岡田春生『教育よ、国を滅ぼすな—百草頭上無辺春—』(1)

著者の岡田さんはヴィク・ファン・クラブの名誉会員である。20年くらい前にヴィク・シリーズを読んですぐに会員になられた。そしてすぐに東京から例会に来てくださった。いま97歳なので77歳から80歳くらいのときだ。ヴィクとわたしたちがおもしろいと例会には二度来られた。その後は行きたいけど腰を悪くしていると便りがあって、それからは会報の原稿が送られてきた。VFCサイトを作る話が出たときはカンパを送ってくださった。なにかあると励ましてくれた。
ご夫婦で有料老人ホームに入られてからは会報を送ってお互いに元気なことを知らせあっている。
サラ・パレツキーの本を仲立ちにたくさんの方と知り合ったが、ヴィク・ファン・クラブとわたしについて岡田さんがいちばん興味を持って関わってくださったように思う。

2009年4月に「もう一度 坂の上の雲を—陰謀の幕末史と現代(小楠、海舟、具視)—」を出版されたのをいただいた。幕末、明治維新の難局をどう切り抜けてきたかという内容だ。岡田さんの日本のこれからを危惧する思いがつまった本だ。

「教育よ、国を滅ぼすな—百草頭上無辺春—」は岡田さんの自叙伝で今年の8月に発行された。いままでばらばらに聞いていたことがつながった。
本の紹介は明日書きます。

「瓦礫の焼却ダメ!大抗議in大阪市役所」に参加

先週の木曜日「大阪瓦礫受け入れ勉強会」で勉強してきた。当ブログに報告を書いた他は何人かにメールしただけだ。そうそうVFCの会報にも書いたのを載せるからそこそこの人に読んでもらえてるかな。

今日は中之島の大阪市役所前に行った。ここに一人瓦礫焼却に反対している者がいるということを態度にするだけでもいいじゃなのと思って。

巨大な市役所の建物、その南側に広い道路をはさんで堂島川が流れている。その道路の歩道のところに抗議者たちは三々五々やってきて、市役所の窓と壁に向かって市長たちにスピーチする。あいだに若い女性が司会とともにコーラーをやる。それに和してわたしたちは叫ぶ。「瓦礫受け入れ反対」などなど。

暗くなってきて堂島川の水面の波立ちが美しい。川の上に半月が輝いている。美しいなあ大阪、奇跡的に放射能から免れている大阪。そこに岩手県から廃棄物が運ばれてきて此花区の焼却場で焼却される。放射能の混じった煙が風とともに大阪の空を舞う。
大阪には東北関東から避難している方がたくさんいらっしゃる。なにもなければこれからも避難者を受け入れていくことになるだろうに。

お洒落なワンピースのFさんはチラシを通る人に配っている。渡すだけでなくきちんと説明している。美人さんに説明されてつい聞いてしまう人がいる。

「大阪瓦礫受け入れ勉強会」で勉強

弁天町学習センター7階講堂で開催された〈「大阪瓦礫受け入れ勉強会」学習会:19時〜21時&交流会:21時〜21時半 講師:下地真樹さん〉に行ってきた。
大慌てで晩ご飯を食べて定刻に到着。きりっとした女性の司会で下地さんの話がはじまった。

わたしが下地さんのことを知ったのは、去年の暮れの「放射能燃やしていいのか 住民説明会」で、その後は関西電力前抗議集会の正門前におられるときに何度か顔を見ている。それから「木下黄太講演会 7月17日 此花」に来ておられて、熊本一規先生の講演会「がれき処理、除染はこれでいいのか」では司会をされていた。
それよりなにより、8月30日の「大阪市主催ガレキ説明会」での橋下市長に対する質問がすごかった。橋下さんは返事ができなくて即閉会してしまったのだから。

今日はレジュメが配られた。最初の1枚のおもては「2011年3月〜6月の放射能物質の都道府県別降下量と汚染」で、東北と関東地方は濃く、新潟、富山、岐阜、愛知を入れた西の方は薄い。裏面は「世界が輸入禁止にしている日本の食品」で、いろんな国に禁止されている。ほんまに食べて応援とかしててええのか。

