暑いのはもういやだ

一度涼しくなったのがよけいに悪い。あと2日で8月が終わるのだから少し涼しくなってもよかろうに。昨日は昼過ぎにすこーし雨が降った。郵便局へ行こうと出たときに降ってきて郵便局へ着いたらやんだ。降り切らなかった雨のせいかよけいに暑い。

夜8時前に地震があった。わたしはストレッチ中で板の間に手作りマットを敷いて横になっていたから建物の揺れをもろに感じた。そのあと電気スタンドの笠が揺れた。速報を見たら震源地は大阪府北部地震と同じ場所みたいだ。

今月もヴィク・ファン・クラブの会報を発行した。通巻320号。
暑さ(多分)のせいで遅れに遅れ、今日ようやく出来上がって明日の朝ポストに入れに行く。内容はいつものように多彩。メンバーは減っているけど、書き手は減っていないのでいろんな話題がたのしい。

宛名シールをつくるのにファイルメーカーというソフトを使っている。他の仕事に使うからその一部を使わせてもらっているというかたちだが、先日バージョンアップしたら、わたしには使い方がわからない。相方に教えてもらってようやくプリントアウトしたのを封筒に貼った。昔はファイルメーカーで「振替伝票」をつくって、それをまとめて経理の「元帳」を作っていた。懐かしく苦しかった思い出。相方のコンピューターの知識と、わたしの経理の知識がからまってできたビルボ(社名)独自の帳簿だった。

毎日納豆とキムチを食べている

夏のおかずとして最高のゴーヤーチャンプルーを毎日食べるようにとだれかがいっていた。うちはほとんど毎日食べている。さきにお酒を飲むからそのおかずにする。その他、肉と魚と厚揚げもよく食べる。食事の皿数が多いので洗うのがちょっとね。

お昼はパスタが多い。パスタのときはポーチドエッグが別皿で出る。上品で美味い。ご飯前に果物を食べ、肉料理のもう一皿は野菜がいっぱい。最後は紅茶となにか甘いもの。

晩ご飯は、そーめん、そばの他に玄米や白いご飯を食欲の都合で食べる。味噌汁は絶対ついてくる。おかずは魚が多いが、野菜がちゃんとついている。キュウリの浅漬けもつく。そして納豆とキムチは必ず。海苔がつくこともある。

自分がつくらないからどんどん食事づくりから遠ざかっていく。なんぎだけどラクなんです笑。せめて個食のときがんばろうと思うんやけど。

四ツ橋電気科学館の屋上(わたしの戦争体験記 10)

四ツ橋筋と長堀橋通りが交差しているところの北側、いまはオリックスの建物があるところに同じようなかたちで電気科学館があった。わたしの1年生から4年生までの遊び場である。みんな学校から帰るとそれぞれ遊びに行った。カバンやランドセルを家に放り出すと走って四ツ橋へ向かう。電気科学館ビルの入り口には守衛さんがいるが、隠れて突入し階段に向かった。5階くらいまで部屋があったと思う。さっさと屋上へ上がるとすでに誰かが来ていて賑やかに遊んでいる。ビルの人たちは黙って遊ばせてくれてたみたいだ。帰りはそおっとおとなしく階段を降りた。

屋上のほとんどが地球の北半球になっており表面はタイルだったような気がする。プラネタリウムの部屋の天井の丸い面に合わせた天井の外側が屋上面だった。
裸足になって地球を駆け上がった。友達と抱き合ってつるつるごろごろ寝転んだり、落としっこしたりして飽きずに遊んだ。タイルの表面が気持ちよかった。

ビルは大阪大空襲で打撃を受けたものの残っていて、戦後には映画館の代わりになっていて、わたしも阪急沿線に住んでいるとき洋画を一度見に行ったことがある。文楽をやってたから見たと誰かがいってた。

風が冷たくて気持ち良い、今夜は満月

昼間はあんなに暑かったのにいまは窓から入って通り抜けていく風が冷たくて気持ち良い。
月齢カレンダーを見たら今夜が満月だ。

昨夜は夜中を過ぎて2時ごろだったか、雨の音が聞こえた気がして様子を見ようと窓を開けた。そしたら西の空に月が輝いていた。
「雨の音かと思って外を見たら道路工事の音だった。月こうこうとして素晴らしい空」
ツイッターにこう書いたら、まだ起きていた友だち数人が「いいね」をしてくれた。昨日の月は「小望月(こもちづき)・十四日月(じゅうよっかづき)とよばれるそうだ。満月前夜のため、待宵の月(まつよいのつき)とも呼ばれるそうである。
偶然だったがいい月を見られてよかった。
今夜はどうかな。もう少しで12時だから、そろそろうちの窓からも見えるかな。都会の空は自由に見られないのが困る。でも見えたときの喜びはひとしおだ。
今夜は満月。

わたしの戦争体験記 9、英霊が還ってくる

西六国民学校の生徒たちは、戦争で亡くなった西区出身の方の遺骨が還ってくると全員で出迎えにいった。学校から川ぞいに四ツ橋まで歩いて、四ツ橋筋の東西の歩道に並んで車道をいく英霊を出迎えた。たしか「海ゆかば」を歌ったような記憶があるが「君が代」だったかもしれない。四ツ橋筋で立っていると街路樹のアオギリの葉が風で揺らいだ。アオギリはアメリカ軍の空襲で焼けてしまったのも生き残ったのもあったが、いまは他の木が植えられているようだ。
いまも軍歌を聞くと、英霊の写真を掲げて道路中央を歩く兵隊さんや家族の方の姿が思い出される。たしか英霊を迎えるための数珠を母親に用意してもらった記憶がある。

