うまいもの食ったら鼻水が治った

昨日は姉が住まなくなった家の寒い部屋で三つの大きな本箱ぎっしりの本を1冊ずつ点検してほしい本を抜き出した。肩は凝るし目は疲れるし。大きな紙袋にまとめたが、いまでも読めない本が積んであるのにどうなることやら。とりあえずは目にあった老眼鏡を新たに買って眼精疲労を少しでも減らすこと。

今朝は目が覚めたとき風邪をひきそうな予感がしたが、たれる鼻水をハンカチでぬぐいながら午後整形外科に行った。1ヶ月ぶりに行ったのに先生が機嫌よくいろいろ聞いてくれて賑やかに雑談した。

ずっと痛み止めをもらっていたのを「最近は飲まずにすませてます。少しは痛みますけどこのくらいなら大丈夫です」といって断った。いちばん軽い痛み止めだそうだが。『週刊現代』の薬の特集を読んで常用したらあかんなと思ったので。

晩ご飯にアジの塩焼き、ビンチョーマグロのカルパッチョを食べたら、鼻水がおさまった。単純だけど正直なからだ笑。

寒いから熱燗

ああ寒い。今夜の晩ご飯は外食で熱燗にマグロのお刺身でご機嫌さん。帰ってから、昨日見た映画『ビューティフル・デイ』をもう一度見た。ご飯はおいしく、映画はとても熱中できた。

午後から姪たちのお手伝いに元姉の家の片付けに行った。暖房を入れても古い日本家屋は寒い。おおかたの暖房器具は片付けてエアコンだけなので、カーディガンを借りて、スカーフをもらって、わたしは本棚の整理。といっても、本を点検してもらう本をまとめ、不要な本は最後に捨ててもらう。

お昼を食べておやつを食べて、もうひと仕事。押し入れから箱に入った木綿風呂敷がたくさん出てきた。ほとんど紺系統で台所の前掛けによさそう。

ホアキン・フェニックス主演『ビューティフル・デイ』

新しい映画が見たい。大作ではないやつが。そう思ってネット配信から見つけた映画だったが、気にいった。2017年製作、リン・ラムジー監督。失踪した少女の捜索で生計を立てている男が依頼を受けて調査をはじめると、依頼人が殺され娘はどこかへ連れていかれてしまう。めげずに調査を続けていくと殺されそうになり、自分の母親の死体と出会う。

暗い雰囲気で『セブン』を思い出した。孤独に彷徨う男の姿は『タクシー・ドライバー』を思い出させる。リアルな殺しや格闘場面があるけど、木々の葉が茂る山道の先の沼か湖の描写がよかった。

ホアキンは純な目の輝きがいい。最後に少女が「行きましょう」と声をかけるところがよかった。

おうちで、かっちんそば

もう書いてもいいころかも。というほどのことでもないが、もう1週間以上お酒を飲まずにご飯を食べている。相方は出かけたときにお店で飲むことにして家では飲まないと決めた。けっこう出かける(笑)。わたしはもともと飲まないのに飲み助の相手をして少し飲んでいたのをやめたので体調がよい。

今日のお昼は洋食で野菜と肉と卵を小皿に少しずつ盛って皿数が多い。それにスープとトースト、紅茶がついた。

午後わたしはベランダの洗濯物を取り入れて部屋干しして、次の洗濯物を干してとばたばた。相方が買い物して図書館へ寄るというので、読みたい本を頼んだ。ミシェル・フーコーのインタビュー『同性愛と生存の美学』。ネットで知った本だがわたし好みだ。読み終わって欲しくなったら新本はないらしいので中古本を買うつもり。

晩ごはんはかっちんそば。昆布とダシジャコたっぷりの出汁に蕎麦とお餅を入れて。おかずは、イワシ、海苔、かぼちゃ、唐辛子の天ぷら。ほうれん草の胡麻和え、漬物、番茶。

突然寒い

1週間くらい前の暖かい日が続いていたとき、天気予報が週末は猛烈に寒くなるといった。ふーん、そうなのって聞き流した。

そしたら友だちからのメール1号「こちらでは週末に雪マークがつきました。全く冷えていませんが。この急激な気温の変化が堪えますね。気をつけてお過ごしください!」とあった。その後にいただいたメールにも週末は寒くなるから気をつけてとみなさんいたわってくれている。

