着ないものはいらない

今日は冷えるのか体調が悪い。昨夜本に熱中しすぎたせいか目も疲れている。目が疲れると頭がぼーっとする。夕方からふとんをかぶり暖かくして晩ご飯ができるまで昼寝した。夢のなかで引き出しの整理しなくてはとささやく声があったので、2時間寝たところで起きて引き出しの整理をした。まだ着るつもりの服が重なっている。もういらんなと独り言をいって引っ張り出した。高価なものは1枚もないが質実な紺や黒の服はそのうちまた着るだろうと置いてあった。置き始めると捨てないから増える一方だ。思った時が吉日とゴミ袋を出してつっこんだ。

トイレに行き口をすすぎ、着る物を整理していたらしんどいのが取れてきた。いまブログ書いておこう。後でテーマなににしようかと迷うことなく「着ないものはいらない」でいったらええやん。
書いてるうちにご飯ができるだろう。仕事をして家事をなんでもこなしていた時代があったなあ、元気なものだった。いまはあきません。洗濯以外の家事をまかせきりだ。その上に出かけるときは車椅子を押してもらっている。
今夜は村上春樹さん読書を控えて早寝しよう。なんてできるとは思ってないけど(笑)。

渋柿が甘い

ファンヒーターから暖かい風がそよいできて幸せを感じる季節。これで今年の冬もなんとか乗り切れそう。ガス代が次の問題だが。
月曜日の無農薬野菜販売で相方が「渋柿」を買ってきた。大きいのが1個100円だったから2個。「甘いよ、も少し熟れてから食べや」とのことで、ちょっとずるずるするのを2日待って、今日まず1個を半分ずつ食べた。これがもううまいのなんの。いままで食べた甘いのや上等のとは全然違うおいしさだ。渋が極まると甘みになるんかとしみじみ思った。

山梨県の叔父さんは秋から初冬にかけて毎晩柿を剥いていた。左手に持った柿がぐるぐる動いて剥けていくのが見事だった。剥いたのをどんどん縄でしばっていき風通しのよい場所に吊るす。毎年の作業でわたしは2シースン見ただけだが、吊るす場所は決まっていて、作業はたゆみなく進んでいく。ちょっとやろうかと小さな切れ端をくれたので口に入れたらすごーく渋い。口の中が渋でがたがたした。ハハハと笑うおじさんの笑顔は珍しいので、渋かったけど愛想笑いを返した。

寝る前にお風呂に入ろう

今日は朝から鬱陶しい天気だった。天気が悪いとてきめんにしんどくなるところを、今日は普通の日と変わらなかったから気分良く過ごせてよかった。午後も雨だったので整形外科に行くつもりだったのを先送りした。家でパソコン前にいるのと、本を読むのといつもと同じことをして過ごしていた。

午後から留守番することになったら、おやつにサツマイモを食べるように用意してあった。
サツマイモを食べながら村上春樹さんの本を読み、ヴィク・ファン・クラブの会報の仕上がったところを点検した。まだ10分の1くらいしかできていない。しかも原稿を書いてレイアウトしてプリントするページがあり、原稿は揃っているがレイアウトするページもけっこうあり、合併号だから原稿も多くて前途は遼遠である。よっぽど楽天的でないとできないぜとつぶやく(笑)。

やっぱり天候のせいか目が疲れているし背中がしんどい。
寝る前にお風呂に入ってゆっくりぬくもることにしよう。

今年の冬を暖かく

去年のいまごろガスファンヒーターを出して点検したらずいぶん古びていた。それで新しいのを買おうと相談したんだけど、まだ使えるのにもったいないとなって今年に持ち越した。
先日、今年は買おうと決めて、どこでどれを買うかとちょうど届いた大阪ガスの催しの案内を見たり、いまのはどこで買ったっけと調べ、お金も安いところを調べ、これにしようと決めた。グレーの落ち着いた色合いがいい。昨日配達してもらったらそこそこの大きさでオーケーだ。でもいままでより大きいから空き箱の置き場所がいる。いろいろ箱類を置いてあるところをここしかないなあと片付けた。箱や中に入っているプラスチックのかたまりやらも捨てた。

ついでに、着るのをやめた服類も捨てることにして、今日はうちとしては珍しく大量のゴミが出た。
気に入っていたスカートなんかもうはくことがないもんね。きれいなチェックで襞がとってある。裾幅が広くて柔らかくて好きやったなあ。広げてからだにあててみてから惜しそうにゴミ袋に入れた。フードつきのパーカももうこんなん着られないなと捨てた。大事にしていたセーターも毛羽立っているので捨てることにした。

