桑の実に再会(わたしの戦争体験記 64)

わたしは桑の実に過剰な愛情を持っている。第二次大戦中に大阪から山梨県へ疎開したのは国民学校4年生の夏休み中で、さっそく宿題を出された。桑の枝の皮を剥いて乾かして束ねて新学期の初日に持ってこいというのだ。
居候先の叔母の家では蚕を飼っており、毎朝毎晩桑の葉をもいでは蚕に食べさせていた。わたしが桑畑で見つけたのが桑の実だった。真っ赤な実を口に含むと甘くてうまくておどろいた。それ以来実のなった桑の木を見つけるとちぎって食べていた。これは誰にも怒られなかったからうれしい甘味補充であった。
2年後に大阪へもどってからは桑の実の思い出だけが増殖していった。
大人になってから長野県の人が桑の実ジャムを作ったのが手に入って喜んだが、甘すぎてどうもあの野生の味とは違う。そのまま思い出だけを残したままで、いままで過ぎた。

今日夫が無農薬野菜のライオンファームへ買い物に行ったら、奥さんへと紫陽花の枝を数本くれた。ガラス瓶に入れたら涼しげでいい感じ。喜んでいたら「これはどう?」と野菜の袋から小さな包みを取り出した。「ありゃあ、これは桑の実じゃん」わたしの桑の実好きを覚えていて買ってきてくれたのだ。200円だったって。
見るのも食べるのも75年ぶりである。国民学校4年生の夏に疎開先の山梨県で食べて、翌年、翌々年も食べて、それ以来だ。
ライオンファームさんは出かける前に近所の桑の木から実をもいで出発したそうだ。採れたてのほやほやを車で1時間ほどかけて運んでくれた。

味は、う〜ん、もっと甘かったような気がするが、戦争中のなにもない時に枝から採って食べたのだからさぞ甘かったろう。
それにしても、いつも桑の実のおいしかったこと、桑の実で救われたことを話しているが、なんとかしてまた食べようとまで思わなんだ。
こんなもんかなあ、あまりうまくはないなあ。でも「いつかは」とは思っていたなあと納得している。

ツイッターにうれしそうに書いたら「最近はマルベリーで、たまに見かけます。」と教えてくれたSさん、ありがとうございます。桑の実をマルベリーというのも知らなかったわたし(笑)。

今回は「わたしの戦争体験記」の第1回【ブラックベリーと桑の実(わたしの戦争体験記 1】(2018/7/30)に続くものとして読んでください。

おやつはドーナツがいいな

いっとき駄菓子に凝ってスーパーの菓子売り場をよくうろついた。相方にも「生姜せんべい」と「かりんとう」を見たらこうといてやと頼んでいた。ミレービスケットも好きで常備していた。好きなことはやりすぎるもので、ちょっと食べすぎやなと反省してそれから駄菓子類は食べなくなった。

で、おやつはトーストとコーヒーとかクラッカーにジャムぬって紅茶とか、クラシックになっている。チョコレートもほどほどに。
でも、朝昼兼用ご飯を食べたあとってお腹が減るもので、夕方近くなるとなにかちょこっと食べたくなる。晩ご飯が遅いし。
それでスーパーに行くなら菓子パンを1個買ってきて半々に食べようとかなるのだが、先日はスーパーの店先にドーナツ屋さんがちょこっと出していたので、シナモンドーナツを買った。その前にはオールドファッションを買っている。今日は四ツ橋筋のお店まで行ってジンジャードーナツを買ってきた。
3種類とも美味しくて、もっと食べたかったがそこは我慢で1個ずつである。だからまた買いに行く(笑)。
結局はいくつになっても「お菓子の好きなパリ娘〜」と変わらんやん。「二人そろえばいそいそと角の菓子屋へポンジュール」ですわ。

こんなことしてた-ふきん刺し

なにかに使えそうな古い布を箱に入れて押し入れの隅っこにしまってある。その箱の整理をしていて懐かしいものを見つけた。晒し木綿を20センチ四方ほどに切ったのに赤い糸で全体に麻の葉柄のステッチを入れたもの。パソコンのない時代にしこしこと縫ったものだ。
もっといろいろな柄を絵本や中原淳一の絵ハガキから探して4枚に重ねたさらしにステッチを入れたのがあったが、雑巾として使ってしまったのだろう。ああもったいないことをした。あんなの二度とつくれない。

ここに1枚残っているだけでも足跡があるのがわかってよかった。
姉にも何枚かプレゼントしたんだけど、使い捨てたといってた。おしゃれだからとか、アートしていて良いとかいうて、とっておいてくれたらよかったのに。まあ、わたしが不器用なのでそこまで要求できないけど。
あとで考えてもしゃあないことを考えてもしゃあない(笑)。

