寝台特急日本海に一度乗った

さっきミクシィのニュースを見ていたらこんな記事があった。
【「日本海」(A寝台28席、B寝台282席)は青森発の列車が発売後10秒で、大阪発の列車が発売後15秒で完売。】

わたしが日本海に乗ったのは70年か71年か、季節は10月の終わりごろで、相方の実家の小樽へ行った。すでに2年くらいは同棲(当時の言葉ですね。「同棲時代」というマンガがあった。)していたから、ここで顔見せくらいしておこうと初対面の挨拶をしにいったわけ。

大阪駅を8時頃に出る列車に友だち夫婦が花束をもって送ってくれた。寝台車は新幹線ができる前の東海道線にわりと乗っていたが、こんなに長時間乗るのははじめてだった。朝起きてからが長かった。お金がないのに食堂車へ何度も行った。言葉通り日本海が見えて東映映画のタイトルみたいな波の海が見えた。
北海道って遠いなと思った。
青森あたりからみぞれになって青函連絡船に乗るまでの寒かったことをよく覚えている。

帰りは夜小樽を出て函館から青函連絡船で明け方に青森に到着。船が揺れて少し酔ったが、乗客みんなが走るのでいっしょに走って「白鳥」に乗った。長い時間乗って夜の8時ごろに大阪へ着いたときはほっとした。昔の北海道旅行はしんどかった。

テレビのない生活は快適

去年の7月24日でアナログ放送が終わるということで、これを機会にテレビをやめようと決めた。なんやかやの電話の末にNHKから「放送受信契約終了のご案内」が届いた。
7月24日のお昼の12時だったかな、これで放送が終わって砂嵐場面になるんやで、そこを見ておこうと待っていたら、なんと放送が続いている。しかも、でっかい文字の「あと○○日で放送終了」の文字もない。2カ月くらいその文字で字幕が隠れていたのだ。でっかいテレビをお持ちの人にはわからんことだが(笑)。

なんとなくあればニュースを見る。そして12月になってNHKの人がきた。テレビのキカイがあればお金を払わんとあかんらしい。で、あっさり撤去することにした。大阪府の「家電リサイクル大阪方式」に電話したら2日後に来て3000円で引き取ってくれた。

新聞とテレビのない生活は気分よい。なんでNHKニュースと「クローズアップ現代」を見てたんかしらと思う。テレビの場所が空いたのも精神によい。楽しいもの置き場になっていて、わたしはそこを「我が家のタムタムカフェ」といっている(笑)。

テレビを見始めたころ「ロスアンゼルスは晴れていた。わたしは殺人課に勤務していた」ではじまる「ドラグネット」が大好きだった。「パパはなんでも知っている」「鬼警部アイアンサイド」「弁護士ペリー・メイスン」「ララミー牧場」も大好きだった。

紙の会報とSNSと

ヴィク・ファン・クラブの紙の会報を毎月出している。1週間で終わらせるつもりが今月は2週間近くかかってしまった。あいだに遊んだり本を読んだりしてなにもしない日があるからだが、ツイッターにはまっていることも多い。あんまりつぶやいてはいないが読むほうに熱心である。新聞とテレビの代わりにニュースを得ることもやってるけど、それよりもおもしろいつぶやきがあってまだ飽きてない。
今日はできあがった会報を郵送した。もらいものや年賀状用に買ったのに出さなかったのでメール便より高いけど。切手を貼った封筒っていいものだ。それもピーター・ラビットや花柄の。新年らしい。
ほっとしたが、こんなに遅くなると、次の会報の時期がすぐにくる(笑)。

雪が降るのかと思ったがこのへんは晴れている。ほんまに雪の降らないところだ。関東の友のツイートによると今夜は雷⇨地震⇨雪だとか。こういう他の土地のひとのことも即刻知ることができるのもSNSのおかげだ。
いままで紙の会報にこだわってきたので、もうちょいこだわっていくか、考えどころ。これをやっているとフェイスブックに手が出せない。まあ、フェイスブックよりはツイッターのほうがわたしには向いているように思う。(フェイスブックをやってないのでわからんのに。)