明日は冷えるらしいからファンヒーターをつけてぬくぬくと過ごそう。ガス代が心配だが。

会報作り、9・10月は合併号

ヴィク・ファン・クラブの会報9・10月合併号をいま作業中。8月号は暑さでよろよろになりながら頑張ってつくった。つくるのもなんだが、プリントまで仕上がったのを綴じて封筒入れやら切手貼りやらが手間で時間がかかりしんどかった。
それを9月はじめに送るとき「次回は合併号」にしますと最初から告知した。そのときはいいけど、2ヶ月経っていざやる段になると2倍しんどーい。

長く続いているVFC会報だが、ここんとこちょっと疲れが出ている。今日もいざかかろうとすると、2ヶ月前まですいすいできていたパソコン作業が、どうしたかげんか動かない。めちゃ真剣に取り組んで解決したけど、できていたことができないってトシのせいかとさっきはいっとき落ち込んだ。

毎月いろんな話題で連載原稿を書いてくれ、表紙やレイアウトに使う写真を撮ってくださる人がいるから出来上がっている。そして毎月通信を書いてくれている人がいるからおもしろい会報になる。いろんな場所でいろんな職業についていて、独身の人、離婚した人、子供のいる人、孫が生まれた人といろいろな境遇で、それぞれヴィクを愛している人たちの通信だからおもしろい。

会員さん宛のメールに、村上春樹に夢中で会報にとりかかるのが遅れていると書いたら「面白いことに夢中になれるのは素晴らしいですね。会報は一段落してからで。」と優しい言葉をくださった。
読書と並行して会報づくりも頑張ります。

洗濯できる幸せ

昨日の午後に干した洗濯物を室内干しに移し、また洗濯機いっぱい洗濯して干した。ベランダが狭くて風通しが悪いところにいっぱい干すから乾きにくい。10月半ばまではよく乾いたが、最近は乾きが遅い。
さっさとやってしまいたいんだけど、膝が痛いので休み休み干している。雨はあがっていても空気が湿っているので、干してもぱりっとしなくていやだ。こんな悩みは贅沢だなと思い直して入れたのからたたんでいる。

相方が買い物に行ったついでに雑誌と本を買ってきてくれた。「れいわ新選組」の山本太郎さんが表紙を飾っている『GQ』と、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』第3巻の文庫本。これで今夜も明日も退屈せずにすむ。ひょっとして今週中楽しめるかも。

今日は洗濯以外にも雑用があった。何度目かの古い本の点検をして、捨てる本、売る本、置いておく本に分別した。置いてあった本もふるいにかけて不用品として捨てるほうに分類。もう読まないとしても、もったいないと思ったりするので、思い切りが肝心だ。

1978年の The B-52’s ライブ

ミクシィの日記にマイミクさんがThe B-52’s のライブの動画をアップしていた。B-52、久しぶりやなあ。懐かしいなあ、あたしの40歳ごろのお気に入りだったっけ。
四ツ橋のカフェバー パームスで仲良し(といっても20歳年下)のめぐちゃんと遊んでいると、しょっちゅうモニターにB-52のライブ映像が流れていた。大阪爆撃でB-29に家を焼かれた身としては、B-52というネーミングが気に入っていた。当時は映像があまりないらしくよく同じものが流れていた。

そのB-52が京都でライブすると知って、めぐちゃんを誘ったら都合が悪いそうなので、わたし一人で勇気を出して行くことにした。
もう記憶がないが、当時流行っていたライブハウス磔磔(たくたく)ともう一店のどっちかで、四条に近かったと記憶している。検索したら1978年11月来日と書いてあった。そうだ、11月だから薄手のコートを着ていったんだと思い出した。

ライブで踊ったのは初めてだった。コートとバッグを隅っこに置いて、真ん中へんのちょと高くなったところのグループにくっついて踊った。ライブ映像を思い出して心臓強く(笑)。まわりは背の高いかっこいい女子ばっかり。若い知り合いが来ていて見てたんだって。終わってから「ようおどってはりましたね」と「お歳なのに」を省略して嫌味っぽくいわれたがなんのその、元気をもらって帰った。

雨降り続く

今夜は大雨が降るらしい。今年の秋はこの辺り雨が少なかったように思う。何度かの台風もそれた。医院とか整体院に行くための車椅子の雨支度にビニールの合羽を大小2枚用意してあるのだが、まだ一度しか着ていない。それも着たら雨があがったので活用しなかった。
整体院は毎週水曜日の午後に行っている。一度だけ前日の天気予報で大雨の予想だったのでお休みにしてもらった。予約しているのに申し訳なかった。それ以後は合羽を着て行くべしと思っているのに降られていない。一度家に着いたとたんに降り出したことがあった。ついている。

台風被害のニュースを聞くたびにここらへんは助かってよかったと思う。去年は思いがけない台風の猛威に怯えたので、今年もと身構えたが大事なくすぎた。でも、まだ油断してはいけない。なにがあるかわからん。