そして綴じてあるレジュメは、
〈環境省「広域処理」の論点〉 広域処理は輸送費がかかるし不合理なので今までやったことがなかったのが、今回はじめて行われる。大阪府の検討会議は環境省提出資料について、疑わないで「検討しない会議」だった。その他、多くの疑問点。
〈なぜ「広域処理」が重要なのか〉 「原発安全神話」が崩れたいま、「放射能安全神話」になっていること。国が言っているから大丈夫だと地方は隠蔽、抑圧、無視に動き、原発は危険だなどと考えないようにする教育をしている。
〈焼却処理と埋立処理の安全性〉 焼却炉内の汚染、安全性の確認には「総量がどこに行くかが問題」、排気、排水、焼却灰はどうなるか。
〈低線量・内部被曝の危険性の軽視1・2〉 放射性セシウムの一回摂取と長期摂取による体内残存量の経時推移の表で説明。
〈被災地支援としての有効性1・2〉 莫大な輸送費等の無駄、このお金で被災地でできることがたくさんある。「本当の復興のためには、「広域処理」でごまかさず、共に考えていくべきことがたくさんあるはずです。」

その他
大阪人は根拠のない安心感をもっている。岩手の瓦礫を福島よりマシと思ったらいけない。
わからないこと、安全性を立証できないことはやってはいけない。
汚染を広げないようにするのは我々世代の責任である。おとしまえをつけないと被害を受けるのは子どもたちである。
福島の事故は人類初めての経験である。放射能は危ないと福島の人たちに言おう。

講義が終わって集まった人たちの中から連絡事項や感想など。次に集められていた質問への解答があって終了。

次回は26日(水)此花区民ホール3階4・5会議室 学習会:19時〜21時&交流会:21時〜21時半 講師:下地真樹さん 会費300円

三宅菊子さん 追悼/イアン・ランキン

イアン・ランキンの「死者の名を読み上げよ」を読んでいたら、二度も死者の名を読み上げるところがあった。一度目はG8に反対する集会でイラク戦争の犠牲者1000名の名前を読み上げる。読み手が交代しながら読んでいく。二度目はリーバス警部がバーでグラスを掲げて事件の死者の名を5人読み上げ、続いて先週亡くなった実弟の名前を読み上げる。
【死者の名を読み上げ、忘れ去られてないことを死者に知らせる。】

思い出したのは三宅菊子さんのこと。
8月8日に三宅菊子さんが東京都内の自宅で亡くなっているのが見つかったとツイッターの書き込みで知った。それまで何十年も彼女の存在をすっかり忘れていた。
わたしが彼女のことを知っていたのは、作家三宅艶子さんのお嬢さんである菊子さんが、松川事件の被告だった佐藤一さんと結婚したときだ。朝日新聞に広津和郎さんの小説が連載されたのが1954年だといま検索してわかった。わが家は一家で愛読したというのは松川事件に関わっている広津さんの小説だからだ。年齢からいって三宅さんが秘書をしたのはもっと後かしら。とにかく被告だった佐藤さんと結婚したというニュースはショックだった。祖母が三宅やすこ、母が三宅艶子という作家を家族に持つ毛並みの良いお嬢様がというショックだったかな。お嬢様だからこそできたとも思った。初期の「アンアン」にお二人の写真があったような気がする。小津安二郎の映画の一シーンのようだった。

いま検索したら著作もたくさんあり、東京の出版界で活躍されていたのを知った。きりきりしゃんとしたひとだったみたい。
ここに、名前を読み上げ、ご冥福をお祈りします。

「瓦礫の焼却ダメ!大抗議in大阪市役所」にはじめて行った

8月30日に大阪中央公会堂で「大阪市主催ガレキ説明会」があった。それに先立ち8月のはじめ(7日からだと思う)から大阪市役所前で毎週火曜日に「瓦礫の焼却ダメ!大抗議in大阪市役所」という集まりがはじまった。相方はずっと行っているが、わたしはまだ行ってなかった。かんじんの30日「大阪市主催ガレキ説明会」も夏バテ気味だったので、家でIWJのユーストを見ていた。

