家族を乞食と間違えた(わたしの戦争体験記 30)

第二次大戦がはじまったのは1941年12月でわたしは1年生、4年で疎開して1945年(昭和20年)5年の夏が敗戦だった。5年生になって田舎暮らしにも慣れたころ、道で遊んでいると、向こうの方から数人の人間が歩いてくる。「乞食・・」と一声出したら、「違う違う、被災者だ、誰かな」と大人がいった。なんと、その乞食まがいはわたしの母と姉と弟と妹だった。汚れた衣服で顔も真っ黒というか戦災汚れの上に列車の汚れで乞食以下の状況だった。

その日から母なき子だったわたしは母も弟妹もいる子になった。姉は食糧を背中に背負って大阪に逆戻りした。そのとき、わたしが漏らした言葉が大阪の家族全員に伝えられた。「家が焼けてよかった」っていったんだって。家が焼けて母と小さいのが助かって田舎に来たから、わたしは親なき子にならずにすんでほっとしたんだ。

3月14日のアメリカ空軍の攻撃で西区新町の我が家は焼き払われ、父親は焼夷弾の断片が足にあたって怪我をした。

なんとか命は助かって郊外へ逃げ、父の勤務する会社の社員寮の一間に在阪者全員揃ったときはほっとした。その後は母とこども3人がまる1年山梨県に住み、大阪からの迎えを待つことになったが、敗戦を迎えても迎えは来ず大阪になかなか帰れなかった。結局帰れたのは敗戦一年後の翌年の夏だった。そして長い貧乏生活が続く。

夜なべに渋柿の皮むき(わたしの戦争体験記 29)

山梨の家の庭には渋柿の木が何本かあった。渋いから採ったらいけない、柿の枝はもろいから柿の木に登ってはいけないと叔父さんがきつくいっていたので、きれいな実だなと思いつつ眺めていた。夕日があたるとすごくきれいで見飽きない。

寒くなった頃から夜なべ仕事で柿の皮むきがはじまった。これは叔父さんだけしかできない仕事だった。左手に持った柿を右手の包丁で剥いていく。右手の包丁よりも左手の柿が動いていた。その速さ、確実さ、そして安全さに驚いて見入っていた。やってみるかといわれて首を横に振った。「手を切るだけづら」

剥いた柿は叔母さんの手で縄に美しくさげられ、二階の窓からずらりときれいに吊り下げられた。秋の風物詩という感じですごく美しい。この広い窓は柿をぶら下げるためにあるのかと納得した。

寒くなると柿は甘~い「ころ柿」になって仕入れにきた商人に売られ、農家の現金収入となったのだろう。ちょっと傷が入ったのとかをくれたので食べたがほんまにうまかったあ。

今月もヴィク・ファン・クラブの会報出せた

ヴィク・ファン・クラブの会報作りをぼやきながらも仕上げて郵送するのを毎月続けている。創刊以来何年経ったか調べようと思いつつ、まあいいか出してるんやからと自分を慰めている。20年はとうに過ぎ、30年近く経っているはず。

今日できあがったのは2018年11月号である。先月も月が変わってからようやく出した。

来月号(実は今月号だ!)は表紙用にクリスマスのイラストが届いているので、25日には出したいと思っている。がんばるぜ。実は会報はわたしの生きがいでもあるのだ。

冬至にはまだ早いがゆず湯

いつもくる無農薬野菜の農家の人が「ゆず湯しいや」とゆずを2個手渡してくれた。先週までは柿やったが、季節はめぐっているんやな。

10月11月は野菜を買うと、家の庭で実ったらしい柿を2個くらいずつ袋に入れておまけにくれていた。不揃いだがおいしいので喜んでもらってくる。熟柿のうまいことったらない。

今日はゆずか~柿は終わったんや、さびしいな。

もらうのは木ノ実だけでなくて、手作りのお菓子やパンもある。我が家の食事は夫の手作りだが、おやつは買ったものを食べているので、ありがたくちょうだいしている。

さて、今夜はゆず湯に入ろう。冬至にはまだひと月ほどあるが、夜は冷えるのでゆず湯で暖まろう。

大菩薩峠で弟が迷子になった(わたしの戦争体験記 28)

山梨県へわたしを疎開さすために同行した母は、わたしと弟を連れてもう一人の叔母(三女)の家に挨拶に行った。先日書いた恵林寺へ行く途中で道をそれた村だったと思うが、母としては大いに奮発して自動車を雇い、塩山経由で妹の嫁いでいる村へ行った。乗るときも降りるときも自動車が珍しくて村の子たちが群がって見にきた。

叔母と叔父に挨拶してわたしは行儀よくしていたが、いたずら盛りの弟はじっとしていられず、一人で庭から村の方に出て行った。村の子はびっくりだろう。よそ行きを着た小さな男の子ひとりがふらふら歩いている。集団で弟をつけて歩き、弟は上へ上へと逃げたらしい。かなり高いところまで登って行った。家中が大騒ぎになり、近所の人たちも一緒に探し始めたが、なかなか見つからない。追っていった子供らに聞き出して山の途中で大声で泣いている弟を見つけた。

あの山は大菩薩峠だとそのときおじさんがいったのを信じ込んでいまにいたる。半ズボンの可愛い都会の子だったが、村の子には天狗の子に見えたって。

中里介山の『大菩薩峠』は3冊目くらいまで読んで中断したまま。第1巻だけを何度も読んだ。映画は市川雷蔵のを深夜テレビで見て、その後はビデオを借りて何度も見た。

我が家の事件のことは記憶が薄れていたが、連合赤軍事件の大菩薩峠での騒ぎで思い出した。それ以来、叔父の言葉がウソかホントか突き止めたいと思っているがもう聞けない。肝心の弟ももうこの世にいない。

