いつのまにか脊柱管狭窄症になっていた

おとといは姉の家からの帰りからはじまった脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)のことを書いた。
今日はそこにいたるまでを思い出しつつ書いておく。
去年(2018)の暮れから姉は有料老人ホームに入居して生活全般を世話してもらっているが、それまでは古い借家で一人暮らししていた。夫が亡くなってちょうど10年を毎週1日は日をずらして姪たちとわたしが行き、その他、週に2日のデイサービス、週に2日掃除に来てくれるヘルパーさん、なにかと声をかけてくれる隣人や民生委員さんがいて、電池の入れ替えまでやってくれる電気屋さんもいて、近所のローソンも利用してとてもうまく暮らしていた。古くからの人情プラス最新の福祉環境。

義兄が病気になる前はわたしと姉は不仲でつきあっていなかったが、アルツハイマーの義兄の様子を聞いて手伝いに行くようにした。そして姉の孤独を見て週に一度姉の家を訪問することにした。その上に毎日電話でしゃべる。電話がかかるときに不在だとややこしいので、姉はいつでも在宅だからこちらからかけるようにした。それでも時間が遅れるとかかってくる。それを10年。

姉の家は地下鉄御堂筋線の東三国にあった。地下鉄と歩きで1時間以上。最初の頃は黙々と通っていたが、こちらも年をとってしんどいし、行きの買い物が重いので行く時だけ西中島駅からタクシーに乗って1000円。これで何年かやって、次は梅田で買い物してタクシーで2500円。そのうち帰りは新大阪へタクシーで800円。新大阪から地下鉄。行き始めてから7〜8年経っている。新大阪の新幹線乗り場で降りて、お店をのぞいてから帰るのが習慣になった。本屋さん、小物屋さん、ドーナツ屋さん、ユニクロなど。
そのうち、午前のタクシープラス地下鉄がしんどくなって、家の近所の高級スーパーで買い物して直接タクシーで行き、帰りは姉の家から何度か乗って知り合った運転手さんに電話して乗せてもらうようになった。タクシー代往復7000円は支給。帰りは堀江へ寄ったり梅田でぶらぶらしたり。

最初に異常に気がついたのは、義弟の言葉から脊柱管狭窄症に違いないと確信し、間欠性跛行(かんけつせいはこう)という言葉を知りこのことを振り返ったときだ。
新大阪の商店街からエスカレーターで降りてちょっと歩くと地下鉄乗り場がある。いつのまにかそのちょっと歩くのがしんどくなった。普通に歩いているつもりなのに、みんなに追い抜かれる。あれ、なんでや〜 地下鉄ホームに出てベンチに座るとしんどいのが治る。1台おきの新大阪駅発に乗って心斎橋へ。降りてから乗り換えまで歩くのが一仕事。エスカレーターのところにあるベンチに座って一息つく。立ち上がったら元気。で、また歩いて疲れ、乗り換えた電車に座って元気に。
いまになって以上のように整理して考えたら、この症状は脊柱管狭窄症患者の典型的な間欠性跛行だ。
おととしの秋はこうして去っていき、寒くなってから倒れたんだけど、ずっと前兆があったのだ。