吸血虫 ブユ(わたしの戦争体験記 76)

ブユまたはブヨに噛まれて大変だった話は早めに書いたような気がするが、山梨県で過ごした最初の夏に足と腕を掻きまくり、死ぬような思いをしたことをしっかり書いておかねば。

ブユは知らぬ間に忍び寄り血を吸っていく。腕や足のすねに小さな黒い点があるとそれはブユ。素早く叩くと噛まれたあとでも爽快だ。赤い血を残してつぶれたブユを見ると笑みが浮かぶ。つぶれたブユを見ているとその隙に次のブユが噛んでいたりするが。
わたしは毎日毎日腕と足のすねを掻きまくって血だらけだった。メンソレータムを塗りまくって、出血が止まらないと包帯を巻いた。庭の木の枝にはわたしの血を洗った包帯が風に揺れていた。いまでも包帯を巻くのはうまい、バンドエイドには負けるが(笑)。

学校に行くと病人は体操を休めたので、病身のAさんと二人でいつも見学だった。意地悪な子はくみこさんは仮病だとわたしに聞こえるようにいっていたが、なんのその、体操は休んだ。おかげで6年生になっても鉄棒と跳び箱は最低のままだった。逃げ足が速いから走るのは得意だったけど。

長じて登山に目覚め槍ヶ岳に登ったこともあったが、日常的には六甲山に登っていた。単独行と称して一人で登ることが多かった。関西の山ではブユはあまり出会わないが、たまには噛まれることがある。長袖シャツ、長スボンで山登りしていても顔を噛まれることがあるし、シャツの隙間から忍び寄って噛んでいくことがある。

ブユの一番好きな時間の夕方に道を歩くときは、鈴の音を響かせながら歩いたらいいと祖母が教えてくれたのをいま思い出した。

お風呂で正座する

わたしはひざが悪いので畳の上で正座ができない。めったにないがたまーに法事とかいくと苦労する。あるときからひざが悪うて正座ができませんと最初に断って堂々と開き直り、ひざを崩して座っている。左右とっかえ引き換えで堂々たるもの(笑)。
今度ひざが治ったときみんなと会う機会があればさりげなく正座しておどろかせてやろう。正座できるようになっていれば(笑)。

酒井慎太郎さんの『ひざ痛は99%完治する』にはいろんなストレッチのやりかたが出ていてひざ痛に対処しようという気持ちになる。わたしがこの本で気に入っているのは「お風呂での正座」。湯を張った浴槽で30秒ほど正座する。そして足を崩してまた正座するを数回繰り返す。お湯にひざを折ってつかると、どこまでも湯が入っているようで不安になる。そのうちに自信を持って湯に浸かれるようになるだろう。
その他に「ひざ曲げ伸ばし体操」がある。片足をまっすぐに伸ばし、片足を曲げて何分と繰り返す。これも効きそう。

初めてのピザ

まだ暑いころだったが、南堀江にピザ屋さんができたよ、一度食べに行こうと相方がいった。わたしらは外食好きだけど流行りものには縁がない。ピザが流行ったのはずいぶん昔のことだが、食べに行ったこともなく、家に配達してもらったこともない。
最近になって宅配にまた活気が出てきたようで気になっていたところなので、そこへ食べに行こうやと話が決まった。

それで行ったのが「That’s PIZZA南堀江店」で、うちから歩いて15分だ。お店はアメリカの田舎みたいな感じでお客は若者ばかり。観察していると活気があって楽しい。
マルガリータとオリーブ&アンチョビを注文した。あ、ビールも。
どうして食べるのか行く前は気にしていたが、切り取ったら手づかみでいいんや。すいすいと食べてオーケー。
楽しい晩ご飯であった。

ひざ対策をあせらずに

まだ1週間経ってないけど、昨日、今日と膝の調子は悪くない。良いはずはないけど、先日のような痛さは感じていない。いい傾向だとえみが浮かぶ。
本(酒井慎太郎『ひざ痛は99%完治する』)を読んで希望が湧いてきたのが大きい。書いてあるストレッチや運動をぼちぼちやっているが、根気よくやれば99%完治するとのことだから信じて続ける。