蚊の季節がやってきた

昨夜はパソコンに向かっているとブーンと蚊がうなって腕を噛もうとしている。すかさず叩いたのに死体がない。うまく逃げたなと気をつけていたら、何度かやってきてその度にうまく逃げられた。噛まれなかったのがさいわいか。
ベッドにはわたしより先にいって待機してたみたいで、横になったとたんに指を噛まれた。なぜか昨夜はそれだけですんで、こっちはすぐに熟睡してしまった。蚊もまだ慣れてなかったのか、最初の一発でお腹いっぱいか。

毎年夏になると蚊の話題が多い。去年いたやつが出てきたみたいに毎年同じように食われ、かゆいかゆいと掻いている。
ここまで書いて、物入れの蚊取り線香セットを出してきた。元ホーロー鍋(オランダ製)の線香立て入れ、ブリキの線香立て、まだ使い切っていなかった菊花線香の大箱。マッチの小箱。これでよかったかな。
テーブルの上にオランダのお鍋を置いて、蚊取り線香の煙があがっている風景、なかなかおもろい。

白髪まじりのボブ

今日は髪の話です。染めるのはやめて白髪でいく。
美容院シュリットのシマさんが「すぎやさんにはボブが似合う」というので、ここ数年ずっと長さに違いはあるがボブにしていた。ずっと以前から染めていて茶髪だが最近はハイライト入りでなかなかシブい。シマさんはたまにカットしながら「白髪80%〜」というので、われながらいつまで染めるのかなと気になっていた。最後に染めたのが3月5日で、その日は相方が迎えにきて賑やかにしゃべった。シマさんは機嫌よくふたりの写真を撮ってくれた。なかなかかっこいい。毎日仕上げた髪型の写真を撮っているから腕があがっている。

4月にシマさんが入院することになり退院日が予定より長引いたとき、いま白髪交じりを我慢してこれを機会に白髪にしようと決心した。うまいカットで白髪部分がいい塩梅に茶色い表側に隠れている。当分これでいこう。

それからカットに今日を入れて2回行っている。かなり白いところが目立ってきたが、ブラッシングの具合で上手に隠れているところがあってヘンではない。先日会った人は白髪が自然にきれいに見えるといってくれた。腕の良い職人さんの手が入っているのは一目瞭然なり。

野菜と海藻をよく食べているから髪の伸びるのが早いそうだ。白髪あたまはショートにするかボブにするか考えてくれるそうだ。帽子も買う。

月月火水木金金(わたしの戦争体験記 63)

戦時中のいつのころか日曜日と土曜日がなくなって、日曜日は月曜日と同じに働いたり勉強したり、土曜日は金曜日と同じく働いたり勉強したりする日になった。大阪にいるときはどうだったかなあ。1年生のときは土曜日は半ドンだったように思うが。山梨県ではどうだったろう。日曜日は学校を休んでいたような気がする。休みといっても畑仕事の手伝いやらされたから、やっぱり「月月火水木金金」だったなあ。

「ヤフー知恵袋」(ベストアンサーに選ばれた回答)からの引用です。
【もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まりである。海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに猛訓練していたが、ワシントン・ロンドンの各軍縮条約で艦船の数的不利をうけて、更に休日返上で猛訓練を行っており、ある海軍士官が「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったものとされ、このニュアンスからして「月月火水木金金」は海軍精神の発露というより、むしろ猛訓練に辟易していた海軍将兵らが自嘲気味に使ったのが始まりかと思われる。
太平洋戦争中には、勤務礼賛の意味で、国民の間で広く使われた。】
引用させていただきました。ありがとうございます。勉強になりました。

わたしの歌える歌詞は以下である。

朝だ 夜明けだ うしおのいぶき〜
う〜んと吸い込む あかがね色の
胸に◯◯のみなぎる誇り
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金

ちょっと忘れたとこあるけどこんな歌詞で調子が良かった。何十年も前の歌をよく覚えているもんだ。
しかし、第二次世界大戦中って標語や歌がえらく流通してた。しょっちゅうラジオから流れていたし、道路とか学校とか拡声器でがなり立てていたから。

青竹踏み

最近よく青竹踏みをしている。50センチくらいの長さの太い竹を縦に二等分したもので、丸いほうを上にして踏むようになっている。何回と数えてやることもあるし、ひたすら時間を待つこともある。ずいぶん昔にどこかで買ってきたもので280円と金額を覚えている。そのころは東洋体操に凝っていて本を読んでそのとおりにやってみたりしていた。だけど、青竹(買った時から茶色だった)踏みは足の裏が痛くて何度も踏めない。最近いくらでも踏めるのは、ずっと机の下に置いていつも足をのっけていたからだろう。