「今日はこれで解散」と先生がいうとみんなそれぞれ帰宅した。学校からけっこう距離があるので、学校の西側に家がある子は大変だった。わたしの家はちょうど真ん中へんだったな。いまスーパーライフがある。
なんとなく遊びにいくのをやめてまっすぐに家に帰ったっけ。

台風去ったが

せっかく涼しくなったのに、この2・3日は台風の影響か猛烈な暑さが続いている。暑いというより蒸し暑いので体の内部から「つらい」とか「もうええわ」とか自分から出た悲鳴が聞こえるようだ。昨夜は台風20号がまともに通るとのことで、台風をほっといて寝てしもたらあかんと明け方まで起きていた。おかげで今夜はもう眠い。

昨夜は夜中までたいした風も吹かず雨も降らずで肩透かしっぽく、窓を開けてはなんやいなとつぶやいていたが、明け方前にはかなり風が吹き雨も道に派手にあたっていた。なによりも、少しだけ涼しくなったのがよかった。まあ真夏でもこの時間になれば少しは涼しくなってるが。

今日も蒸し暑い1日になった。こういう日は膝のあたりが痛んで歩くのがしんどいのでかなわん。早くすっきり涼しくなってほしい。

わたしの戦争体験記 8 コーシン チクチク ノミガサス

コーシン チクチク ノミガサス オナカノマワリヲ センカイチュウナリ
翻訳:甲信 地区 地区 蚤が刺す お腹の周りを 旋回中なり

甲府空襲があったのは1945年(昭和20年)7月だった。甲府には空襲はないといわれていたけれど、その夜に市街地の74%が灰燼と帰し、至るところに死体が転がっていたとか。
後屋敷村にいたわたしは母や叔母たちと家の外に出て空をこがす火の山を見ていた。次兄が叔父さん(母の弟)の家のある甲府から逃げて来られるか心配しながら。すでに一度は空襲があって逃げ出せたことがあり、2度目の空襲なのだった。自転車で荷台に着替えなどをくくりつけて兄は逃げてきた。

この空襲の後にラジオでは警戒警報が発令されたと知らせる放送が度々あった。
「米軍戦闘機が甲信地区を旋回中」の知らせをこのように子供たちは歌にした。蚤は子供たちの生活に密着してたし。

地上は猛烈な残暑で地下街は寒くて

昨日はソフトバンクへiPhoneの買い替えに行った。地下街はよく冷えていて、長時間いたものだから腕や膝が冷たくなった。せめて上着か大判スカーフを持ってくればよかったと後悔しきり。帰って半身浴して暖かい紅茶を飲んで蘇ったが、頭のほうが相方の言葉についていけなくて、同じことを何度もいわせてしまった。

ブログを書いたら、廃止したiPhoneを変更した機種と取り違えて書いていた。今日つるかめさんにおかしいと指摘されても納得してなくて、帰宅してからこれじゃと気づき「iPhone 8 64GB Redに変更した」と訂正した次第。昨夜読んでおかしいと思われた方、すみません。
暑さボケなのか、フツーにボケてきたのか困ったものじゃ。

iPhone 機種変更は、iPhone 8 64GB Red

ながらく使っていたiPhoneの調子が悪くなったので新しいのが出る前だが機種変更することにした。iPhone歴長いのに今回で3台目である。あるものは長く使う母親の性格を受けついたのかも笑。
最初はiPhoneが出たときに買った。さすがに並びはしなかったが、並んだ列がなくなったころに買いに行った。うれしくてみんなに見せたり人前で使ってみたりの見栄iPhone笑。
2台目は見栄にもならず、メールはMacですますし、電話は姉との固定電話ばかり。iPhoneのほうは調子がヘンだということでついに相方に点検してもらい、新しくすることに。

今回はすべておまかせすることになって、いっしょに心斎橋のソフトバンクに予約してから行った。若い店員くんが流暢に丁寧に説明してくれたのを、わたしは理解できないが相方が理解して話が進んだ。
結局、iPhone 8  64GB Redを買った。すごくいい色合いでうれしい。前よりも使いこなさなくちゃね。

久しぶりの心斎橋、相変わらず人が多いなあ。
いつのまにか地下にできたカフェでコーヒーとケーキでくつろぎ、地上へ。わたしの足はまだ家まで歩きは無理なのでタクシーにするが、ちょっとだけとユニクロへ寄った。この夏は着るものを1枚も買っていない。在庫が減るばかりなのでなにか着替えをとTシャツを3枚買った。ぼちぼち復活だよん。

「撃ちてし止まむ」てなに?

わたしは昭和16年に国民学校(小学校がこの年から国民学校になった)に入学した。6年生が終わったときに国民学校が廃止されて小学校と呼ばれるようになった。だからわたしは小学校の生徒になったことがない。
国民学校1〜2年生のときは軍国主義教育の始まりの時期だったが、新町の子だし、どっちかというと都会の子供という感じでのんびりしていた。3年生になってから急速にすべてが戦時下的になっていった気がする。

夏休みが終わって宿題の習字や図画を提出すると、全員の作品が壁に張り出される。
習字では、ほとんどが1枚の半紙に「撃ちてし」「止まむ」と2行に書いてあった。意味がわからないわたしは頭をひねったが、先生がこの言葉を教えていたときはぼっーとしていて聞いていなかったのだろう。先生の言葉から推し量って「にくい」と「米英」と2行で書いた。もちろんボツ。でも意味のわからん言葉は書きたくなかった。執念深く70年以上経っても覚えている(笑)。

「撃ちてし止まむ」を検索したら、【出展は古事記の神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつが、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。】とあった。
そうなんだ。だから昭和18年の夏休みに習字の宿題に出たんだ。無視したわたしはよく叱られなかったなあ。