戦争が終わっても(わたしの戦争体験記 73)

1945年(昭和20年)8月に戦争が終わった。夏休み前には勇ましいことをいっていた先生が、少してれくさそうに手のひらを返して2学期の授業を始めた。1学期から使っている教科書を墨で塗りつぶしたり破ったりを先生に言われるとおりにして、残ったところが教科書だった。勅語と国歌から解放された。

疎開児童は住むところがある子からもどっていった。まず家が焼けなかった子が姿を消した。焼け出された子は疎開した家に引き取られて田舎の子になる子もいた。私は帰る組だが、大阪大空襲で家が焼かれいるから、大阪に帰っても住むところがないじゃんと田舎に腰を据えた母と弟妹と4人で納屋暮らしを続けた。
この暮らしは戦争中よりもきつかった。田舎の人から同情されることもなくなった。大阪から送れるものはすべて送ってもらって食料に換えた。「これだけは」と置いてあった着物もみんな食べ物に代わった。

母は若い時に学校の先生をしていたそうで、そのときの生徒の子供がわたしと同じクラスにいたため、ときどきお米や野菜を我が家に放り込んでくれた。学校の先生もそのときになってわたしが母の子であるとわかり、「久美子さんは知子さんのボコだったのけ」とうれしがってくれた。疎開生活もたまに楽しいことがある。利害だけでなく善意のやりとりだってあった。

こうしてわたしの一家4人はすぐに大阪に帰れず、1年間疎開先にとどまった。戦後の1年間は苦しかった。兄はのちに「ちょっとだけ離れたところの友達の家は焼けずに、戦後すぐに大学に行ったのに、おれは働くしかなかったもんな」ともらしたことがある。きょうだいみんな勉強できたのにお金がないから上の学校に行けなかった。

いろいろあったけど、どっこい、おいらは生きている。