天気が良いから

連休前半は雨の日が多くて湿っぽかったが、後半になったら良い天気に恵まれている。家事日和だ。どこにも行かないし、誰もこないし、電話もないし、好きなようにおやつ食べたり片付けしたりネット三昧したりで楽しい日々。同居人は出かける楽しさを満喫しているが、わたしは在宅の楽しさ満喫(笑)。

洗濯がいくらでもできるのがありがたい。空気が乾燥しているところへお日さんがよく照るのでよく乾く。狭いベランダだから乾いたら取り入れ、また次ぎを干す。
冬に使ったものをなんでも洗っておく。ひざ掛け毛布や肩掛けもみんな清潔になった。椅子においてあった座布団は捨てて新しく買ってきてある。薄いスカーフは梅雨になったら使うからこれからが出番だ。

読みかけ本を読み上げてしまおうと思うが、これが何冊もあってややこしい。感想を書こうと思うと最初から読み直さないといけないので、早くもめげそうになっている。

国民服と国防色(わたしの戦争体験記 56)

日本大百科全書の解説によると、「日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装」とある。我が家も兄たちの学校行きの服や、父親の通勤服が国民服になっていった。(まだ疎開前のこと)兄たちは国民服を着て肩掛けカバンをかけ、ズボンの上からふくらはぎにゲートルを巻いた。上の兄はコツがあるらしくうまく巻いていたが、下の兄が下手くそで毎朝かんしゃくを起こしていたっけ。

女子はブラウスやセーターにモンペだったが、大阪の学校に通っていたときはまだスカートだったような気がする。おしゃれで裕福な子からモンペ姿になっていった。わたしは夏に山梨県に疎開したときはスカートだったがその秋からモンペになった。最初はピンク色の入った絣のモンペがうれしかったけど、おばさんが洗濯をしてくれなかったからピンクが汚れて見苦しかった。

国民の着るものが国防色という気持ち悪い色に統一されてしまい、ネクタイなんてすっかり忘れられた。布地がスフというのがさっきアタマの中から出てきた。スフという言葉をよく覚えていたもんだ。スフでできた衣類は洗濯するとごわついた。着ても暖かくなかった。母親は古着かスフか家族の着るものに困っていた。それよりも食べるものがなくて困ったから着るものは第二第三の問題だったかも。
おしゃれな甲府の叔父さんも田舎の道で会ったとき国民服だった。さすがにアイロンのかかったのを着ていたが一回り大きくて哀れな感じがした。

つくしだれの子

今日ちょっと驚いたこと。
40歳過ぎの男性なんだけど、ひと月ほど前にしゃべったときのこと。家の近所につくしがいっぱい生えているのを見つけたそうだ。そのつくしと思われるものの説明を聞いてわたしはそれはきっと「つくし」やで、近所につくしが生えてる場所があるっていいねと答えた。ついでにつくしの食べ方も。

今日はその「つくし」がなくなって、つくしがあったところに緑の筋のようなものが生えているという。おかしくなって「それスギナや、ツクシがスギナになるねん」と答えて、「つくしだれの子 すぎなの子 土手の土そっとあげて つくしの坊やが顔出した いうねんで」といった。これ歌かな? 一年生の教科書の本文にのっていたのかな。

つくしをおひたしにして食べたいな。あまりうまくはないけど、春の香りがするよね。

乙女椿

わたしは春の花では椿が好きで、なかでも乙女椿が大好きなので、道を歩いていてよそのおうちの玄関の前にある鉢に乙女椿が植えてあると大喜びする。この近所の道で見かける乙女椿を把握していて毎年花を見るのを楽しみにしていた。

今年はあまり出歩いていないのでちょっとさびしい。しかも椿を忘れていて、先日見かけたときは「忘れててゴメン」と口の中でいって、ゆっくり鑑賞させてもらった。毎年植木鉢に椿を咲かさせてくださってありがとう。

姉の家には藪椿が3本と侘助椿が1本あって、12月に入るとワビスケが咲き始めて1月いっぱい咲いていた。藪椿は早春から4月にかけて咲いていたっけ。植えている場所が庭の片隅の物入れの横なので他の好みの木より差別されてるみたいだった。椿の木は夏には虫がついてナンギだった。わたしは虫を殺すのはゴメンこうむったから姉は仕方なしに帽子をかぶりマスクをしてクスリを枝に撒いていた。
椿の落花を拾うのはいやな仕事だった。姉も最後の年は「見んとこ」といって障子を閉めて椿の木を部屋から見ないことにしていた。

3月末で借家だった家を返したので、植木たちはどうなっていることやら。床下にはイタチが住んでいたがどうしているやら。

春はコゴミ

1ヶ月ほど前のこと。近郊野菜を持ってくる八百屋さんの荷にコゴミがあった。買って帰ったのを一目見て「あっ、コゴミ!」と叫んだら「なんや知ってるのか」って。食べたことはなくて図鑑で知っていただけだけど(笑)。