今日は誕生日だし(?)行こうと、夕方から出かけた。少々遅刻して相方のスピーチを聞き損なったが、たくさんの人たちのスピーチや福島から避難している方の歌を聞いた。川沿いの石に座っていただけだったけど、枯れ木も山の賑わいくらいになっただろうか。
今日は少し人が少なかったかな。もともと30日の説明会までの集まりだったのを、30日が終わっても続けようとなった。全力を出しきった説明会の後だからみなさん疲れたのと、区切りとした人もいるのだろうか。
でも、この闘いは続くし、火曜日の集会も続いていく。わたしもできるだけ参加しよう。

「大阪市主催ガレキ説明会」に行かなかったけど

【8/30(木)<大阪市主催ガレキ説明会>に大阪市民は参加して下さい。中之島の中央公会堂。開場が18時から先着750名。大阪市民限定。 身分証明または自宅に届いた郵便物必要。】というツイートがいろんな人から流されていて、わたしも行くつもりだったのだが、おととい姉の家に行ってから調子がもうひとつなので自重した。集会中に気分悪くなったりしたら大迷惑をかける。相方はちゃんとガレキについて本やパンフレットを読んでから出発。

相方が出かけてすぐにツイッターを見たらユーストにつながった。
市役所前の御堂筋のところで老若男女10人ほどが警察と押し問答している。警察が言うには「たくさんの人が歩いて叫んでいるのは〈デモ〉である。デモは届け出しないといけないから、あなた方のは不法デモである」。歩いているほうは「でかい声でしゃべりながら歩いてるだけやん。デモってどういうものか説明してちょうだい」と答えている。「プラカードを掲げているのがいかん、胸の高さに持って」とかなんとか言い合っているが、かなり威丈高な警察官たちと負けていない〈大阪のおばちゃん〉たち。

中央公会堂のホールで説明会が始まった。今日の説明会には、ガレキ受け入れ反対の立場の人が多かったようで、橋下さんが出てきても拍手はなく、怒号の中でそれぞれの官僚たちは話すことになった。橋下さんは、今日は説明会だからこちらから説明して一応市民の意見は聞くが、市の方針は変えないと言った。
お役人の言葉がだるくてじっと聞いていられない。用事をしながらちょいちょい見ることにした。
質問のほうは長過ぎる人もいたが、みんなよく勉強して質問しているのがわかった。指名された女性が自分よりもとモジモジさんにマイクを譲った。モジモジさんの実に胸のすくような論理的な質問に答えを待ったが、橋下さんは返事ができなくて即閉会にした。<a href=”http://www.at-douga.com/?p=5845″_blank”>画像とモジモジさんの質問の文字起こし</a>

さあ、それからすぐに帰る人もいたが、残っている人も多数。カメラは一時は外に出て、ちょうど山本太郎さんがスピーチしている。

また公会堂にカメラがもどると、官僚たちは早くホールから出ろと言い、残った人たちは出ないと言い、押し合いになっている。エントランスではジャンベや太鼓を叩く人もいて、怒号の掛け合いに情緒(?)を添えている。デモや勉強会などで声を知っている女性が官僚とやりあっている。その猛烈な大阪弁に笑いながら感心した。

わたしは去年の12月の末に西区民センターで開かれた「放射能燃やしていいのか 住民説明会」に行った。そこで女性たちの活発さに圧倒され、モジモジさんの迫力にも圧倒された。それが最初で、「木下黄太講演会 7月17日 此花」に参加したときには、さらに成長した女性たちの行動力にびっくりした。彼女らの活発さ行動力は、放射能という現実を見据えて自分はどう生きるかを考えているところからきているのだと思う。
そういう身銭を切って得た勉強や経験が、橋下市長が唐突に終わらせた説明会の場所から退去せずという行動に結びついたと思う。ずっとユーストで報道されているから、官僚も帰ってくださいを繰り返すだけだった。それでも11時過ぎたら「11時何分、最終電車が出ますよ」とだんだん高圧的になり、ついには警官隊が導入された。

熊本一規先生講演会「がれき処理、除染はこれでいいのか」に行った

先日チラシをもらって行く気が起こった。がれき処理も除染も言葉を知っているだけだから、ちょっとは勉強しておかねば。午後2時から4時までの2時間、大阪市立すまい情報センターのホールにて。

