ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

「花のノートルダム」をはじめて読んだのは10代だったと思う。サルトルの「聖ジュネ」(この本でひとつだけ覚えているのはコンドームがあればジュネは生まれてこなかったという一行だ。)を読んでジュネを知ってそれで堀口大学訳の本を読んだ。サルトルが褒めているから読まなきゃと思って読むつらさ(笑)、最後まで読み通したかも覚えてない。だから内容を覚えているわけがない。

今回、鈴木創士さん訳の本がいいというので買った。少し前に鈴木さん訳のランボー全詩集を読んだらすごく読みやすい。これなら「花のノートルダム」を読めると思った。
そして昨日読み終わって、今日は気に入ったところをあちこち読んでいる。それで思い出したのが、アンドリュー・ホラーラン「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」とジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」だった。3冊とも恋人どうしの出会いのシーンがいい。ゲイ小説を一言で言えば「出会いシーンの素晴らしさ」だと思う。

最初のページのセンテンスの長い文章にまず惹き込まれ戦慄した。読んでいくと「ディヴィーヌが死んだ」という文字が。ディヴィーヌは死んだのだから詩人は彼女のことを物語ることができる。私(ジュネ)は気分にまかせて男性的なものと女性的なものをごっちゃにしてディヴィーヌのことを語りはじめる。ディヴィーヌは男で美しい女でオカマだ。

ディヴィーヌは20年ほど前にパリへ現れた。夜のパリを彷徨う彼女をあらわしたたえる言葉が続いていく。ディヴィーヌは腹と心が飢えていて屋根裏部屋へ向かっていると、ひとりの男が向こうから歩いてきた。
【「おお、失礼」、と彼が言った。「悪いねえ!」彼の息から葡萄酒の臭いがしていた。「どういたしまして」、とオカマは言った。通り過ぎようとしていたのはけちなミニョンだった。】そして、彼らは屋根裏部屋へあがる。ミニョンのしゃべり方、煙草に火をつけて吸うそのやり方から、ディヴィーヌはミニョンが女衒(ヒモ)であることを理解した。そして彼女はうっとりと「ここにいてね」と言った。ディヴィーヌはブランシュ広場であくせく働きミニョンは映画に行く。ミニョンはごろつきなのに美しい男で生まれながらのヒモだった。
そしてミニョンと花のノートルダムが出会う。このシーンもめちゃくちゃいい。

「花のノートルダム」はわたしの言葉では言い表せない作品だ。ひたすらひたっているうちに言葉が出てくるだろうか。ごろつきやヒモやオカマや、臭いや汚れや汚物や殺人や牢獄なんぞが美しく光っている。
(鈴木創士訳 河出文庫 1200円+税)