今夜はビッグ・ウェンズデー

九条のクジラウオさんに食事に行きたいが、寒いしちょっと遠いしなぁとなかなか行けない。そのクジラウオさんが今日はうちの近所のバーでフード担当と知って、晩ご飯を食べに行ったら今日はビッグ・ウェンズデーというパーティがある日だった。もうちょっとしたらライブがあるという。
餃子の入ったスープと豆腐とおからのお焼きを食べてしゃべっていたら、ライブがはじまった。太鼓やジャンベや打楽器が多くてにぎやか。リズムが気持ちよく、わっ、もうかったって感じで楽しんできた。

音楽をやっている反対側に映画が映し出されている。見たことがあるぞと思って眺めていたら「ビッグ・ウェンズデー」(ジョン・ミリアス監督 1978)だ。そうか〜今夜のパーティ名にひっかけてるのか。この映画、むちゃくちゃ好きだったが最近は見ていなかった。片側はライブ、片側は映画とぜいたく極まりない。最後のシーンはいま見ても泣ける。サーファー3人がサーフボードを抱えて高波に向かうところは「昭和残侠伝」で高倉健と池部良がどすを片手に斬り込みに行くところとそっくり。

休憩中に雑貨を置いている好青年(DJもやってた)とおしゃべり。だいたい今夜の客は男女ともに愛想が良くて、話しかけてくる子もいるし、にっこりの子もいて満足だった。雑貨のところで毛糸の帽子を見ていたら、何人もあれがいいこれがいいと大騒ぎ。みんなが買えという赤やピンクは避けて渋い色を何色も使ったのにした。ダウンのコートをもらってから合う帽子を探していたので、いいのがあってよかった。

ホビット族の忘年会

会報が片付いたのでゆっくり外食することにして、まずはシャーロック・ホームズへ行った。12月はヴィク・ファン・クラブの例会はなしなので、早い目の年末の挨拶。相方はうまいギネスが飲めて満足。お腹いっぱい食べて、機嫌良くしゃべって女主人ともおしゃべりして、来年もよろしくを言った。

20年近くになるつきあいの店を出て、次ははじめてのお店。ツイッターで知り合ったFさんに教えてもらった文学バー「リズール」は四ツ橋と心斎橋の間にある。うちからは歩いていける距離だ。地下へ降りると広い空間で壁ぎわには本棚があって、長いカウンターがあり、ソファがある一画も広い。女性がカウンターにおり注文したら店主らしきひとが出てきた。ツイッターでフォローしていただいた礼を言い、Fさんの紹介だと言ったら話が通じた。それにしても先日のツイッターからはじまってこうしてリアルに言葉を交わしているからすごい。男性が向こうの客のほうへ行ったとき、女性に尋ねたら彼は作家の玄月さんだった。
へええ、いままでこんなバーがあることすら知らなかった。知らない者の強さで作家さんとおしゃべりしてた。

次はそこから歩いて5分くらいのコンピュファンクのバーへ。レミちゃんと来合わせたNさんと3時間近くなんやかんやとおしゃべり。文学バーでちょい緊張したあとなので口がよく動いた(笑)。よく笑うこと、笑うこと。

もっとサボっておおらかに

サブタイトル:ああ、楽しや、ツイッター。
ツイッターを読みながらそろそろお風呂に入ろうと思っていたところで、Oちゃんのツイートを読んだ。「黒い咳が止まらん」とある。それでRTを入れた。「活動しすぎのせいね。わたしもこれからお風呂に入ろうと思ってたとこ。体を休めましょ。体も気持ちもあせったらあかん。 」お風呂から出たら返信が入っていた。「遊びを真剣にやり過ぎるせいですね。(笑)」それへの返信は「言いたかったのはそれ笑 」、続けて「 Oちゃんのツイートのおかげでいま風呂で考えがまとまったよ。もっとええかげんになろう、もっとさぼろう って。昔の写真見たらみんな大口開けて笑ってる。最近は愛想もクソもないむっつり顔が多い。もっとサボっておおらかになろう笑」。

いま会報作り中だが、いつまでに送ろうとせくことはなにもないのに自分で決めて自分を縛っている。だから20年続けられたんだけど、これからはええかげんにしよう。といいつつできたところから丑三つ時にコピーをとっているのだが(笑)。もうやめてミクシィにいって、少々読書して寝よう。

