岸恵子『わりなき恋』

本書を知ったのは「週刊現代」の芳川泰久さんの書評で、「年齢を感じさせないヒロインの情熱、老いらくの恋の葛藤と美を描く長編」という言葉にいかれてすぐに買いに行った。
ご自身の体験を元にした作品だと思うけど、岸さんはご自身を主人公の伊奈笙子と親友の桐生砂丘子の二人に分けているように思えた。恋に一途になってしまった笙子を客観的に見て援護する砂丘子と。

笙子はドキュメンタリー作家で横浜とパリに住まいを持っている。どちらにも帰るのではなく、横浜に行く、パリに行く、と言っている。若くしてフランス人の夫を飛行機事故で亡くし、フランスで育った娘テッサはすでに結婚してこどもが2人いる。70歳になったなんて見えないエキセントリックな美人である。

その日フランスへ行く飛行機のファーストクラスは満席だった。笙子は隣席の旅慣れたふうな男、九鬼兼太と言葉を交わす。彼は大企業の専務で世界各地を飛び回っている。名刺を出したのでシナリオを破ってパリの電話番号を書いて渡すと、九鬼は「すばらしいかたとお目にかかりました」と笑顔に笑窪を浮かべた。
ロケハンの仕事から離れてパリへもどるとプラハの九鬼から電話がありパリでの食事に誘われる。
次の逢瀬は日本で笙子の誕生日である。横浜での食事の後でホテルに泊まるという彼に、ホテルよりもわたしの家が落ち着くでしょうと、洋室に案内し自分は母屋に寝ることにするが、歯ブラシを持って行くと風呂上がりの素裸の九鬼がいた。抱き合って過ごすことになった一夜。笙子は長い一人暮らしで体が応じなくなっている。笙子は「七十歳と十七時間・・・私もう若くないの」といい、九鬼は「七十歳と十七時間ですか、すてきですね。あなたはとんでもない人なんですよ」という。彼はもうすぐ還暦だという。
思ったらすぐに行動の笙子は婦人科の医師に相談し親切に対応してもらう。なかなか開かなかった体が応じるまでになったのはかなり経ってからだった。

読んでいるうちにフランソワーズ・サガンを思い出した。若い日のサガンが書いた「ブラームスはお好き」で、主人公ポールは39歳、彼女を恋するシモンは25歳。別れるときにポールは「シモン、もう、私、オバーサンなの、オバーサンなの」と階段の手すりから身を乗り出して言うが、シモンには聞こえない。彼は階段を駆けおりた。若いわたしは別れの甘美させつなさにしびれたものだった。
「わりなき恋」は、歳月の残酷さ、男の身勝手さが描かれて、だからこそせつない「わりなき恋」が身にしみる。
若いときはサガンに夢中になり、いまになって岸恵子さんの「七十歳と十七時間・・・私もう若くないの」の笙子の恋に夢中になっている。
ふと思い出した。サガンというペンネームはプルーストの「失われたときを求めて」に出てくる人物の名前だった。「わりなき恋」は「失われたときを求めて」で老いについて語る一節を思い出させた。
(幻冬社 1600円+税)