大阪府に強風・波浪注意報がでている

今日も大寒い。天気予報大好きなわたしはパソコンをつけると「YAHOO! 天気災害」にログイン。「大阪府では、29日明け方から29日夕方まで強風や高波に注意してください。」と赤い文字で出ているのを読むと興奮気味になって細かいところまで目を通す。

昨日も昨夜も寒かったが今日も朝から寒い。お昼過ぎに洗濯機をかけておいて昨日干したのを取り入れて部屋干しに移動。空いたところへ今日の洗濯物を干した。ベランダ仕事は陽のあたる昼間のうちにやっておこうという主婦感覚である。おかげで午後も夜になっても外に出る必要なし。

つい先日、台所の電気と水道のカランを新しくしてもらったので台所仕事が気分いい。このiMacの上の蛍光灯も強力なのに交換してもらった。年齢のせいかいろいろ鈍感になっているので、電気は明るく道具は使い勝手良く暖房はいっそう暖かく。そこそこの暮らしができてありがたい。

ノミ・シラミ(わたしの戦争体験記 34)

髪に櫛を入れて髪の生え際から先まで梳いていく。頭に空気が入って気持ち良い。櫛をしっかり見ると黄色っぽい櫛の節目にシラミがたくさんひっついている。半円形の梳き櫛をおばあちゃんからもらって毎日学校へ持って行った。休み時間に櫛を入れるのが習慣になってしまい、梳いたら点検してシラミがついていたら親指の爪でプチプチと連続殺戮。

春になると暖かいのでシラミは髪から這い出して首筋を降りてくる。シラミは田舎の子にもたかっていたが、われわれ疎開児童の血は新しい味らしくて喜んで吸っていた。下着の縫い目などにひっついていてしつこい。見つけたら悲鳴をあげたのは最初の頃で、慣れたら黙々と両手の親指でつぶしてた。

ノミはその点、飛んで逃げるなど陽気だった。「コーシンチクチクノミガサス」と子供らが叫んだのは、アメリカ空軍の空襲が甲府へまでくるようになったころ。

大阪大空襲のあと母親が弟妹を連れてやってきた。近所の納屋を借りての生活に慣れたころ、ノミシラミの空襲もひどくなった。納屋の壁につってあったゴザなどにも先住の虫たちが住んでいたのだろう。
シラミは大阪でも風呂屋からもらって帰ってナンギしたと姉兄にのちに聞いた。

記憶に残っている先生(わたしの戦争体験記 33)

国民学校の5年間で覚えている先生は一人だけ。5年生のときの担任になった高保先生(男性)だけは忘れずに覚えている。夏休みの間に戦争に負け、1学期では「勝ってくるぞと勇ましく」と歌っていた子供らは二学期になったら民主主義教育を受けることになった。先生がたは大変だったろう。子供たちに教科書を机の上に出させて、都合の悪いところを墨で消すよう指導して大変だった。わたしは意地悪く先生の顔をうかがっていたが、高保先生は子供達を相手に「いままでの先生がいってたことは間違っていた。これから変わっていくぞ」と淡々と告げた。

この時期に子供達を教育していくのは本当に大変だったと思う。男女同権なんてまだ知らない言葉だったけど、高保先生は男女の差別をしない人で女子たちの人気が高かった。

これはまだ戦争中の話だが、あるとき先生が風邪を引いて休まれた。日曜日にK子がT子を誘ってうちにきて、これから先生の病気見舞いに行こうという。珍しく叔母がタマゴを10個新聞紙に包んでくれた。T子は20個の箱入りを持っていた。K子が「うちにはタマゴがない」というので、わたしはふと気がつき、庭の片すみに咲く水仙を切ってK子に持たせた。

先生は水仙を見て、そのお見舞いがいちばんうれしいといった。K子はうれしそうにうなづいた。わたしはK子が「これはくみこさんがくれたづら」というかと思って待っていたが一言もなし。「それはわたしが・・・」としゃしゃりでる度胸もなし。いまだに忸怩たる気持ちを抱えている(笑)。

