懐かしのかちんうどん

今日の晩ご飯は相方が知り合いとよそでご飯を食べることになって、わたしは個食になった。昼ご飯に食べた鯖の味噌煮缶と野菜と豆腐とキムチの味噌汁にお餅を入れてぐつぐつ煮たのを大丼で豪快に。なにに入れてもお餅はおいしい。

先日、近所のそば処 宋平で焼酎とおかずのあとに「かちんそば」を相方が食べた。食べる前に「かちんそばてなんや」と質問あり。「そばにお餅を入れてある、かちんうどんもうまいよ」と返事したが、わたしはその前に鍋焼きうどんを注文していた泣。餅入りのお蕎麦、かちんそばがおいしかったって。

最近宋平以外にうどん屋さん蕎麦屋さんに入ることがない。通天閣の側にある総本家 更科の蕎麦はうまかった。そして鍋焼きうどんのまたとないうまさかな。大晦日の年越し蕎麦もすごーくうまかった。こちらも長いことご無沙汰だが道頓堀の「今井」のうどんもうまい。
すいすい行けるようになったら食べに行くぞ〜

もっと昔の話だが(ハタチごろ)東淀川区の三国の幼稚園を借りてコーラスの練習をしていた。薄汚い神崎川が流れているところで、頑張って泉合唱団という名前をつけた。あたりにまだ蓮池が残っていた頃のこと。
週に一度の練習日に仕事を終えて集まるのだが、たまに三国商店街にある「力餅」できつねうどんかかちんうどんを食べたものだ。小遣いの都合で毎週とはいかなかったが、ここで晩ご飯を食べる工場労働者もけっこういた。大メシと素うどんのセットが懐かしい。

叔父さんは見栄っ張り(わたしの戦争体験記 21)

母のきょうだいは女3人の次に男、そのあとに女が2人の6人きょうだいだった。わたしが世話になった母の実家は末っ子の女子が養子を迎えていた。4人目で長男の叔父さんは、百姓はいやだと甲府へ出て商売をしていたようだ。
この叔父さんは羽振りがいいときは気前がいい。国民学校の旗日にミカンを一箱寄付したりする。朝礼の時に先生からミカンを分けてもらって「くみこさんはいい叔父さんがいていいね」とクラスの子がいう。ふふと笑うしかないわたし。実のところ叔父さんはわたしにはミカン一個すらくれたことがなかった。

学校帰りに出会ったとき「くみこ、お前の靴はなんだ、ボール紙じゃないか、今度オレが皮の靴を買ってやるぞ」と愛嬌のある大きな声でいった。わたしはずっとおじさんの姿を見るたびに、靴箱を持っていないかと気にしてたが、何ヶ月後にようやくこの叔父さんのいうことを当てにしてはいけないと悟った。

みんなと同じように国民服を着てもぴしっとしていてとても見栄えがよかった。誰にでも愛想がよくてうまく生きているように見えたが実はどうだったんだろう。

ヴィク・ファン・クラブの会報できたよ

このブログではヴィク・ファン・クラブの会報づくりの話題が月に一度は出るが、毎月一度出す会報が今月ほど負担なことはなかった。いままでなんやかやいいながらなんとかなってきた。今月もなんとかなるさという楽観的観測でいたが、日にちは経つばかり。

ほんまにやらねばと思ったときに姪から姉を入院させたと電話。からだが動けないぶん連絡係をすると引き受けた。兄二人と家族、妹一人と家族、亡き弟の娘R子、姉の亡夫の妹夫婦と電話とメールでかなめになって大忙し。
よそから来る人は、わたしか姪が病院に詰めてるとでも思っているのか、好きな時間にやってくる。こちらにも選ぶ権利がある。仲良しのR子とは新大阪見送りまで付き合った。

そして会報だ。月が変わってしまって、あわててやった。さっき「あとがき」を書き、プリントし終わった。明日封筒を作って夜に出しに行けるかしら。結局は楽しい会報ができあがってよかった。お待たせした会員さんたち、きっと楽しく読んでくれるだろう。ステキなVic Fan Club Newsを。

いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)

疎開して国民学校4年生の2学期から学校へ通うようになった。村の名は後屋敷村だったけど校名は後屋敷小学校ではなかったような気がする。なんて名前だったか全然覚えていない。もしかしたら日下部小学校だったかしら。鉄道駅が日下部だったから。

学校から帰ると道を隔てた農家のK子が遊びに来てそのままうちにいることもあり、どこかへ連れ出すこともあった。他の子も連れ立って女子グループで小遠征することもあった。ある日、連れ立ってけっこう大きな川へ行った。もしかしたら笛吹川だったかもしれない。ちょうど男子グループがいて川に渡してある太い丸太の上を次々に渡っていた。軽業師みたいに軽々とうまい。親分のような少年が指図していて「女子も渡れ」といった。その瞬間にわたしは落ちて死ぬと思い、「もはやこれまで」と時代劇のようなセリフが頭に浮かんだ。女子たちも慣れたものという感じで渡って行った。とうとう最後にわたしの番になった。丸太に這いつくばっていくしかないと覚悟を決めてじっと川と丸太を見つめていると、リーダー少年が「今日はこれで終わるづら」と声をかけ、みんなを戻らせた。