義兄の三回忌、帰ったらMac miniが・・・

義兄の三回忌で姉の家に行った。家でお弁当を頼むとのことで、世話役がたいへんだったが気兼ねのない集まりだった。お坊さんが11時に来てお経と蓮如上人についての話と近所のお寺なので世間話的な話もされた。
それからお酒と豪華な弁当が出た。庭の大きな侘助椿にいっぱい白い花が咲いている。おととしの葬式のときも咲いていたっけ。12月の終わり頃にこの花が終わって、その後は横の薮椿が赤い花を咲かす。
義兄のほうの親戚が帰った後は、兄を中心に戦争中の話や両親きょうだいの話や尽きることなく話していた。早く両親を亡くしたふたりの姪ははじめて聞く母親の青春時代の話を楽しんだ。

たくさんお土産をもらって夕方帰宅したが、お腹はいっぱいだし疲れてしまってすぐに爆睡2時間。起きてパソコン起動したらネットにつながらない。相方が調べ確かめること1時間。いろいろやってようやくつながった。ネットがないと生きていない(笑)。
ほっとして蕎麦を食べて、お茶とお菓子でくつろいだ。

皆川博子『開かせていただき光栄です』のことをもうちょっと

わたしが18世紀のロンドンの事情を知ってもなんにもならないけれど、好奇心を満たすってのも読書の喜びのひとつだ。皆川さんは最後に主要参考資料を16冊もあげておられる。それらを駆使して書かれた作品を読んでこちらは楽しんだ上に知識を得る楽しみを味わっている。

エドのお父さんは盗難を疑われ、投獄され、裁判で有罪になり、絞首刑になった。後で真犯人が見つかったが、偉い人につながりがあったためうやむやにされた。エドはいう「裁判官の皮膚を剥ぐと死刑執行人が現れる」。その後にイギリスの官僚制度についての説明がある。

いかがわしい店が繁盛している。男色専門店の薔薇亭がよく出てくる。トム・クイーン亭はあらゆる階層の遊び人たちが集まるパブである。酒、女、賭博、闘鶏、牛いじめ、熊いじめ、鼠殺し、そして娼婦としけこむ部屋がある。

炭坑の労働者の過酷な労働、家畜のように扱われた労働者たちのことも書いてある。
ロンドンの暖房は石炭を燃やしていた。おおかたの家では石炭屋が家の中に入り込まないように、道路の端から石炭貯蔵室に通じる穴を掘ってある。金属製の上げ蓋を開けて石炭を放り込めば斜面をなだれ落ちて行く。
※わたしは細野ビルヂングでこの装置を見たことがあるので、興味深く読んだ。細野さんにビルを案内してもらったときに、細野ビルの裏側に鉄の蓋がしてあるところがあった。ここに暖房用の石炭を落とし込んだという。地下室に降りてみたら、ビルの隅に石炭を受ける場所があった。その石炭をボイラー室で燃やしてビル中の暖房がされていた。

昨日アップルストアで

昨日は夕方からアップルストアへ行って相方が欲しいというワイヤレスキーボードを買った。マックにもiPad2にもiPhoneにも使えるんだって。テンキーがないのにしたのでうんと小さく机が広く使える。わたしは今年の2月Mac miniを買ったときにどうしようかと思ったけど、いままでどおりのテンキーつきでコードつきキーボードにした。保守的やったと反省。

2年前のいまごろ義兄が入院していて大変なときにiPhoneの充電ができなくなった。いちばん携帯電話が必要なときである。アップルストアの閉店前に駆け込んで見てもらおうとしたのだが、予約しないとだめだという。どないしょと立ち止まっていたら、ちょうど通りかかった店員さんが見てくれて、これならと即、直してくれた。うれしくてるんるんと階段を下りきった段差のところでこけた。ラックにぶつかって倒したので大変な音がして店員さんが6人かけつけてくれた。めっちゃ恥ずかしかった。
次にアップルストアへ行ったのがMac miniを買いに行ったとき。思い出すのもカッコわるいがリベンジするぞなんて言いながら行ったら1階で用事はすんだ。

先々週の土曜日にヴィク・ファン・クラブの20周年例会に関東から来てくださったお二人を案内して、心斎橋から御堂筋へ出てアップルストア前へ。土曜日の賑わいの店前で現場検証してもらった(笑)。
昨日はキーボードを買いに行ったので2階へあがり手すりを持って静かに降りた。段差も足元見ながらそろーりと降りた。