1983年に出た津村喬『東洋体育の本』という本を、いまだに出してきて体操したりマッサージしたりしているが、そのあたりが我が家の東洋体育びたりの最初のころだった。空手を習いに行ったのもそのあたりかな。

長いこと机の下でわたしの足乗せになっていた青竹だが、いまは食卓の下に横たわっていて、ご飯の前後の待ち時間なんかにわたしが踏んでいる。ストレッチの合間にも踏んでいる。土踏まずがすごくいい気持ちになる。風呂上がりの青竹踏みはええ感じです。

事件

昨日はお昼過ぎまで寝ていて慌てて起きて(笑)洗濯した。ベランダにいると外から拡声器の声が聞こえる。「家から外に出ないように」というているようだ。なんやねんと思っているうちに消防車は通り過ぎて行った。なにか街路樹に農薬でも撒いたのかなと思ったが、ネットニュースを読んで気がついた。吹田市で事件が起こったようだ。犯人は警官を刺して奪った銃を持っている。吹田やて。姪夫婦が住んでいる。現場からは離れているから大丈夫やろ。とはいえ北のほうとはいえ、南に向かって乗り物に乗ればうちだってすぐだ。消防車も家から出るなといってたし。

「うちらはいわれなくてもどこにも行かないから大丈夫です」といったら、相方は「おれは本屋に行く」という。「心斎橋で撃たれへんように気をつけてや」といえども、どうやって気をつけるんや。
高齢者夫婦は呑気なことを言いながら、一人は本屋、ひとりは昼寝。
夕方、また拡声器から声が聞こえた。「・・外に出ないように」「はいはい、出ませんから大丈夫」と独り言で返事してツイッターでつぶやいといた。

お昼はラーメン、夜は親子丼

昨夜は相方は夜遊びに出かけ、わたしは家で一人夜遊びしてたので今朝は朝寝坊というか昼寝坊というか・・・起きてあわててお洗濯。
昼ごはんは個食なので、ラクチンなラーメンにした。モヤシをたくさんとウインナーソーセージを炒めて、非常用に買ってあるサッポロ塩ラーメン1袋。カンタンで美味。
相方は昨日の残りの豆乳とスープとサラダなどでトースト。

おやつはコーヒーとサンドイッチ。
おやつのあとストレッチしてたら、プラスチックボールに首筋を乗せたまま寝入ってしまった。目が覚めてびっくり。まあなんともなくてよかった。肩こりによかったかも。

晩ご飯は相方が本屋に行った帰りにさっさと買い物してきて親子丼。
こんなときに勝手に口に出てくる歌「おーやこどんぶり おすしにべんとう サンドイッチ ラムネにサイダー、ぎゅうにゅう」
この歌はコーラスの連中とハイキングのときなどに歌ってた。服部緑地でピクニックしたときとか。フォークダンスもよくやったが、ぐるっと丸く座って歌ったものだ。その後にハンカチ落としとか(笑)。幼かったなあ。
晩の親子丼は味噌汁の代わりに昨日のビーツのスープを温めたけど、これもうまくて丼と合ってうまかった。

千人針(せんにんばり)(わたしの戦争体験記 62)

千人針(せんにんばり)。思い出すのもいやな言葉である。いやなのは前回書いた「パーマネントはやめましょう」も同じで、忘れていたいいやな記憶である。戦争中のことでいい思い出はないから、書こうと思いついたときからわかっていたが。

大阪西区の西六(さいろく)小学校に通っていたとき、たまに映画や紙芝居や講演があった。映画は新しい建物の講堂で生徒全員、紙芝居や講演は木造の各教室で行われた。紙芝居は銃後の民(前線に行かずに後方にいる女子や子供のこと)のわたしたちを啓蒙するためのものだった。
ストーリーがあって、銃後の妻が鎌で手を切ったりしてあっとのけぞると、その同じ時間に戦地で夫が戦死したのが後でわかる。
映画では飛行隊ものが多かったような気がする。勇ましくかっこよく出撃するシーンを主題歌とともによく覚えている。
ようするに、わたしら銃後の民は兵隊さんの苦労をありがたく思い、支えていかなければならないということだった。千人針もその一環だった。

千人針というのは1メートルくらいの長さに折った晒し木綿に赤い糸で結び目をつけたもの。何センチおきかというと・・・左右2センチくらいかな。とにかく1000人から針目を作ってもらうわけだ。市電の停車場とか盛り場の曲がり角とかで女性が2、3人立って、通る人に頭を下げていた。
何度か「千人針」をやってきたと姉たちが仕事から帰ってきて報告してた。会社の人から預かって家族全員が刺したこともあった。「これで弾がそれるのかねえ」というようなことは誰もいわなかった。