あんなにほっとしたことは生涯であの一回だけ。わたしはあの声のおかげで一命を取り留めて今日も生きている。わたしが落ちたら親や先生に怒られると思って、彼はあの命令をくだしたのだろう。

仮病でずる休み(わたしの戦争体験記 19)

疎開先の人たちに悪い人や威張った人はいなかったが、みんな働き者で、小さい女の子にかまっていられない。叔母さんだって洗濯はしてやらなあかんし、まずご飯を食べささなあかん。誰とも話をする時間なんてなかった。祖母だって孫をおんぶして繕い物したり、蚕の糸をとったりしていた。

家のいちばん奥というか仏壇のある客間のような部屋に祖母と孫の6歳の男子とわたしが並んで寝た。田舎の人はみんな早起きで、わたしが目覚めるころは一働きしたあとだ。
そろそろと起き上がって井戸端で顔を洗い、いろりのある台所へいって朝食を食べる。それから学校へ行くのだが、10日に一度くらいわたしは頭いたかお腹ぐあいが悪くなることにして起きていかなかった。叔母さんと叔父さんは顔を見合わせて苦笑いしてたみたい。

起き上がらないでじっと天井を見ながら寝ているといつのまにかうとうと(笑)。トイレが遠いのにはまいった。そっと縁側から庭の裏の方に出て、そぉぉっと・・・雪が降ってると白い雪が黄色く染まったっけ。近くに住むK子が学校帰りに寄って連れ出してくれた。

叔母が母に久美子は勉強しないし学校はさぼるしと手紙を書いたらしく、母親から厳しい叱責の手紙がきた。叔母さんに勉強するくらいなら本を読めと父親がいったともいえず、黙って下を向いていた。この父親は「雨が降るのに学校へ行くことはない」という人なのだ。
学校へ行く途中で下駄の鼻緒が切れたからと裸足で帰ったこともある。ところがある日、親切な女性が鼻緒を直してくれたので、その日は帰らずに学校へ行くはめになった。1時間目だけ遅刻で情けない一日。

楠公炊き(わたしの戦争体験記 18)

楠公炊きは戦時中にお米が増えるご飯の炊き方ということで大きく報じられた。たしか町内会からの呼びかけがあり、新聞の家庭欄や婦人雑誌にも何度も取り上げられたのを読んだ覚えがある。いろんな著名婦人たちが自分の炊き方を披露していた。我が家も一回目は母と姉が立ちあって土鍋で炊いた。お米を炒って膨らませてから水を加えて炊く。量はたしかに増える。

楠公こと楠木正成公が苦難の戦いのときに、こういうご飯を食べて戦ったという話から、模範とするということなんだけど、いくらかの米を水でふやかして炊いて量があるように見えるよう工夫したってお腹がふくれるはずもなく。
うちの母はサツマイモが手に入ったときは芋粥にし、雑草を抜いてきたときは七草粥ふうに炊いていた。でもなにを入れて炊こうが戦時中に腹いっぱいになったことはなかった。

ともだちが減っていく(わたしの戦争体験記 17)

いままで気にしていなかったけど、わたしが4年生の1学期を終えて母の実家の山梨県に疎開する前に学校から去っていった子が多かったようだ。殺伐とした学期末だったと思うが、少しも覚えていない。ただ壽(ひさ)さんとさかえちゃんとの別れがショックだった。『小公女』のセーラのように孤独な境遇になると思うと怖かった。
その頃よく見た夢だが、わたしは座敷に幽閉されていて、ふすまを開けるとまた次のふすまがあり、警護の侍がいて開けたふすまは何度でも閉められる。まさに出口なしの夢だった。トイレの戸を閉めるのが怖くていつも開けたままにしていた。

なんで仲良くなったのか忘れたが堀江の芸者屋の娘の壽さんとしょっちゅう家を行き来する仲になっていたが、一家で引っ越すからと突然来なくなった。向かえに住んでいた1年上のさかえちゃんは、わたしが新町にきたときから引っ張りまわして遊んでくれたが、一家で南海沿線の粉浜に引っ越していった。粉浜では戦災にあわずに済んだそうで、戦後に探して会いにきてくれた。
その他、電気科学館の屋上で遊んだ子、体操の時間をいっしょにサボっておしゃべりしていた子はその後どうなったかしらと70年経ったいま思うのである。

姉(いつもこの日記にでてくる人)がピンク地に白い花が浮かんでいる布でワンピースを縫ってくれた。この服を気に入って夏中着ていたが涼しくなるころにはモンペに変わり、それ以来何年かモンペで暮らした。

集団疎開の訓練(わたしの戦争体験記 16)

1・2年生のときは戦時教育もゆったりしていたが、3年生になるとだんだん戦時色が強まってきた。なにかにつけ「君が代」「海行かば」を歌う場面が増えた上に、なにかにつけ「勅語」を暗唱させられた。