料理の本を見たら和洋の料理で食べられる。これうまそうとオリーブオイルでさっと炒めてレモンをふって洋皿に並べたら見た目も良くワインのおかずにうまかった。カタチがユーモラスなので、カタチのままお皿にのせると楽しい。マヨネーズをちょっとつけたり。

だけどいちばんうまいのは厚揚げと炊いたやつと今日も食べて確認した。やっぱり昔から代々伝わった食べ方があっている。出汁をちゃんととるのがコツというか基本だ。この1ヶ月はコゴミで春を感じていた。

脊柱管狭窄症をストレッチで

去年の正月に自分が脊柱管狭窄症になっていることをを義弟の言葉と酒井先生の本『脊柱管狭窄症は99%完治する』で知った。義弟に電話したとき、半年で治ったというので「なんで治ったのがわかるの?」と聞いたら「歩けるようになった!」との返事で「なるほど〜」だった。
そのときは半年か〜、そんならやれるわと思っていたのだが、わたしの場合は半年ですまなんだ。整骨院の先生に聞いたら男性は筋力がある人が多いとのことで、特にわたしのように筋力が弱い人はなかなかじゃないかなって。ということでストレッチを続けるしかない。先日『わかさ』を買って勉強したので理解は深まったがそれで治るかというと自信がない。ストレッチのやり方が増えたので、頑張るしかない。

脊柱管狭窄症は背骨の脊柱管が狭まって、歩くと痛みが出る病気である。トシをとると脊柱管が自然に狭まる人が多くいるそうだ。本にある症状の説明を読むと、わたしは純粋な脊柱管狭窄症である。
間欠性跛行(かんけつせいはこう)が特徴で、歩いているときにだんだん歩けなくなり、5分ほど休憩したらまた歩けるようになるが、歩き出すとまた歩けなくなる。

毎日3回脊柱管を広げるためにストレッチをしているわけだが、毎日やっても効果が現れないと情けなくなる。内臓はよくなっている気分があるけど。
それでも本と健康雑誌を読むととても追い風が吹いている感じで希望が湧く。

灯火管制(わたしの戦争体験記 55)

わたしは4年生の夏に疎開してしまったので、翌年の大阪大空襲のときは山梨県にいて空襲の恐ろしさを体験していない。次兄は山梨県だが甲府市の叔父の家にいて二度空襲にあい、二度とも命からがら逃げている。わたしは後屋敷村にいて甲府方面の空が真っ赤になっているのを見ていた。翌朝、兄が黒焦げの自転車を引きずってやってきた。それから兄はどうしたのかしら。叔父のところにもう一度お世話になったか、さきに大阪へ帰ってたのか。今度あったら聞いてみよう。わたしは疎開したので、空襲後の大阪の状況がわからずじまいなのが残念だ。戦後何十年も経ってから各区の戦災を語る会などに行って当時の状況を体験者に聞いた。西区は3月に暗い時間にやられたが、ちょっと北のほうは真昼間に機銃掃射されたことなどそのとき始めて知った。聞いておかないと当時のことを知っている人たちが亡くなってしまう。

戦中のことをいま思い出そうとしているがあんまり出てこない。灯火管制という言葉がいま出てきた。灯火管制がしかれたのは3年生のときだったかな。玄関の戸をぴったりと閉め、灯りは茶の間だけで、コードをさげた電気の傘の上から黒い布を被せた。灯りは黒い布の下だけにとどいていた。家族全員が火鉢に手をかざしながら小声で話していた。外から隣組長が点検して明かりがもれていると怒られる。本を読もうとして明かりを取り合いきょうだいゲンカが勃発する。
息を殺すようにして父が話し出す。幼い時から浅草の仲見世で働いた話がおもしろかったが、本人はすごい苦労をしたといってた。お金の苦労をたくさんしたが、遊びもしたみたいで、いろんなことを話してくれた。アメリカ映画が好きで、『駅馬車』『暗黒街の顔役』はストーリーを最初から何度でも聞いたので耳にタコができた。映画は戦後だいぶ経ってから見ることができたが、父の言葉をまともに信じていたからがっかりした(笑)。

灯火管制のなかで映画と探偵小説とジャズとアメリカ文化への憧れを語る父と、日本帝国の勝利を信じている兄と軋轢があったのか、当時のわたしは知らなかった。ただ、真面目な兄をからかう父がいたのをよく覚えている。

今夜は親子丼

ちょっと前に麻婆豆腐を思い出して食べたくなり、つくってもらって食べたらとてもうまかった。レシピを見ながらきちんとつくるからね。わたしがするとつくり方を思い出せなかったりして、テキトーにやるから、おいしいときもあるけど、うまいといえないときもある。それに料理担当が変わったいまは、わたしがつくるというのは架空の話である。

