失われた2年間を振り返る

今日は8月15日で敗戦の日。ウキペディアには1945年(昭和20年)8月15日に玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日」とある。73年前の今日、わたしは玉音放送を叔父と叔母の家の葡萄棚の下で聞いていた。部屋のラジオからかすかに天皇の声が聞こえていた。集まって来た近所の人たちや大人はみんな「戦争に負けた」「終わった」「よかった」「息子が帰ってくる」と口々にいっている。庭の隅には掘ったばかりの防空壕があって(山梨弁が出てこないので大阪弁)「もうこれはいらんようになったな」「一度も使わんかったな」と叔父さんたちがつぶやいていた。
この防空壕ができたのは最近で、わたしは前日壕の中に入れてもらった。3段くらいの階段を降りると6畳くらいの部屋が作ってある。物を置く場所もあって、お米などの備蓄食料やら衣類の箱やらが積んであった。
いま考えると大人たちは真剣に防空壕に入るとは思っていなかったような気がする。上からの命令だから作ったのだろう。

大阪では3月に大空襲があって、わたしら一家の住まいはB29の爆撃にやられてなにも残っていない。井戸におろしておいた荷物は翌日明け方にとりにいったらすでに盗まれていたそうだ。
わたしは1943年の8月に国民学校4年で大阪から疎開したのだが、翌年3月の大阪大空襲で焼け出された家族はばらばらになった。次兄は甲府の叔父の家で7月6−7日に再び米軍の空襲に遭って火の中を自転車で後屋敷村まで逃げてきた。その後兄は再び甲府に住まいを見つけた叔父の世話になって帰阪が遅れた。

母とわたしと弟と妹は叔母の家の近くの農家の納屋を借りて住むことになった。台所も押入れもない一部屋で隅にふとんを積んで、もう一方の角には勉強机、真ん中に食卓という時代劇に出てくるような貧乏暮らし。土間だけやたらと広かった。近所に住む母の従兄弟が野菜などを土間に放り込んでくれた。ちょっとした植え込みや林では落ち葉などを拾いかまどでご飯を炊いた。チョー貧乏暮らしだったが、気持ちは落ちぶれた姫のつもり(笑)。
ここで1年過ごして、1947年夏に大阪へ帰った。両親と子供7人そろって住むことになったのは狭い文化住宅だった。

※疎開暮らしのあれこれを思いつくままにぼちぼち書いていきます。
疎開から帰ってからは、疎開のこと、山梨県のことを考えないようにして生きてきた。叔母さんに便りもせず、従兄弟たちともつきあわず。いま73年ぶりに記憶を蘇らす。