脊柱管狭窄症が治ってから長いこと眠っていた膝の痛みがどっと出た。もうこれは一生ものかと思ったが本書を読んで希望が生まれた。
ひざ痛のひとは姿勢が悪い、前かがみになるくせがあると書いてあってわたしのことと納得。本を読むときもパソコンに向かっているときも前かがみ姿勢になっていた。ひざを締めて座り体はまっすぐに。ときどき思い出して点検すること。
そして、ストレッチを忘れずに。お風呂に入ったら正座の練習と足の体操。
なんだか希望がわいてきた。天気のよくない日のひざ具合の悪さを思い出すと、面倒なストレッチだって楽しくやれる。

酒井慎太郎『ひざ痛は99%完治する』を読んで実践する

ネットでこんな本があったと夫が電子書籍の記事を見つけた。見ながら体操したりするなら紙の本のほうがいいねとアマゾンを見たら、なんと!著者の酒井先生は一昨年わたしが歩けなくなったときに、同じ症状だったのを治した義弟がこの本(『脊柱管狭窄症は99%完治する』)を読めと教えてくれた人だ。

それからは本を見ながらストレッチする毎日だった。義弟は半年で治したが、わたしはそうはいかなくて結局1年半くらいかかった。なんか治ったと信じられず、整形外科の先生に診てもらったら、背中と腰を触ってなんともないやんというてくれた。おー、ストレッチで治ったんやと感激。

でも、腰の塩梅がよくなったら症状がひざにきた。ひざが痛くてこの日記にも何度もひざ痛について書いている。
なぜかこればっかりは治るはずないという感じがしていてすぐには信じられなかった。99%完治という言葉にくらくらする。
でも、本は送られてきてここにある。
最初のページから読み始めた。これならできそうだ。
お風呂に入って正座とかね。普通に正座はできないが、お風呂で正座までもう少しというところまでできる。やってたら少しずつ良くなるだろう。根気があるのは脊柱管で証明されたし。頑張ろう。

ジョン・ヒューストン監督『キー・ラーゴ』

近頃はネットと本に興味がいって映画を見ようという積極的な気持が起きてこない。昨夜はジョン・ヒューストン監督の『キー・ラーゴ』(1948)を見たのだが、それも村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいた夫が登場人物の言葉から、『キー・ラーゴ』がいいらしい、どんな映画か見たいといいだしたので見ることになった。

この時代の映画は深夜映画でよく見た。いちばん気に入ったのは『飾窓の女』で、それこそ深夜にじっとひとりテレビの前で頑張っていたものだ。
なんの縁か『飾窓の女』は、エドワード・G・ロビンソンが学者の役で主演だった。
『キー・ラーゴ』では典型的な悪役を気持ちよく(?)演じている。

映画がはじまりハンフリー・ボガードとローレン・バコールの間にエドワード・G・ロビンソンの名前が入って物語がはじまった。
二人の新スターの間に老練な大スター、その相手にはクレア・トレヴァーが色気を残したちょっと歳のいった役で出ている。彼女はこの映画で助演女優賞を得た。ジョン・ウェインとの『駅馬車』は二人とも最高だった。
老練なふたりの俳優に対して新鮮なふたりの俳優は演技が根本的に違っていて、ちょっとした表情にも新しさがあって見とれた。

今夜は「あんこう鍋、のようなもの、ぴー」

スーパーにあんこうがあったと買ってきたので晩ご飯はあんこう鍋に決まり。長いこと食べてなかったなあ、何年振りかなあ、どないして食べるんやったっけ。わたしが案じてもしゃあないんやった。うちには料理人がいる。

昔、相方が黒門市場で買ってきた大きなあんこうを自分でさばいたことがあった。もう40年くらいになるか、曽根崎書店のおっちゃんが食べたいといったのでご馳走することにしたのだ。あれはほんまにうまかった。本に書いてあったのと、魚屋のおっちゃんのいうたことを参考にしたのだが、最後のおじやも残さず食べて腹いっぱい。おっちゃんはここんとこに寝転がってしもたんやと思い出した。わたしらずっと同じところに住んでいるんで(笑)。
今日、あんこう鍋しようぜといわれて「ずっと昔に曽根崎のおっちゃんにおごったねえ」と思い出した。おっちゃん亡くなって20年以上経っているけどよく覚えている。