昨日はかなりの雨で歯医者に行くのに往復タクシーにした。家計がピンチだが雨の中をよろよろ歩くよりましだから。それでもそんなに寒くはなかった。今朝も寒いことは寒いがそれほどでもなかった。それが夕方になってぐっと寒くなり、いまは夜の11時前だけど、布巾を干しにベランダに出たら大寒くなっている。天気予報はほんまやったんだ。

天気予報を見たら大阪市の警報・注意報は「発表なし」となっている。寒いけど穏やかな夜であるらしい。はよう寝よ。

歯は自然のままに

こどものときは歯磨きしたのか覚えがない。山梨に疎開したときは歯ブラシを何本か持っていったが、それがすり減ったあとは代わりがなかった。そんなことで歯磨きをたいしてしないのに歯がいままでもったのは戦中戦後の成長期に甘いものを食べなかったせいだろう。

「8020(ハチマルニイマル)運動」というのがあって、80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」という運動だとのこと。

わたしはめでたく80歳を迎えたとき全部自分の歯だった。あちこち虫歯の治療はしてあるが、全部が自分の歯といえてうれしかった。それから3年、3ヶ月ごとに歯医者さんから案内がきて、歯を清潔にしてもらう。悪いとことがあれば治療してもらっていた。

3年ほど前に一度御堂筋で転んで前歯が欠けて入れ歯になったが、それ以外は自分の歯である。今日は悪い歯を治してもらいに行ったのだが、病気がずいぶん進行していて治してもしょうがない状態だという。その他にも同じようなところがあり、もう治療が効かないそうだ。ほおっておいて自分から抜けるの待ちだって。

そこまで院長先生の見立てだが、そのあと歯を清潔にしましょうと歯科衛生士さんに変わった。彼女が「8020(ハチマルニイマル)運動」を知っているでしょうね。と聞いて、「すぎやさんはそれを通り越しているじゃないですか」という。確かに目の前にはコンピュータ画面に、わたしの名前と年齢があって、口中の写真がある。「話していると、30代の人かと思いますけど」というので、それはなんぼなんでも褒めすぎやわといって笑った。自前の歯で話すと若い声に聞こえるんだって。

あとはもう、自然のままに。

スクワットやるで

まだ膝の具合がよくならない。そもそもは四つ橋筋を渡るときに信号が変わりそうなので走ろうとしたら右足がぐきっとなった。30年も前のはなしである。なにもなかったように歩いたり走ったりしようとしたが、どうも具合が悪い。それ以来、鍼治療に通い、整骨院に通い、いまは整形外科にもお世話になっている。

 

体操だっていろいろ本を読んでやってみた。水中ウォーキングもけっこう通った。水中は冷えるからかえって悪くなったのかもといまごろ反省している。

そして、去年の暮れに気がついたのは脊柱管狭窄症であるということだった。治ったという義弟に聞いたら、歩けるようになったという返事。わたしはまだすたすたと歩けない。よろよろである。毎日ストレッチをやって回復を待っているが、いつまで待ったらいいのかな。

そのいらいら気分に相方からスクワットで太ももを強化したらどうだと提案あり。知り合いで膝の悪かった人がジムで大腿筋を鍛えたおかげで膝が治ってとても元気だそうだ。

昨夜、こうやるんだと指導されたが、20回なんてとても無理でそこそこで切り上げた。今日はつるかめ整体院で昨日やったようにスクワットをやってみせたら、初心者にはそれはしんどいからと、初心者向けのやり方を教えてくれた。これをちょいちょい家でやることにする。

ご馳走は鶏と兎(わたしの戦争体験記 31)

