集団疎開の訓練(わたしの戦争体験記 16)

1・2年生のときは戦時教育もゆったりしていたが、3年生になるとだんだん戦時色が強まってきた。なにかにつけ「君が代」「海行かば」を歌う場面が増えた上に、なにかにつけ「勅語」を暗唱させられた。

アメリカ軍の空襲が激しくなるとのことで、大阪市内の国民学校生徒は疎開させられるという噂が駆け巡った。4年生になるとすぐに担任の先生から、子供を預かってくれる親戚がある人は報告するようにと呼びかけがあった。わたしは以前お向かいに住んでいて引っ越したさかえちゃんを思い出したが、親は「親戚でないとダメだろう」と、結局は山梨県の母の実家に頼んだ。疎開先を自分で決めないと集団疎開組に入らねばならない。親はそれよりましと思ったようだ。弟は2年生だったから親といっしょに大阪に残った。

1学期の間にだんだん子供がいなくなっていく。校庭が寂しくなっていった。
ある日、校庭に4年生以上の生徒が呼び出され、明日は集団疎開の訓練をするから用意して登校するようにとのこと。着替えと小さな毛布か布団をリュックに入れ、水筒を忘れずにと注意があった。
うちには大きなリュックがないので、母が大風呂敷を袋に縫って小さな布団を入れて背負えるようにした。

翌日は珍妙なリュックで学校に集まり、ぞろぞろと南海電車のなんば駅に行き、高野線に乗って河内長野で降りた。電車に乗っても遠足ではないし、どこへ連れていかれるのかわからず車中みんな暗かった。
河内長野の駅を降りてすぐに村の国民学校があってここだという。みんな校庭に並んだ。話がついていなかったのか、今日になって断られたのか、今日はここに泊まらずに帰ると聞いたときはほっとした。
校庭に集まった子供たちを実際に見たら、何百人のこどもを教室に一夜寝かせるって無茶過ぎだと誰でも思うだろう。

結局はなにもせずなにも食べずにまた電車に乗って学校へ帰った。全員揃った学校で、みんなにコッペパン1本ずつが配られ、これは学校からお昼の弁当として出すものだから持って帰って家族と食べなさいと先生がいった。

4年生の1学期が終わるとき、ここには2学期はないのだと先生がいった、夏休み中にそれぞれがそれぞれの親戚などに引き取られる。縁故疎開せずに集団疎開した子がいたのか知らないままに。