お茶を飲みながら「次は親子丼やな」となって、今夜は親子丼。その一品にプラスなにをするかが問題で、あまたある料理本で研究してた(笑)。
親子丼、味噌汁、野菜のおかず、漬物、〆は番茶と駄菓子。その前に昨日までは酒の肴があったが、今日から当分お酒を休むそうなので酒の肴は不要となった。そのぶん、野菜のおかずが増えていた。

いつのまにか脊柱管狭窄症になっていた

おとといは姉の家からの帰りからはじまった脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)のことを書いた。
今日はそこにいたるまでを思い出しつつ書いておく。
去年(2018)の暮れから姉は有料老人ホームに入居して生活全般を世話してもらっているが、それまでは古い借家で一人暮らししていた。夫が亡くなってちょうど10年を毎週1日は日をずらして姪たちとわたしが行き、その他、週に2日のデイサービス、週に2日掃除に来てくれるヘルパーさん、なにかと声をかけてくれる隣人や民生委員さんがいて、電池の入れ替えまでやってくれる電気屋さんもいて、近所のローソンも利用してとてもうまく暮らしていた。古くからの人情プラス最新の福祉環境。

義兄が病気になる前はわたしと姉は不仲でつきあっていなかったが、アルツハイマーの義兄の様子を聞いて手伝いに行くようにした。そして姉の孤独を見て週に一度姉の家を訪問することにした。その上に毎日電話でしゃべる。電話がかかるときに不在だとややこしいので、姉はいつでも在宅だからこちらからかけるようにした。それでも時間が遅れるとかかってくる。それを10年。

姉の家は地下鉄御堂筋線の東三国にあった。地下鉄と歩きで1時間以上。最初の頃は黙々と通っていたが、こちらも年をとってしんどいし、行きの買い物が重いので行く時だけ西中島駅からタクシーに乗って1000円。これで何年かやって、次は梅田で買い物してタクシーで2500円。そのうち帰りは新大阪へタクシーで800円。新大阪から地下鉄。行き始めてから7〜8年経っている。新大阪の新幹線乗り場で降りて、お店をのぞいてから帰るのが習慣になった。本屋さん、小物屋さん、ドーナツ屋さん、ユニクロなど。
そのうち、午前のタクシープラス地下鉄がしんどくなって、家の近所の高級スーパーで買い物して直接タクシーで行き、帰りは姉の家から何度か乗って知り合った運転手さんに電話して乗せてもらうようになった。タクシー代往復7000円は支給。帰りは堀江へ寄ったり梅田でぶらぶらしたり。

最初に異常に気がついたのは、義弟の言葉から脊柱管狭窄症に違いないと確信し、間欠性跛行(かんけつせいはこう)という言葉を知りこのことを振り返ったときだ。
新大阪の商店街からエスカレーターで降りてちょっと歩くと地下鉄乗り場がある。いつのまにかそのちょっと歩くのがしんどくなった。普通に歩いているつもりなのに、みんなに追い抜かれる。あれ、なんでや〜 地下鉄ホームに出てベンチに座るとしんどいのが治る。1台おきの新大阪駅発に乗って心斎橋へ。降りてから乗り換えまで歩くのが一仕事。エスカレーターのところにあるベンチに座って一息つく。立ち上がったら元気。で、また歩いて疲れ、乗り換えた電車に座って元気に。
いまになって以上のように整理して考えたら、この症状は脊柱管狭窄症患者の典型的な間欠性跛行だ。
おととしの秋はこうして去っていき、寒くなってから倒れたんだけど、ずっと前兆があったのだ。

湿気が苦手、アルコールも少々苦手

湿度が高い日は膝が痛むので苦手だ。昨日は整形外科に行ってヒアルロン酸の注射をしてもらった。それで膝の調子が良くなったのかわからん。頼みのヒアルロン酸だが、膝痛の人みんなに効いているのだろうか。痛い注射を我慢しているんだから効いてほしいな。今日からっと晴れていたら効いているのが実感できたかもね。

とにかく今日は体感で湿度が高い。湿度計に用はないよというておこう。こんな日は膝が痛くて当たり前だと諦めている。午前中はまあまあ。午後もそつなく過ごしたが、晩ご飯を食べてからしんどくなってきた。いまは台所の片付けを最後までせずにさぼっている。痛みがましになったら台所へ復帰するつもり。しかし、なんでこんなにしんどいのかしら。
あっ、そうだ、アルコールだ。焼酎のソーダ割りを晩ご飯のとき少々飲んだっけ。このせいだとするとなんか情けないな。

以上を書いてから台所へ行って片付けをすませてきた。立っていると膝はまだ痛いんでいやになる。気持ちよく晴れる日を待つしかないか。