クリスマスの願い笑

何度も書いているけど、去年の今頃姉の家に夕方買い物して行って晩ご飯をいっしょに食べた帰りにダウンした。それ以来ずっと足腰が不調で難儀している。内臓は丈夫で血液検査を見たお医者さんが「あんたは長生きするよ」といってくれた。声は相変わらずでかいし、大声で笑うので特に電話で相手した人は元気だと思うらしい。関東の兄なんか電話がかかっても自分のことしかいわないから、相槌を打つわたしを元気だと思い込んでいるふしがある。
そうでもないんじゃ笑。
とにかく足腰が達者になってすたすた歩けるようになるのを期待するのみ。ストレッチ頑張る。

ありがたいことに、こどものときから家にいるのが好きで、本さえあればおとなしくしている。長いことミステリファンだったが、最近は折口信夫に傾倒しきって、まだ折口本人の本は恐れ多いが、お弟子さんや研究者の本を読んで周りを固めている。そのうち本の感想を書いていくつもり。今日は女弟子というかものすごいユニークな人の本、穂積生萩『私の折口信夫』を読みふけっている。

監督・製作 ジョージ・ミラー、主演 シャーリーズ・セロン『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』

今夜こそスカッとするアクション映画を見たいなあ、この前のはゲームの映画化で走るシーンばっかりだったから、もうちょっとアクション映画らしいのをと探して見つけた。3年も前のだけど古く感じなかった。
『マッド・マックス』第1作が大好きで、メル・ギブソンの大ファンになって何度も見ている。特に一作目が好き。犬の缶詰を食べるところがおかしくて、いまだに冗談のタネになっている。

今回メル・ギブソンが年取ったから退いて、代わりのトム・ハーディは初めて見たが、雰囲気が似たいい男でよかった。もう一人の主人公フュリオサは女性でシャーリーズ・セロン。きりっとしていて素敵だった。

とにかく、前3作と同じように大掛かりでダイナミックで、あれよあれよのところがいっぱいで満足した。自動車や機械類がいっぱいで近未来的であるが、考えの中心は自然志向で納得できる物語である。
最初から最後まで楽しめた。

怠け者は在宅中

3連休もなんのその、ずっと在宅中である。年末だしどっかへご飯を食べにいこうかと人並みのことを一応考えても、どこへ行っても混んでるしなあと消極的。それよりも家で皿数の多いダンナの料理を食べているほうがいい。

部屋は暖房費をけちらずに薄着で過ごせる暖かさにセットして本を読んでいたらいい。肩こりにはサロンパスを貼って、腰にはカイロを貼って、膝の痛みには湿布を貼って、3時間に一度は体操とストレッチを15分ずつ。その合間にコーヒーを飲みチョコレートをすこーし食べる。

これで22・23と2日間過ぎたので、あと1日も同じように過ごす。さいわい未読本は山ほどある。年末正月も同じように過ごせたらええなあ。

映画『トゥームレイダー ファーストミッション』

すかっとする映画を見たい病にかかっている。理屈のない終わってすかっとする映画笑。

で選んだのが今年公開されたアメリカ映画『トゥームレイダー』。元は世界的な人気のゲームなんだって。わたしはあらゆるゲームと無縁なのでよくわからないが、すごくおもしろい映画だった。

主人公の女性ララは資産家の相続人だが、受け取りを拒否してバイク便のバイトをして暮らしている。ものすごく大きなお屋敷が出てくるので、お屋敷好きのわたしはそれだけでヨシヨシだった。

父親が失踪してから7年、別れの言葉や表情をしっかり覚えているララは、父親の残した隠れ家を見つけ、父が卑弥呼のいる秘密の島を探すために出かけたのを知り、自分も旅立つ。

なぜか卑弥呼が話の中心になっていて、棺桶の中に横たわっている姿が出てくる。

悪い奴がはっきりしていて、暴力行為もさまざまで、あまりこういう映画にもゲームにもふだん縁がないから愉快に見られてよかった。監督 ローアル・ユートハウグ。

新しいメガネ

先週注文した老眼鏡ができあがったと知らせがあったので受け取りにいった。耳にかかるところが黒のプラスチックで見た目もおしゃれでおおいに気に入った。
眼鏡屋さんは話好きでこっちは聞き役。大阪生まれの大阪育ち、アメリカ村のいまはビッグステップになっている中学校に通っていたそうだ。だけど、数年前に思い切って明石に引っ越したそうで、海が見えるベランダで一杯飲む楽しさがなんともいえないとのこと。通勤と比べて夕景をとったわけで通うのに1時間半かかるけどいいんだって。

