戦争が始まった日(わたしの戦争体験記 12)

第二次世界大戦(そのとき日本では大東亞戦争といっていた)が始まったのは1941年(昭和16年)12月のことで、その年の4月にわたしは大阪市西区の西六国民学校に入学していた。この年の子供たちだけが小学校体験なく国民学校に入学し卒業している。住まいは新町南通りで学校はいまの細野ビルの東の日新会病院が建っているところにあった。病院の左前に西六国民学校のことを説明した碑がある。
コンクリート造りの威厳のある校舎には講堂と高学年の教室があった。低学年には昔からの木造校舎が横にあった。校庭には奉安殿があり、中には天皇陛下の写真が入れてあると誰かが教えてくれた。生徒はおしゃれな子が多かった。

国民学校1年生のときの12月8日、わたしはいつもと同じように学校へ行った。午前中の授業時間に父親が先生のところへ行ってなにかいっている。先生はちらりとわたしの方を見て「いいですよ」と返事した。それで父はわたしを連れて教室から出た。
家に帰ってよそ行きに着替えさせられ、市電に乗って梅田へ出て阪急電車で父と姉2人が働いている工場の事務所へ行った。その日工場は仕事をしておらず、社員たちがあちこちに数人ずつかたまっている。従業員の食堂を片付けたようなところに舞台が作ってあった。漫才師や浪曲師や手品師がいて、華やかにざわめいている。男女の社員がわたしを見て「娘さんですか」「妹さん?かわいいね」とかお世辞をいってくれた。

どうやら会社の創立記念日とからしい。でないと12月8日などという年末にこんな祝いはしないよねとわたしは頭をめぐらせた。すでに大衆小説を読んでるませた子なもんで。
お昼に一合瓶がついた弁当が配られた。
姉たち(上は経理課、下はタイピスト)は会社の男性におおいにもてている。姉たちの関心を買うためにわたしにお世辞をいってたみたい。

本来ならおおいに賑わうはずだったろうが、すでに電灯の明かりが暗くされており、笑い声も低く、パーティは夕方にはおひらきになった。
仕方がないよと父はまたわたしの手を引いて駅へ歩き出した。阪急電車の中は夕刊をもっている人が目の前で大きく広げていた。真珠湾の記事だったろうか。父親はそれを横目で見つつため息をついていた。彼にとっては西洋文化は知識の泉だった。浅草で洋画を見て育ったのに、これからは戦争で見られなくなる。その後は機会あるごとに子供達に洋画とミステリーの話をしてたっけ。

阪急電車が梅田に着くと8時過ぎなのにシャッターが降ろされていて駅員がそっちを通れと指図している。暗い中を市電の乗り場へ行ったらすごい混雑で、殺気立っている人がいる。父が子供を連れてるんだと東京弁でいって中のほうへ入らせてもらった。市電から見た大阪の街は暗くて寂しかった。
この日は真珠湾攻撃の日だったと後で知った。