エイドリアン・フォゲリン『ジェミーと走る夏』を読む前に

児童文学「ジェミーと走る夏」に「ジェーン・エア」をキャスという少女が読んでいるところがあるんだって。相方が読みながら笑っている。昨日と今日とずんずん読んでさっき渡してくれた。この本を読んだおかげでロチェスターさんがどんな人かわかり、お屋敷の火事やインドへ行く従兄弟のこともわかったそうな。わたしが二言目には「ジェーン・エア」と「高慢と偏見」と言っているからうすうすはわかっていたんだけど、この本で具体的に知ったみたい。さっきお茶しながら、なんで「ジェーン・エア」やねんという話をしていたが、だから乙女やねんというしかない。

ちょっと開いてみたら、隣家のおばあさんのことがあった。ミス・リズは今年97歳で亡くなるまでポーチに座って、キャスに「女の子同士」のおしゃべりをしましょうと誘ってくれた。こんなに眠くなければ読みとおすんだけど、昨夜は5時まで起きてたので今夜はもうあかん。これだけ書いておこう。いくつになっても「女の子同士」の会話を楽しめる女子でありたい。いまのわたしはどこへ行ってもガールズトークまたは魔女会議と名付けたおしゃべりをしている。ミス・リズに続いて97歳まで続けようか。

ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

「花のノートルダム」をはじめて読んだのは10代だったと思う。サルトルの「聖ジュネ」(この本でひとつだけ覚えているのはコンドームがあればジュネは生まれてこなかったという一行だ。)を読んでジュネを知ってそれで堀口大学訳の本を読んだ。サルトルが褒めているから読まなきゃと思って読むつらさ(笑)、最後まで読み通したかも覚えてない。だから内容を覚えているわけがない。

今回、鈴木創士さん訳の本がいいというので買った。少し前に鈴木さん訳のランボー全詩集を読んだらすごく読みやすい。これなら「花のノートルダム」を読めると思った。
そして昨日読み終わって、今日は気に入ったところをあちこち読んでいる。それで思い出したのが、アンドリュー・ホラーラン「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」とジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」だった。3冊とも恋人どうしの出会いのシーンがいい。ゲイ小説を一言で言えば「出会いシーンの素晴らしさ」だと思う。

最初のページのセンテンスの長い文章にまず惹き込まれ戦慄した。読んでいくと「ディヴィーヌが死んだ」という文字が。ディヴィーヌは死んだのだから詩人は彼女のことを物語ることができる。私(ジュネ)は気分にまかせて男性的なものと女性的なものをごっちゃにしてディヴィーヌのことを語りはじめる。ディヴィーヌは男で美しい女でオカマだ。

ディヴィーヌは20年ほど前にパリへ現れた。夜のパリを彷徨う彼女をあらわしたたえる言葉が続いていく。ディヴィーヌは腹と心が飢えていて屋根裏部屋へ向かっていると、ひとりの男が向こうから歩いてきた。
【「おお、失礼」、と彼が言った。「悪いねえ!」彼の息から葡萄酒の臭いがしていた。「どういたしまして」、とオカマは言った。通り過ぎようとしていたのはけちなミニョンだった。】そして、彼らは屋根裏部屋へあがる。ミニョンのしゃべり方、煙草に火をつけて吸うそのやり方から、ディヴィーヌはミニョンが女衒(ヒモ)であることを理解した。そして彼女はうっとりと「ここにいてね」と言った。ディヴィーヌはブランシュ広場であくせく働きミニョンは映画に行く。ミニョンはごろつきなのに美しい男で生まれながらのヒモだった。
そしてミニョンと花のノートルダムが出会う。このシーンもめちゃくちゃいい。

「花のノートルダム」はわたしの言葉では言い表せない作品だ。ひたすらひたっているうちに言葉が出てくるだろうか。ごろつきやヒモやオカマや、臭いや汚れや汚物や殺人や牢獄なんぞが美しく光っている。
(鈴木創士訳 河出文庫 1200円+税)