アメリカ軍の空襲が激しくなるとのことで、大阪市内の国民学校生徒は疎開させられるという噂が駆け巡った。4年生になるとすぐに担任の先生から、子供を預かってくれる親戚がある人は報告するようにと呼びかけがあった。わたしは以前お向かいに住んでいて引っ越したさかえちゃんを思い出したが、親は「親戚でないとダメだろう」と、結局は山梨県の母の実家に頼んだ。疎開先を自分で決めないと集団疎開組に入らねばならない。親はそれよりましと思ったようだ。弟は2年生だったから親といっしょに大阪に残った。

1学期の間にだんだん子供がいなくなっていく。校庭が寂しくなっていった。
ある日、校庭に4年生以上の生徒が呼び出され、明日は集団疎開の訓練をするから用意して登校するようにとのこと。着替えと小さな毛布か布団をリュックに入れ、水筒を忘れずにと注意があった。
うちには大きなリュックがないので、母が大風呂敷を袋に縫って小さな布団を入れて背負えるようにした。

翌日は珍妙なリュックで学校に集まり、ぞろぞろと南海電車のなんば駅に行き、高野線に乗って河内長野で降りた。電車に乗っても遠足ではないし、どこへ連れていかれるのかわからず車中みんな暗かった。
河内長野の駅を降りてすぐに村の国民学校があってここだという。みんな校庭に並んだ。話がついていなかったのか、今日になって断られたのか、今日はここに泊まらずに帰ると聞いたときはほっとした。
校庭に集まった子供たちを実際に見たら、何百人のこどもを教室に一夜寝かせるって無茶過ぎだと誰でも思うだろう。

結局はなにもせずなにも食べずにまた電車に乗って学校へ帰った。全員揃った学校で、みんなにコッペパン1本ずつが配られ、これは学校からお昼の弁当として出すものだから持って帰って家族と食べなさいと先生がいった。

4年生の1学期が終わるとき、ここには2学期はないのだと先生がいった、夏休み中にそれぞれがそれぞれの親戚などに引き取られる。縁故疎開せずに集団疎開した子がいたのか知らないままに。

遠足はほとんど史跡(わたしの戦争体験記 15)

西六国民学校では一学年に2〜3回は遠足があった。ただ一回だけは箕面へ行ったと覚えているが、その他は史跡とか神社だった。

よく覚えている一日。湊町から関西線で笠置へ。関西線は山梨県に行く時に名古屋まで利用するから慣れている。いかにも関西らしい車窓からの眺めが好きだった。

笠置駅に着くとすぐに神社に詣でて後醍醐天皇がいかに偉大かという神秘的な講話があって頭を垂れて聞いた。
外に出ると境内に石組みのちょっと神秘的な場所があった。そこがお墓なのか碑だったのかなんにも覚えていないが、どこか惹かれるものがあった。歴史の持つ重みのようなものを感じた。
お弁当は梅干しおにぎりだけだったが、うまかったあ。

後醍醐天皇と関連して楠木正成・正行親子の忠義と孝行についても教育された。遠足で千早赤阪村に行った記憶はあるけど、どんなところだったかすっかり忘れている。
紀元節(2月11日)とか明治節(11月3日)とか重要な日には橿原神宮へいった。境内がすごく広くてよその学校からもたくさん来ていたのを覚えている。

いま書いたところと戦後は無縁である。奈良や京都へはよく行ってるが、仏像や建物への個人的興味で信仰心も崇拝心ももってない。
いま、ちょっと検索したりしていたら、笠置が懐かしくなってきた。そのうち余裕ができたら奈良で泊まってゆっくりと笠置へ行くのもいいなと思った。まあ、思うだけで終わるだろうけど。

後醍醐天皇についてはまるっきり無知なので、ちょっと勉強しようと、網野善彦『異形の王権』(平凡社)を買った。今夜から読む。おもしろそう。

しゃきっとせなっ!

9月もあっという間に過ぎ去ってあと4日で10月だ。何日か前から十三夜とか十五夜とか十六夜の月とか数えているうちに全部通り過ぎて、今夜は雨が降っている。先週も何日か月を見損なって、ようやく十三夜を見られて喜んだのだが、今週は月に縁のない夜が多そう。

毎月ぼやいているヴィク・ファン・クラブの会報だけど、今月も手こずっている。目が悪くなって夜はパソコン仕事をしたくないが夜にずれこむのでなんぎである。ページを抜かしてしまったり、同じ原稿をだぶってレイアウトしていたり、二度手間も多い。長年やってる用事なのにきちっといかないのはなんでやろ。疲労のせいにしとこ。きちっとしていたところをどっかへ置き忘れたみたい。

買った本が溜まっていてしっかり読みたいのだがなかなか読めない。歳をとるってナンギなことだ。それで1年前までは買えばどんどん読んでたミステリを後回しにすることにした。ここしばらくはは折口信夫関連に集中する。しゃきっとせなっ!