学校で兎を飼いはじめた。校舎の横に50センチくらいに区切った檻が作られ、生徒たちは餌にする草を順番に持っていくようにいわれて朝の登校時に抜いた草の束を兎の檻に放り込む。いろんな草が放り込まれたが、わたしは兎が喜んで食べるチチグサを選んで摘んでいった。細い茎を折るとミルクのような白い液が出る。ある日上級生に「毎日チチグサ持ってくるのはくみこさんけ」と聞かれた。「そうづら」とこの頃は山梨弁で返事したなあ。あの兎たちはどうなったろう。学校の先生たちが食べたのかもな。

叔母さんの家では飼ってなかったが、裏に住むいとこの家では兎と鶏を飼っていた。

ある日、息子に召集令状が届いて戦争に行くことになった。明日の朝は出征という日は「今日はご馳走だぞ、鶏を一羽絞めるから」とそこの父親がいって、鶏一羽を使った汁の大鍋が供された。わたしも丼一杯食べさせてもらった。

鳥鍋を食べ、そこの息子はみんなが寄せ書きした日の丸の旗を鉢巻にして、数人の村人に送られてどこかに出征していった。そのころは田舎の侘しい出征風景が男子のいる家で見られたが、いつのまにか成人男子が村にいなくなった。

次の年の正月は兎の汁がご馳走だった。わたしが採ってきて食べさせたチチグサを食べた兎の汁だからうまかったよ。叔父さんたちは兎の締め方の自慢話をしていたっけ。可哀想とか思うよりも腹が減っていたからうまかった。

家族を乞食と間違えた(わたしの戦争体験記 30)

第二次大戦がはじまったのは1941年12月でわたしは1年生、4年で疎開して1945年(昭和20年)5年の夏が敗戦だった。5年生になって田舎暮らしにも慣れたころ、道で遊んでいると、向こうの方から数人の人間が歩いてくる。「乞食・・」と一声出したら、「違う違う、被災者だ、誰かな」と大人がいった。なんと、その乞食まがいはわたしの母と姉と弟と妹だった。汚れた衣服で顔も真っ黒というか戦災汚れの上に列車の汚れで乞食以下の状況だった。

その日から母なき子だったわたしは母も弟妹もいる子になった。姉は食糧を背中に背負って大阪に逆戻りした。そのとき、わたしが漏らした言葉が大阪の家族全員に伝えられた。「家が焼けてよかった」っていったんだって。家が焼けて母と小さいのが助かって田舎に来たから、わたしは親なき子にならずにすんでほっとしたんだ。

3月14日のアメリカ空軍の攻撃で西区新町の我が家は焼き払われ、父親は焼夷弾の断片が足にあたって怪我をした。

なんとか命は助かって郊外へ逃げ、父の勤務する会社の社員寮の一間に在阪者全員揃ったときはほっとした。その後は母とこども3人がまる1年山梨県に住み、大阪からの迎えを待つことになったが、敗戦を迎えても迎えは来ず大阪になかなか帰れなかった。結局帰れたのは敗戦一年後の翌年の夏だった。そして長い貧乏生活が続く。

夜なべに渋柿の皮むき(わたしの戦争体験記 29)

山梨の家の庭には渋柿の木が何本かあった。渋いから採ったらいけない、柿の枝はもろいから柿の木に登ってはいけないと叔父さんがきつくいっていたので、きれいな実だなと思いつつ眺めていた。夕日があたるとすごくきれいで見飽きない。

寒くなった頃から夜なべ仕事で柿の皮むきがはじまった。これは叔父さんだけしかできない仕事だった。左手に持った柿を右手の包丁で剥いていく。右手の包丁よりも左手の柿が動いていた。その速さ、確実さ、そして安全さに驚いて見入っていた。やってみるかといわれて首を横に振った。「手を切るだけづら」

剥いた柿は叔母さんの手で縄に美しくさげられ、二階の窓からずらりときれいに吊り下げられた。秋の風物詩という感じですごく美しい。この広い窓は柿をぶら下げるためにあるのかと納得した。

寒くなると柿は甘~い「ころ柿」になって仕入れにきた商人に売られ、農家の現金収入となったのだろう。ちょっと傷が入ったのとかをくれたので食べたがほんまにうまかったあ。