産めよ増やせよ(わたしの戦争体験記 46)

わたしが子供だったころ、うちは「貧乏人の子沢山」といつも両親が自嘲気味にいってたけど、ラジオや新聞や町内会から「産めよ増やせよ」と聞こえてくる声に「うちは子沢山でよかった」と最初のうちは思ってたみたい。うちの子供は、女、女、男、男、女(わたし)、男、女である。下から二番目の男がジフテリアで亡くなり、産んだのは8人だが育ったのは7人だ。
「子供は7人おりますねん」と子沢山を自慢しているうちはよかったが、すぐに戦争に行く男がいないことで批判されるようになった。姉2人がちょうど戦争に行く年齢なのを女だからと免れ、男2人は兵役年齢よりちょっと若くて学徒動員で工場で働かされた。父親は少し高齢なのでちょうど戦争にとられずにすんだ。戦争がもうちょっと長引けばとられるところだった。

母は町内会で掃除とか集会とかがあると必ず参加するようにしていた。陰口が聞こえてきたが、正面からも嫌味をいわれるようになりくさっていた。でも、それでも戦争にとられずに生きているだけでもええわと小さな声でいってた。

わたしが子供を持ちたくないと思ったのは戦時体験が基本にあるからだ。小学校の1年生で大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまって、4年生夏に疎開、4年生の終わりに大阪大空襲で家が焼失、5年の夏に敗戦、6年生で大阪にもどったがきょうだいはあちこちに分散。長い貧乏生活にこんなこともういやだと思った。さいわいに父母きょうだいに可愛がられもせず、自分が稼いだ乏しいお金で自由に生きてきた。