ウォルター・アイザックソン「スティーブ・ジョブズ」( I ) マックとわたし

ここ数日本書を手にしてジョブズ漬けになっていた。同時代に生きていたなんてことでなく、わたしはジョブズのおかげでこの生きにくい日本で生きてこられた。24年前の1987年11月13日にマックプラスを買ってから。
そのころ、わたしたちは新町1丁目で写植・版下・デザインの仕事をしていた。1985年の阪神タイガース優勝の年の6月に、相方が胃潰瘍で1カ月入院という事態になって、結局2カ月間休業することになった。その後は仕事をセーブして(セーブできるなんて職種ではないのでひたすら断って、結局仕事をなくした笑)、公園を散歩したりしていたが、うつぼ公園で猫たちを見てから毎朝5時半に猫に朝ご飯を運ぶようになった。マックと出合ったのはそんなときだった。

パソコンなるものを一度見に行こうとある日曜日に日本橋へ行った。電気店ではたくさんのウィンドウズ機が並んでいた。灰色の山の向こうの隅っこに輝いて見えたのがマックプラスで、わたしは一目惚れ。これにしようと相方にせがんだ。そのときは帰ってカタログなどを調べお金が足りるか調べて(持っていたもんだ!)、画材店いづみやから買った。営業マンがマックペイントで絵を描いているのを固唾をのんで見ていたのをいまも思い出す。

世の中はどんどん変わっていって、その後、わたしたちも手仕事の世界からマックで仕事をするようになった。人よりもさきにマックを使っていたので転換はわりとスムーズにいった。その転換するまでの時期1991年(マックを買ってからまる4年目)にヴィク・ファン・クラブ(VFC)をはじめた。その前年、1990年に2代目のSE/30を買っている。SE/30でVFCの会報をつくったのがDTP第1号となった。ほんとうの意味のデスクトップパブリッシングだと誇ったものだ。あまり理解してくれた人はいなかったけど。
それからはマックを何台買ったかしらね。ほとんどはデスクトップだが1994年にノート(PowerBook 520)が発売されたときに1台買った。それをを持ち歩いて知り合いの〈できそうな女性〉から嫉妬をかった。男性の嫉妬はかたちを変えて現れ意地悪された(笑)。

仕事のやりかたがどんどん変わっていった。仕事が簡略にできるようになると価格が下がり、事務所の維持が難しくなった。阪神大震災(1995年)のあとの不況で事務所を閉めて自宅営業にした。
日本語のサイトをつくってほしいとサラ・パレツキーさんから要望があったので、サイトを作らないかと早川書房の編集者から話があったのは1998年のことだった。ホームページ作りはかねてから考えていたことなので、喜んで返事をして出来上がったのがVFCサイトである。
その間にマックを何台も買ったが、すでに産業機械に変わってたんだよね。それがジョブズがアップルを追い出されスカリー会長に変わっていたのと同じ時期になる。ほんまにあのころはわたしたちも暗かった。DTP仕事で日々食べることに必死だった。
その中で相方がVFCサイトをつくり、ホームページ作りを仕事にできるように勉強した。

ジョブズがアップル社にもどり、1998年にiMacが華々しく発表されたけどうちはお金がなくて買えなかった。兄が買うというので日本橋のソフマップまでわたしがついていき、一式揃えて買うのを手伝ったことがある。それからは、毎日兄から電話がかかって操作方法を教えていた。兄はワードで能楽のプログラムを作るのに四苦八苦したが、コピペから教えるのだから大変だった。

マックのマの字も知らなかった友だちがiMacを買うたびに嫉妬で苦しんだ(笑)。わたしはイチゴ色を買うと決めていたが先立つものがなかった。
結局2002年に、iMac G4 (Flat Panel) を買った。いわゆる大福マックを1年おいて2台。その次には相方はインテルiMacを使っており、わたしはMac miniを買っていまは2台目を使っている。

iPhoneはわたしは3Gを売り出し時に買ったままいまも使っており、相方はiPhone4、iPad2は売り出し時に買った。
本の感想を書くつもりが24年間の自分の歴史になってしまった。一息に書いたよ。ああしんど。