松井今朝子『壺中の回廊』

歌舞伎好きの友人が送ってくれた。歌舞伎が好きで松井今朝子の本が好きなんだって。それでわたしにもお裾分けしてくれた。いま検索したら「仲蔵狂乱」(1998)「東洲しゃらくさい」(1997)を読んだ記憶があった。そのときも達者な筆だと感心したが、今回もよどみなく読み進んだ。
松井今朝子さんは京都祇園の南座にほど近い環境で育った上に、大学院終了後に松竹に入社して歌舞伎の企画・制作に携わった。その後フリーになって武智鉄二に師事し歌舞伎の仕事に携わってきた。

主役で探偵役の桜木治郎は江戸の狂言作家の末裔だが、封建的な歌舞伎の世界を離れて早稲田の文科で学びいまは講師である。なので彼はコウモリのように両方の世界に容易に出入りできる。
助手役の澪子は桜木の妻の従姉妹で桜木の家に居候している。桜木が震災後に一時埼玉県の妻の本家を頼って居候したときの本家の娘で花嫁修業という口実で東京へきた。モダンガールの象徴のようなボブで築地小劇場の女優の卵である。

ニューヨーク市場の大暴落を受けた不況の時代、芝公園ではメーデーがあり「聞け 万国の労働者」を歌って行進するデモ隊と彼らを上回るほどの警官隊がぶつかり逮捕者が出る。
そういう世間を背景に歌舞伎の殿堂である木挽座で起こった殺人事件、解決しないままに続いて二人が殺される。

築地署の笹岡警部にこの世界をよく知っているからと協力を強いられ、桜木は俳優たちから聞き込みを始める。
そこで知り合ったのは、おのれが生きている封建的な芝居の世界を変えようと行動する歌舞伎役者の荻野寛右衛門である。
読み進んでいるうちに荻野寛右衛門は中村翫右衛門だと気がついた。こうして前進座が歩み始めたのかといまごろ知った。とても魅力のある人物に描かれている。

いまは前進座創設者の中村翫右衛門も河原崎長十郎も女形の河原崎国太郎もこの世にいない。わたしは若いとき前進座ファンだった。長十郎の「鳴神」「勧進帳」「毛抜」などよかった。少ない小遣いでよくいったものだ。翫右衛門のほうはうまいと思ったが熱烈ファンにはならなかった。
いま前進座の歩み第一歩の手前を知った。いま生きていてこういうことも知ることができて幸せだ。