戦争中と戦後にラジオでよく聞いたのが「できますものは、あんこうのようなもの、ぴー・・・」と小僧さんが叫ぶ落語。三遊亭金馬さんがものすごく笑わせてくれた。うちでは全員が真似して「ようなもの、ぴー・・・」とやっていた。これは50年以上前の話。
いま検索したら、ちゃんと解説があった。「落語「居酒屋」の舞台」というのが親切丁寧。笑える。
鍋の後に映画を見る予定なんで今夜は素早くブログを書きました。

熟柿(じゅくし)

何度も書いているが柿が好きで実を食べるのも木に生っている景色を見るのも大好きだ。最近は柿の木を見ることもなくて、食べるだけだが。
今日のおやつはスーパーの柿だった。やや柔らかくなりかけているが4個200円という安さに感動。さっそく1個を半分ずつ食べたらええ塩梅に熟れていてすごくうまい。食後が楽しみ。熟柿やんかといいながら口の周りを拭いた。

田舎ではたいていの家の庭に柿の木があり、秋の風情を添えていた。夕日と柿の木。
採って食べるのは自由だけど、低いところでもわたしには手が届かない。いたずら小僧さんがさっさと登って枝を揺らして実を落としてくれるのを待つばかり。柿の木は折れやすいので気をつけろと叔父さんがいつもいっていた。

地面にべちゃっと落ちた実は「熟柿」(ずくしといってた)で、拾うにもべちゃっと地面にくっついて食べられない。だれも見てなかったら拾うのにと思った(笑)。
うまい具合につぶれてないのを拾えればオーケー。桑の実とともに食べてもおこられないありがたい食べ物だった。

干し柿大好き

無農薬野菜のライオンファームへ野菜を買いにいったら干し柿があったと相方が3個入りの袋をくれた。ライオンさんの柿の木になった実の皮をむいて干したもので見るからにうまそう。
さっそく番茶を沸かしておやつにした。うまいし、あまーい。

山梨県のおじさんが剥いた干し柿はほんまのプロの作品というかぴかぴか光っている感じですごかったが、ライオンさんのは1個1個大きさと形がばらばらで大小3個1組になっている。これもよい。
おじさんの干し柿は毎年買い手が決まっていて、毎年同じ仕入れの人が来て商品の干し柿をきちんと運んで行った。どこかの裕福なおうちのお正月の飾りやお茶菓子になるのだろう。

干し柿は残念ながら子供には1個もあたらなかった。盗み食いなんかようせんし(笑)。長じて百貨店の果物売り場で買って帰り家族におごったことがある。母親なんか値段を聞いてもったいながったものだ。
えべっさんの帰り道の出店で四国のどこかの売り場に縄でしばった干し柿がたくさん売っていてうまかった。えべっさんにはもう20年くらい行ってないけど。

休息村の記憶(わたしの戦争体験記 75)

戦時中のことを考えていたら突然「休息村」を思い出した。なんか芋畑の芋づるのように記憶がずるずる出てくるのがおかしい。
山梨県に疎開したときに隣村に住む遠縁のおばあちゃんが、ある日疎開先の家にやってきた。母親が来ていると聞いて会いにきたのだ。母とは親しげでイトコかハトコといった間柄のようだった。母は「休息村のおばあちゃん」と教えてくれた。「休息」という変わった地名は、昔、日蓮聖人が歩き疲れてどっこいしょと休息村の道端の石に腰掛けて休息したからだという。わたしはおもしろく受け止めて、それから休息村という言葉を忘れていない。いまは他の村と合併して東雲村となり休息村は廃止されている。なんか残念。

わたしがいた後屋敷村(ごやしきむら)とは橋ひとつ渡ったところの村で山道が多くて歩きづらかった。川もけっこう深かった。でも、ここで日蓮さんが一休みしはったんかと思うと登り道がつらくなくなった。それに座りはった石というのに座るのがなにか楽しかった。ほんまかいなと思いつつ。

※ウィキペディアには【休息村(きゅうそくむら)は山梨県東山梨郡にあった村。現在の甲州市勝沼町休息にあたる。】と書いてある。