雨の日は度々書いているけど骨身にこたえる。ネットをあちこちしてたら体内の水分を減らすようにとあった。冷たいものを避け温かいものを食べるようにと。さっき食べたけど柿は体を冷やすよね。悪いほうに誘われるなあ。気をつけよう。
早く雨が上がって爽やかな秋空になってほしい。

奉天 3(わたしの戦争体験記 72)

いままで何度か思い出しつつ疎開のことを書いてきた。
記憶から小刻みに出てきたのだが、今日はもうちょっと記憶を掘り出し、すこしまとまったことを書こうと思う。
太平洋戦争がはじまったのは昭和16年12月8日でわたしは国民学校(この年から小学校が国民学校になった)の1年生だった。2年、3年は都会の子供としてのんびりと育ったが、それでも授業前に勅語を音読し「君が代」を歌うように強制されていった。
町内の青年たちが戦地に赴くのを見送り、遠い戦地から遺骨で還るのを出迎えにいった。

学校が疎開を勧めだしたのは4年生になったときだ。先生から子供を預けられる人はこの用紙に書いて届けるようにと紙が配られた。わたしは「うちにおいで」と前からいっていて、粉浜に移転したさかえちゃんのところに行きたかったが、知り合いはダメ、親戚をと先生がいって、母は「久美子一人預かってくれと妹に頼むか」ってことで手紙を出した。「お国のためなら」と承諾してもらったので、わたし一人が叔母の家(母の実家)に預けられることになった。のちに次兄が甲府の叔父の家に世話になった。甲府は二回爆撃があり次兄は2回戦火の中を逃げ惑うことになった。

4年生の1学期が終わるとすぐに山梨県へ出発した。家が焼けるだろうことは無言の承諾があったような気がする。すでに入り口を板で打ち付けた家もあった。級友とは疎開についてあまり話さなかったように思う。それぞれ黙って消えていった。

大阪を出て行く日は、母とハタチくらいの長女と一年生の三男と赤ん坊の四女といっしょに家を出た。母と姉は食料買出しも兼ねていた。姉たちの晴れ着を米や芋と換えてもらう。
市電で湊町へ行き、関西線で名古屋へ。夜の8時ごろだったか名古屋に着いて中央線に乗り換えて塩尻へ。わたしは姉が縫ってくれたピンクのワンピースを着て、手に『奉天』の本を持って汽車に乗っていた。昼も夜もその本を読んでいた。表紙に処刑されている士官の姿が描いてあった。
翌朝、たしか新宿行きに乗り換えて日下部下車。1時間ほど歩いて叔母の家にたどりついた。

母の姉が東京から来ていて口やかましく行儀よくするように説教する。叔母(母のきょうだいの5女)は東京の女学校を出たので田舎にいてもしゃんとしていて、大阪弁を馬鹿にしていて付き合いにくかった。自分の子供を中心にしていてわたしは無視された存在だった。久美子は全然勉強しないと母に度々手紙を出し、それを読んだ母はわたしに「勉強しなさい」とハガキを寄越すのだった。

『奉天』の本は何度か読んだと思うがはっきり理解できなかった。そして父がなにを思ってその本をもたせてくれたのかわからずじまいでいまに至る。

先日から村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいて、ノモンハンについて学んでいるところだ。日本軍について少し知り、奉天で処刑された日本兵に思いを馳せている。村上春樹の書いている非道な戦争の記述が胸につきささる。

食欲の秋

若い頃は、いや若い頃を通り越しても、しょっちゅうお腹を減らしていたような気がする。とにかく食欲旺盛でよく食べた。そして太っていた。最近は炭水化物を減らすべくご飯の量を少なくしているので、腹一杯やーと叫んでお腹をなでるようなことはない。野菜とタンパク質をおかずというより主食の一品として食べているから、めちゃくちゃ太りはしないが痩せはしない。難しいところである。運動不足だしお腹の肉が柔らかくなっているし、なんとかせにゃ。

甘いもの好きはつねづね反省しているが、そばにあると反省をどっかへおいといて食べてしまう。果物は新鮮がイノチと遠慮なく食べる。
昨日と今日おやつにクリームパンとイチジクと柿を食べた。
今日は相方が朝帰りだったので、お昼は個食でモヤシたっぷりのラーメンを食べた。おやつが甘いものなのに、ラーメンで炭水化物を過剰にとったと食べてから反省。へへ、あんまりしてないけど。

いま村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(1〜3)を読んでいるが、食欲を誘われるところが多い。内容は厳しいのだが、主人公の「ねじまき鳥」さんがご飯をつくる場面がたくさんあって、読んでいるとお腹が空いてくる。ねじまき鳥さんはコーヒーを温め、レタスとハムをはさんだサンドイッチをさっさと作って自分が食べたり、たまたま来た客に出したりする。まだ1巻を読んだところなので先が楽しみ。ノモンハン事件についてまったく知らなかったので学べるのがありがたい。