吉田喜重監督「嵐が丘」を再び見て

さっきまで吉田喜重監督の「嵐が丘」(1988)を熱中して見ていた。二度目だったから検索したら2011年のお盆休みに見て感想を書いていた。わたしとしては熱狂が不足している(笑)。それまでに吉田監督の映画は2本しか見てなくて「これからできるだけ追いかけたい」と最後に書いているが、口だけだった。すみません。(「秋津温泉」(1962)と「エロス+虐殺」(1969)は封切りで見ていたのだけれど。)

今回は最近何度も書いているけど、「ユリイカ」高峰秀子特集のインタビューで吉田喜重すごいと思い、パートナーの岡田茉莉子さんの自伝を読み、著書の「小津安二郎の反映画」を読み、ユリイカの吉田喜重特集を読んでいる最中である。
突然、炎のごとくに吉田喜重熱が高まっていて、映画のほうはDVDで「水で書かれた物語」、「鏡の女たち」、「エロス+虐殺」を見た。つぎは「嵐が丘」をもう一度見ようと決めていた。

エミリ・ブロンテ「嵐が丘」の舞台ヨークシャーと主人公ヒースクリフとキャサリンを日本の中世の荒涼たる風景に置き換えていて見事。
人里離れた山の中にあるお社のような山辺一族の屋敷で、あるじ(三國連太郎)が都から汚らしい孤児を連れて帰ってきたところからはじまる。屋敷には娘の絹と息子の秀丸が待っていた。新しい仲間の鬼丸を絹は遊び相手にするが、秀丸は目の敵にして虐待する。
月日が経ち、鬼丸(松田優作)は絹(大人になってから田中裕子)とは惹かれあい、秀丸とは憎しみ合う。
絹が亡くなると墓を掘り出し骸骨になっても愛する鬼丸。

すべての人物の基本の動きが能の動作であるのを今夜改めて確かめるように見た。実はわたしはひところ能に凝っていた。謡を習ったりはしないけど、見るのが得意なのである。中世の愛と憎しみを描くのに能の様式がぴったりだった。