っ張りまわして遊んでくれたが、一家で南海沿線の粉浜に引っ越していった。粉浜では戦災にあわずに済んだそうで、戦後に探して会いにきてくれた。
その他、電気科学館の屋上で遊んだ子、体操の時間をいっしょにサボっておしゃべりしていた子はその後どうなったかしらと70年経ったいま思うのである。

姉(いつもこの日記にでてくる人)がピンク地に白い花が浮かんでいる布でワンピースを縫ってくれた。この服を気に入って夏中着ていたが涼しくなるころにはモンペに変わり、それ以来何年かモンペで暮らした。