地下鉄天六で降りて上がったら大阪市立すまい情報センターがあって、そこの3階のホールは清潔で冷房がよく効いていた。受付で資料をもらい開始時間きっちりに着席。すぐに熊本先生(明治学院大学教授)の話がはじまった。熊本先生は大阪での講演ははじめてだそうだが、諄々と説くという感じでとてもわかりやすかった。
熊本先生はゴミ問題研究で30年だそうだ。緑風出版から「脱原発の経済学」に続いて「がれき処理.除染これでいいのか」(この本会場で買った)が出ている。

まず「がれき広域処理とその仕組みづくり」からはじまった。〈広域処理の遅れが復興を妨げているのか?〉「岩手11年分、宮城19年分」は嘘、と明確な答え。「地元処理のほうが復興につながる」との首長の見解がある。

日本は汚染循環型社会だとのこと。昭和電工は水銀を大気中に放出している。逃げ道を用意した規制だからだって。また汚泥の処理施設では汚染の先送りをしている。汚泥が掃除機のゴミ袋と同じ状態で、土壌汚染地域をどんどん作って汚染地帯を広げている。大阪市の護岸は潮の干満でぐらつき、汚濁物質は海へと続いている。護岸では防げない。

広域処理について、5月8日仙谷発言「県は産廃処理の経験がないから国が直轄で」が「全国的広域処理」の契機となった。「県の代行」による「地元処理」は大手ゼネコンへの丸投げである。仙台市だけが自区内処理で成功した。被災市町村が仙台方式を採っていればがれき利権は生じなかった。

○がれき利権と除染利権と帰還推進はセットになっている。

お話は90分あり、そのあと司会者の下地さんが加わって30分の質疑応答があった。質問に答えて、中国電力上関原発のときの経験を語られ「からだをはって止めることも必要」とおっしゃった言葉に感銘を受けた。

これから「がれき処理.除染これでいいのか」を読んで勉強する。
(熊本一規、辻芳徳 共著 緑風出版 1900円+税)

クミちゃんとクミさん

昨夜は映画「コントロール」を見てからブログ(酒井隆史「通天閣 新・日本資本主義発達史」読了)を書いたんだけど、映画の影響を横において大正時代の大阪に向き合うのがちょっとしんどかった。今日はその本を図書館へ返しに行った。返却日が近づくと慌てるのはよくないけど、暑くてしんどいときによく読んだわ(自画自賛-笑)。このあとはミステリが待っている。

今日の午後は東京から友人がきて久しぶりのおしゃべり。30年くらい前によく大阪で遊んだ子で、仲間からは同じ名前のクミコを彼女はクミちゃん、わたしはクミさんと呼ばれていた。10数年前に一度うちへ来てくれて数時間しゃべったことがあったが、ほんまに長いご無沙汰だった。今回はダンナ様もいっしょ。フランスの女優みたいなろうたけた美人な彼女。楽しげな年下のダンナさん(実はうちもだが-笑)。一人娘さんは高校生だけどカナダに留学中だそうだ。
心斎橋で会って2時間ほどしゃべった。ブログを読んでくれてるし、ツイッターでフォローしあっているからたいていのことは知りあっているんだけど、元気な顔を見るのはまた格別だ。VFC BBSの話まで出てきたのにはびっくり。あのときは苦労したけど、会員外のひとにも影響(?)を与えたと思うと苦労した甲斐があったかしら。
もう一人の遊び仲間メグちゃんもいたらよかったのにな。
変わらないといってくれたけど、いくら髪を染めてもそれはねぇ(笑)。ただ遊び好きが変わらないのは自信あり。楽しい午後を過ごさせてもらってうれしかった。

酒井隆史『通天閣 新・日本資本主義発達史』読了

ふうふういいながら734ページを読み終った。暑さの中を読むだけで大変やったなあというのが感想である。

最後に心に残ったところを引用する。
逸見直造は訴訟をよく起こす人で、しつこい乱れ打ちの訴訟を行っている。
【問われるのは、主要には法廷での勝ち負けではない。玉川しんめいは、逸見直造の好む表現として「裁判に負けても負けへん」というものをあげている。裁判は、みずからの介入する力のゲームの結節点の一つに過ぎず、たとえそこで負けたとしても、ゲーム全体では勝利していることもある。逸見直造が身をもって表現する哲学とはこれだ。】