めっちゃおもしろかった『オーシャンズ8』

『オーシャンズ8」をうちのパソコンで見た。目下のところまだ足が回復してなくて映画館に行かない、んじゃなくて行けないんだからしょうがない。うちの27インチのiMac バージョン10,14で十分楽しめた。

製作がスティーブン・ソダーバーグとジョージ・クルーニー。監督・脚本がゲイリー・ロス。サンドラ・ブロックとケイト・ブランシェットほか美と演技力の競演でおもしろくてふらふらした。もう一回か二回見たい。

久しぶりの歯科医院、今夜はキムチ鍋

先日ご飯を食べていたら、奥歯の上の歯から歯の破片がとれた。と思ったが、歯の詰め物がとれたのだった。さっそく歯医者さんに予約して今日行った。

とれたのはずっと昔治療した歯の詰め物で、いまの歯医者さんは「ぼくではなくて、もっと昔に治療した歯だ」といって、「そこに薬の入った◯◯を詰めましょう」となにやら詰めてくれた。わたしの年齢だととりあえずいま使えるようにしたらいいということだろう。いつまで生きているかわからんもんね。

それ以外にもあちこち傷んでいるそうで、当分は歯医者通いする。

昨日イワシを買った後でキムチ売り場に行ったら、お店の人が「今夜はキムチ鍋するんやね。これ持って行きなはれ」とキムチの漬け汁をひと鍋分ポリ袋に入れてくれた。男性が買いものに行くとモテる。それで今夜はキムチ鍋。うまかったってなんて。

鍋に漬け汁を満たし、もちろんキムチも入れ豚の三枚肉を入れてぐつぐつ煮て、あとはもやし、えのき、ねぎ、小松菜、豆腐など。うまーっ、今日は酒なしでお茶を湯呑みで飲みながら。(※相方は食後にアメ村方面へ出かけてそこに酒あり)野菜と肉が片付いてから、うどんとお餅を入れて最後に汁も飲んで、キムチ鍋完食。

恵林寺へお参り(わたしの戦争体験記 27)

ある日曜日の朝、近所のK子と遊んでいると上級生がついてこいといった。これから「えりんじ」へ行くからしっかり歩けとのことで、モンペにゲタばきだったがついていった。遊びに行くからって着替える服はないし、靴はないし。

いま地図を見たら、山梨県甲州市塩山小屋敷2280恵林寺とある。そこまで後屋敷村(いまは山梨市)から歩いていったのだが、地図を見たら記憶にあるほど遠くない。実はそんなに大変なことではなかったのかもしれない。5・6年生はうんと大人でみんなを引き連れて歩いていた。

野道といってもけっこう立派な道だったが、覚えているのは道の両側が畑で、わたしらは腕を組んだりして歌謡曲をうたいながら歩いていた。

青々とした野菜畑や道端にタンポポやレンゲの花が咲いていたから春だったんだろう。つまらんことを覚えているもので『野崎参り』の歌がぴったりだと思ったっけ。

やがて立派なお寺に到着し、引率者が寺の由来など教えてくれた。

恵林寺サイトの「恵林寺の歴史」には「4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。」と書かれているが、その通りの説明であった。甲州人の心に刻まれている言葉なのだろう。のちにおばあちゃんから聞いたし、母も話していた。

引率者は自分より年下の者に甲州魂を伝えたかったのだろう。

帰りはただうらうらとした春の日の野道を歌いながら歩いていた記憶のみが残っている。鳥の鳴き声も。

ちょこっとなにか食べたいとき

可愛い缶に入ったお菓子をもらうとうれしい。中身を食べ終わったら、小袋に入ったクッキーなんかを買ってきて入れておく。お菓子が入った缶が並んでいると豊かな気分になる。お茶やコーヒーを淹れて缶からお菓子をとり出して食べる。それを称して「小さな喜び」という。笑

姉の見舞いには、舶来マヨネーズの空き瓶にクッキーを入れて持っていった。ジャムの瓶とかきれいな瓶は洗っておくと便利。近所の専門店で量り売りの紅茶を買ってきて瓶に入れておいて使う。いろんな種類の紅茶が小さな瓶に入って並んでいると豊かな気分がする。

机の引き出しに、ゼムピンや画鋲を入れた小瓶を何個か入れてある。小瓶、小箱、可愛らしいものが好き。

丸顔に憂いすくなし

今日の午後は相方が堀江マルシェに買い物に行った。わたしは家でストレッチと膝裏体操などぼちぼち。

堀江ではベースでお菓子を買ったほか、野菜や果物をたくさん手に入れてご機嫌さんである。すぐにコーヒーを淹れてお菓子を食べ、それから柿をむいて食べた。どちらもうまかった。

堀江ではあちこちのお店で食べたり話したりして楽しかったそうだ。ジョローナでは30~40代くらいの女性がたくさんいて「スギヤさんの奥さんはどんな人?」と聞かれたとか。わたしは今年になってから社交生活ゼロだから知らない人が増えている。「12歳年上だけど、丸顔で若く見えるからずっとおないどしで通してきた。最近はブログやフェイスブックで年齢を書いているよ」と答えたそうだ。

「丸顔に憂いすくなし」は夏目漱石『虞美人草』で糸子さんのことをいっていたと思い出した。実はわたしも若い時からそういわれてた。憂いはたくさんあるが丸顔ゆえにないように見えるだけだ。