灯火管制(わたしの戦争体験記 55)

わたしは4年生の夏に疎開してしまったので、翌年の大阪大空襲のときは山梨県にいて空襲の恐ろしさを体験していない。次兄は山梨県だが甲府市の叔父の家にいて二度空襲にあい、二度とも命からがら逃げている。わたしは後屋敷村にいて甲府方面の空が真っ赤になっているのを見ていた。翌朝、兄が黒焦げの自転車を引きずってやってきた。それから兄はどうしたのかしら。叔父のところにもう一度お世話になったか、さきに大阪へ帰ってたのか。今度あったら聞いてみよう。わたしは疎開したので、空襲後の大阪の状況がわからずじまいなのが残念だ。戦後何十年も経ってから各区の戦災を語る会などに行って当時の状況を体験者に聞いた。西区は3月に暗い時間にやられたが、ちょっと北のほうは真昼間に機銃掃射されたことなどそのとき始めて知った。聞いておかないと当時のことを知っている人たちが亡くなってしまう。

戦中のことをいま思い出そうとしているがあんまり出てこない。灯火管制という言葉がいま出てきた。灯火管制がしかれたのは3年生のときだったかな。玄関の戸をぴったりと閉め、灯りは茶の間だけで、コードをさげた電気の傘の上から黒い布を被せた。灯りは黒い布の下だけにとどいていた。家族全員が火鉢に手をかざしながら小声で話していた。外から隣組長が点検して明かりがもれていると怒られる。本を読もうとして明かりを取り合いきょうだいゲンカが勃発する。
息を殺すようにして父が話し出す。幼い時から浅草の仲見世で働いた話がおもしろかったが、本人はすごい苦労をしたといってた。お金の苦労をたくさんしたが、遊びもしたみたいで、いろんなことを話してくれた。アメリカ映画が好きで、『駅馬車』『暗黒街の顔役』はストーリーを最初から何度でも聞いたので耳にタコができた。映画は戦後だいぶ経ってから見ることができたが、父の言葉をまともに信じていたからがっかりした(笑)。

灯火管制のなかで映画と探偵小説とジャズとアメリカ文化への憧れを語る父と、日本帝国の勝利を信じている兄と軋轢があったのか、当時のわたしは知らなかった。ただ、真面目な兄をからかう父がいたのをよく覚えている。