ウォルター・アイザックソン「スティーブ・ジョブズ」( I ) マックとわたし

ここ数日本書を手にしてジョブズ漬けになっていた。同時代に生きていたなんてことでなく、わたしはジョブズのおかげでこの生きにくい日本で生きてこられた。24年前の1987年11月13日にマックプラスを買ってから。
そのころ、わたしたちは新町1丁目で写植・版下・デザインの仕事をしていた。1985年の阪神タイガース優勝の年の6月に、相方が胃潰瘍で1カ月入院という事態になって、結局2カ月間休業することになった。その後は仕事をセーブして(セーブできるなんて職種ではないのでひたすら断って、結局仕事をなくした笑)、公園を散歩したりしていたが、うつぼ公園で猫たちを見てから毎朝5時半に猫に朝ご飯を運ぶようになった。マックと出合ったのはそんなときだった。

パソコンなるものを一度見に行こうとある日曜日に日本橋へ行った。電気店ではたくさんのウィンドウズ機が並んでいた。灰色の山の向こうの隅っこに輝いて見えたのがマックプラスで、わたしは一目惚れ。これにしようと相方にせがんだ。そのときは帰ってカタログなどを調べお金が足りるか調べて(持っていたもんだ!)、画材店いづみやから買った。営業マンがマックペイントで絵を描いているのを固唾をのんで見ていたのをいまも思い出す。

世の中はどんどん変わっていって、その後、わたしたちも手仕事の世界からマックで仕事をするようになった。人よりもさきにマックを使っていたので転換はわりとスムーズにいった。その転換するまでの時期1991年(マックを買ってからまる4年目)にヴィク・ファン・クラブ(VFC)をはじめた。その前年、1990年に2代目のSE/30を買っている。SE/30でVFCの会報をつくったのがDTP第1号となった。ほんとうの意味のデスクトップパブリッシングだと誇ったものだ。あまり理解してくれた人はいなかったけど。
それからはマックを何台買ったかしらね。ほとんどはデスクトップだが1994年にノート(PowerBook 520)が発売されたときに1台買った。それをを持ち歩いて知り合いの〈できそうな女性〉から嫉妬をかった。男性の嫉妬はかたちを変えて現れ意地悪された(笑)。

仕事のやりかたがどんどん変わっていった。仕事が簡略にできるようになると価格が下がり、事務所の維持が難しくなった。阪神大震災(1995年)のあとの不況で事務所を閉めて自宅営業にした。
日本語のサイトをつくってほしいとサラ・パレツキーさんから要望があったので、サイトを作らないかと早川書房の編集者から話があったのは1998年のことだった。ホームページ作りはかねてから考えていたことなので、喜んで返事をして出来上がったのがVFCサイトである。
その間にマックを何台も買ったが、すでに産業機械に変わってたんだよね。それがジョブズがアップルを追い出されスカリー会長に変わっていたのと同じ時期になる。ほんまにあのころはわたしたちも暗かった。DTP仕事で日々食べることに必死だった。
その中で相方がVFCサイトをつくり、ホームページ作りを仕事にできるように勉強した。

ジョブズがアップル社にもどり、1998年にiMacが華々しく発表されたけどうちはお金がなくて買えなかった。兄が買うというので日本橋のソフマップまでわたしがついていき、一式揃えて買うのを手伝ったことがある。それからは、毎日兄から電話がかかって操作方法を教えていた。兄はワードで能楽のプログラムを作るのに四苦八苦したが、コピペから教えるのだから大変だった。

マックのマの字も知らなかった友だちがiMacを買うたびに嫉妬で苦しんだ(笑)。わたしはイチゴ色を買うと決めていたが先立つものがなかった。
結局2002年に、iMac G4 (Flat Panel) を買った。いわゆる大福マックを1年おいて2台。その次には相方はインテルiMacを使っており、わたしはMac miniを買っていまは2台目を使っている。

iPhoneはわたしは3Gを売り出し時に買ったままいまも使っており、相方はiPhone4、iPad2は売り出し時に買った。
本の感想を書くつもりが24年間の自分の歴史になってしまった。一息に書いたよ。ああしんど。