毛利嘉孝『ストリートの思想ー転換期としての1990年代』

1週間ほど前に読み出した毛利嘉孝さん(東京芸大准教授)の「ストリートの思想ー転換期としての1990年代」を読み終えた。最近の読書ではめずらしく付箋がいっぱい貼ってある。

序章『「ストリートの思想」とは何か』では、〈伝統的な左翼知識人の終焉〉があって、〈「左翼的なもの」から「ストリート」へ〉となってゆき、「ストリートの思想」についての考察がわかりやすい。そして『前史としての80年代』では、〈ガタリの来日〉〈山谷を歩くガタリ〉〈山谷からシモキタへ〉と話は進んで行く。〈政治からサブカルチャーへ〉ときて、EP–4、田中康夫、坂本龍一も登場する。
そして90年代の転換〈1〉は『知の再編成』〈2〉は『大学からストリート』となる。このあたりのことの知識がまるでないので、付箋だらけになったのだが、なるほどと思ったところを引用する。

【おそらく二つのダンスカルチャーが存在しているのだ。ひとつは、資本の流れにそって人々を集め組織し、身体の規律と訓練をはかり、人々を物質的な塊(マス)へと閉じ込め、結果的に今ある権力と資本を維持し、拡大させるような「反動的ダンスカルチャー」である。もうひとつは、人々を集めるものの、けっして統一することはせず、無数の方向へと欲望や身体を解放していくための緩やかな「群れ」を形成しようとする、「対抗的ダンスカルチャー」である。】
ということで、〈じゃがたら〉のアフロビートは90年代以降の新しいダンスの政治学を先取りしていたと説く。わたしはここらのことがわかれへんかったので、いますっきりとした。

もういっこ、〈おしゃべり〉について。
【おしゃべりは、私たちの思考の枠組みでは通常、価値が低いものとみなされている。おしゃべりとは時間を無駄に使う他愛ないやりとりのことだ。それは議論とは異なり、より良い答えを弁証法的に求めるものではない。伝統的な公共圏では、議論は生産的なものとして重要視されたが、おしゃべりはノイズとして考えられていた。けれども、私たちは、多くの情報をおしゃべりから得ているのではないか。今日の権力は巧妙なやり方で、おしゃべりを無駄なものとして排除しようとする。とすれば、新しい公共性は騒がしいおしゃべりの中から生まれるはずだ。】
ここんとこは我が意を得たりって感じだ。わたしは若いときからおしゃべりを大切にしてきたと大きな声で言える。いまもわたしの行くあらゆる場でおしゃべりがある。はは、単なるおしゃべりばばあと言われそう(笑)。

そうだったのかーと思いつつ読んだので引用が大部分をしめてしまった。わたしは生まれつきの街の子、ストリートウーマンだから、いまが我が世なのだと勝手な結論にいたる。ほんとの学者ってこうしてうまく整理し理論化できる人なんだなとつくづく感心した。
(日本放送出版協会 NHKブックス 1070円+税)