借家人運動のしたたかさ。
【帰国後の長屋経営失敗の経験から、〈払えぬものは払わなくてよい〉という「店子の思想」を編み出した逸見直造は、水崎町の家を借りるや、即座に悪徳家主との闘争を開始した。その家は「借家戦試練の家」と名付けられる。まさに占拠という直接行動を通して、身をもって借家人の権利はかくあるもので、かくして克ちとらねばならぬことを示そうというのである。】
こういう逸見直造の〈アメリカ/大阪横断的急進プラグマティズム〉がすごい。

大阪でのデモについても詳しい。
1920年(大正9年)に行われた「大阪史上初の大型デモ」といわれた府選要求大行進のデモコースは、中之島公園を出発して長堀通りで西に折れ四ツ橋筋を北上して梅田阪神電車前へと進んで梅田新道を通って中之島公園にもどったとある。

日本労働総同盟大阪連合会の別働隊と自ら名乗る野武士組の活発な活動、そして女給同盟についても知らなかったので勉強になった。
【女性とサービス業との問題を労働運動において先駆的に提出した女給同盟であるが、道は険しかった。】と結んでいる。

知らなかったことがばんばん出てくる。そしてそれは歴史の勉強ではなく、いまのデモをどう考えるか、女性問題をどう考えるかに繋がってくる。
最後のほうで釜ヶ崎を描いた文学作品と映画の話がまた出てきて、そのどちらも知らないことが多い。それらをこれから読んだり見たりは時間がないから本書で読んで知ったことで満足しておこう。
(青土社 3600円+税)

酒井隆史『通天閣 新・日本資本主義発達史』図書館貸出三回目

最初に手にしたのが6月の終わりで感想は「読み出した」と「読書は佳境に入っているが」を書いた。それから最後まで読んだんだけど、落ち着いて感想を書けないまま、二度目を借りて、また三度目を借りた。今度はちゃんと感想を書いて返したい。

小野十三郎からはじまって、文学、映画、将棋などで具体的に大阪の資本主義発展の様子がわかるように導いてきた長い導入部だった。いまようやく第四章「無政府的新世界」に入り、最初のタイトルが「借家人同盟、あらわる」である。
【〈大正十年二月十四日中ノ島中央公會堂に於ケル住宅問題演説会ニ際シテ暴漢ニ襲撃サレタル逸見直造〉の写真がある。この写真はあえて傷ついたみずからの姿をさらすことで、暴力に屈しない姿勢をアピールしているのだ。】
写真を掲載しているのは「借家人の戦術—借家法と借地法」という小冊子。逸見直造という傑出した人物が大阪で活動し、来阪していた大杉栄とも行動をともにしていたという。
1918年(大正7年)に起こった米騒動は今宮町(釜ヶ崎付近)天王寺公園(天王寺公会堂)を発火点として燃え盛った。人々は公会堂を埋め尽くし聴衆はみずから弁士となって演説を繰り広げた。竹槍部隊があらわれて米屋に放火したり火消しのホースを日本刀で切断したとある。ほんまにこんなことが大阪であったんや。

逸見直造の次男の吉三(当時16歳)は大杉栄の米騒動時の行動について語っている。このように大杉栄は運動の中にいたのだが、運動史に現れるのはここからあとである。
【事実の詳細は謎である。しかし、次のことは確認できる。すでに大杉栄は、それが悪夢であれ幸福な夢であれ、騒然性の時代にあって、生きたまま夢みられる人であったということだ。】

次の章では逸見直造について詳しく書いてあって、その合理主義が母親の考えで小学校を出たらすぐにアメリカへ渡ったせいだとわかる。彼は1899年に渡米し各地を転々としさまざまな職業につき1908年に帰国した。

紹介など簡単にできるものではないが、一種の熱気を持って読んだことだけでも伝えられたらいいな。
(青土社 3600円+税)