レジナルド・ヒル『ベウラの頂』を繰り返し読んでいる

この夏、レジナルド・ヒルの「ベウラの頂」を繰り返し読んでいる。
いまもっとも好きな作家レジナルド・ヒル。訳されたものはほとんど持っていて繰り返し読んでいる。後期の作品が特に好き。
20年くらい前のことだが、英国の作家3人を招いてブリティッシュ・カウンシル主催の講演会が京都であった。わたしはその3人の作品を読んだことがなかったんだけど、おもしろそうに思えて講演会に行ってみた。
とても楽しい勉強になった講演会だったが、講演者の一人がレジナルド・ヒルだった。よく覚えているのは質問タイムにひとりの女性が「わたしはエリーが好きです」と言ったこと。にっこりと笑って答えたヒルさん。むむ・・・
わたしはエリーもパスコーも知らず、帰りに売っていた本を買ってサインをしてもらった。その後、友だちに借りて何冊か読んだのだがもひとつのめり込めなかった。それから長らく読まなかったが、図書館で借りて読んだ数冊でファンになり、新作が出たら買うようになった。それでも目についたら買うくらいだった。ジュンク堂へ行ったときにこれまだ読んでないと買うこともあった。そうこうするうちにだんだんのめり込んで行き、図書館で読んだ本も買っていった。ダルジール警視シリーズは前期の2冊だけ訳されていない。

どれもこれも好きだが、「武器と女たち」がいちばん好きなときがあり、いまは「ベウラの頂」がいちばん好きだ。
15年前に3人の少女が行方不明になっていまだにそのままである。ダルジール警視の心の傷は癒されないままに月日が経っていった。そして、また、金髪の少女がひとり行方不明になった。
パスコー主任警部は15年前にはここにいなかったが、今回の事件と同じ歩みで娘のロージーが大病にかかる。ウィールド部長刑事は今回の事件では少女の遺体を発見する。あのときと同じ状況だった。あのときの少女たちの隠された遺体はどこにあったのか。

一人だけ逃げて助かった少女ベッツィは行方不明の少女の両親にもらわれて、エリザベスと名を変えなに不自由なく育つ。行方不明の少女のように金髪になりたくて黒髪を漂白しようとして失敗するが、髪はかつらをかぶり、肉体をしぼって美しい姿になり、将来を期待されるクラシック歌手である。

ダルジール、パスコー、ウィールドに加えて若き女性刑事シャーリー・ノヴェロが活躍する。

パスコーは病院の娘のベッドに付き添いながら事件について考える。そして疲れた体にむち打って事件の解明に出かけようとして、エリーにこう言う。
【「ぼくは頭のなかで一度、彼女(※娘のロージのこと)を亡くした。そして、これまでたびたび目にしていたけど、その心の裡を本当に汲むことはできなかったことが理解できるようになったんだ。ああいう子供を亡くした気の毒な人たちが、なぜあんなにやたら興奮して抗議デモをしたり、圧力団体を結成したり、請願をしたり、その他あらゆることをやるのか。それは断じてうやむやにはできないからだ。理由や責任を問わずにはいられないからだ。いわれや因縁、いつ、どうやって、誰が、ということを知らずにはいられないからだ。(中略)彼らに残されているのは知るということだけだ。ぼくがこの段階で言っているのは正義でも報復でもない。ただ単に知るということだけだ(後略)」】

最後の中部ヨークシャー渓谷夏期音楽祭のシーンが圧巻。
ここから出発しようとするエリザベスはマーラーの〈亡き子を偲ぶ歌〉を圧倒的な存在感の英語で歌い上げ、聴衆の感動を誘う。15年前に行方不明になった子供を持つ3組の両親が来ている。エリザベスはこの歌を歌うことで事件に終止符を打ったつもりだった。

だが、ダルジールは彼女を帰らせない。ダルジールとパスコーにはエリザベスに聞くことがある。
【二人は長年一緒に仕事してきたので、縄張りを区分するかすかな境界線ができていた。ダルジールの言葉を借りれば、「おれはきんたまを蹴り上げるから、きみはせっせと心理学のご託を並べろ」というわけだった。】
(秋津知子訳 ハヤカワポケットミステリ 1800円+税)