われわれは「わたしは街の子巷の子」をいまだに変えずに雑踏にまみれて暮らしている。せめてよいメガネで本を読みたい欲求を叶えたいと思っての新しいメガネ。見た目も似合っているそうである。
自分の好みや書評を読んで買った本がたくさんあって、姉の本箱からもらってきた本もあって、ミステリやSFの未読本もいろいろあって、こんなことでけっこう幸せ気分。

声だけ元気

昨日はけっこう疲れた。姉の家では寒くなかったし、道路はすいすいいけて思っていたよりも早く家に帰れたのだが、夜になったらどこかしんどい。
まだ元気いっぱいなときの気持ちのまま、毎日を送るつもりなのがいけないのだ。年齢相応に弱っているところやできないことを認識して立ち向かわなければいけないと思いつつ、声だけは元気なので、聞いた人に元気なおなごと誤解される。実はよろよろなんやけど。
午後につるかめ整体院でマッサージしてもらって少し取り戻したが、やっぱり声だけが人一倍元気なのだ。我が声に励まされて体も元気になりたいものだ。

古い家で考えた

姉の留守宅に行って神棚に榊を供えてきた。毎月1日と15日が榊を供える日だと聞いて、14日に花屋で買ってきたものである。
姉がなにかにつけつぶやいていた心残りのひとつが古い神棚だった。この神棚は結婚したときからこの家にあった。毎日水を換え、月に二度榊を換えるのに背が届かないから台にのっていたが、数年前から台に乗るのがあやうくなり、わたしらが行ったときに掃除とお供えを絶やさないようにしていた。神棚には古いお札がたくさんあり、江戸時代のもある。姉は自分の死でこの家は終わりだから、神棚のものは神社に返したいと常々いっていた。
今日は最後の榊を供えに行った。姉と約束したから新年そうそう夫が近くの神社に返しに行く。

この家は姉の夫の両親が戦争中から住んでいて、二人が亡くなったあと、姉の夫となる人と弟・妹(Tちゃん)が三人で住んでいた。
60年安保が終わった頃、三国駅近くの幼稚園を借りてコーラス団の会長をしていたわたしにTちゃんが友達になってほしいといってきた。「ええよ」と答えてすぐにわたしは「兄さんいる?」と聞いた。「ふん、おるよ」「そのお兄さん、うちの姉さんに紹介してほしいねん」「ええよ、うちに遊びにきて」ということで、わたしは姉を連れてこの家へ来た。それが最初で二人は意気投合して結婚してこの家に住み数十年経った。年を勘定するのが面倒臭いので略すが金婚式まだいったのかな。最後の2年は義兄がアルツハイマーで大変だった。

最初に行った時は団十郎最中を持っていったっけ。Tちゃんがお茶を出してくれたあとは話に花が咲いた。なかなか愉快なお兄さんだった。これはいけそうと帰って母親に報告したわたし(笑)。
そのあと二人は半年も経たないうちに結婚した。結婚式はこの家で友人たちが集まって賑やかにやった。その友人たちはみんな早めにあの世にいってしまった。

結婚してからずっと住んでいた家である。築70年を超えているからずいぶんいたんでいる。義兄の主義で自分の家は持たないということで、借家のままで70年過ごしてきた。大阪市内とはいえ古い土地柄だからできたのだろう。
いま姪たち(姉の次の妹の子)の手によって家中が片付けられつつある。とにかく物を捨てない人なので物が多い。アルツハイマーの義兄が拾ってきた小石まで箱に入れてとってあるんだから。

今日神棚に榊をあげたら、いままですっかり忘れていた過去が蘇った。
最初の日はこの玄関からあがって、このあたりに座って。結婚式はこっちを向いて花婿花嫁が座ってたと、思い出がこみ上げてきた。