ご馳走は鶏と兎(わたしの戦争体験記 31)

学校で兎を飼いはじめた。校舎の横に50センチくらいに区切った檻が作られ、生徒たちは餌にする草を順番に持っていくようにいわれて朝の登校時に抜いた草の束を兎の檻に放り込む。いろんな草が放り込まれたが、わたしは兎が喜んで食べるチチグサを選んで摘んでいった。細い茎を折るとミルクのような白い液が出る。ある日上級生に「毎日チチグサ持ってくるのはくみこさんけ」と聞かれた。「そうづら」とこの頃は山梨弁で返事したなあ。あの兎たちはどうなったろう。学校の先生たちが食べたのかもな。

叔母さんの家では飼ってなかったが、裏に住むいとこの家では兎と鶏を飼っていた。

ある日、息子に召集令状が届いて戦争に行くことになった。明日の朝は出征という日は「今日はご馳走だぞ、鶏を一羽絞めるから」とそこの父親がいって、鶏一羽を使った汁の大鍋が供された。わたしも丼一杯食べさせてもらった。

鳥鍋を食べ、そこの息子はみんなが寄せ書きした日の丸の旗を鉢巻にして、数人の村人に送られてどこかに出征していった。そのころは田舎の侘しい出征風景が男子のいる家で見られたが、いつのまにか成人男子が村にいなくなった。

次の年の正月は兎の汁がご馳走だった。わたしが採ってきて食べさせたチチグサを食べた兎の汁だからうまかったよ。叔父さんたちは兎の締め方の自慢話をしていたっけ。可哀想とか思うよりも腹が減っていたからうまかった。

家族を乞食と間違えた(わたしの戦争体験記 30)

第二次大戦がはじまったのは1941年12月でわたしは1年生、4年で疎開して1945年(昭和20年)5年の夏が敗戦だった。5年生になって田舎暮らしにも慣れたころ、道で遊んでいると、向こうの方から数人の人間が歩いてくる。「乞食・・」と一声出したら、「違う違う、被災者だ、誰かな」と大人がいった。なんと、その乞食まがいはわたしの母と姉と弟と妹だった。汚れた衣服で顔も真っ黒というか戦災汚れの上に列車の汚れで乞食以下の状況だった。

その日から母なき子だったわたしは母も弟妹もいる子になった。姉は食糧を背中に背負って大阪に逆戻りした。そのとき、わたしが漏らした言葉が大阪の家族全員に伝えられた。「家が焼けてよかった」っていったんだって。家が焼けて母と小さいのが助かって田舎に来たから、わたしは親なき子にならずにすんでほっとしたんだ。

3月14日のアメリカ空軍の攻撃で西区新町の我が家は焼き払われ、父親は焼夷弾の断片が足にあたって怪我をした。

なんとか命は助かって郊外へ逃げ、父の勤務する会社の社員寮の一間に在阪者全員揃ったときはほっとした。その後は母とこども3人がまる1年山梨県に住み、大阪からの迎えを待つことになったが、敗戦を迎えても迎えは来ず大阪になかなか帰れなかった。結局帰れたのは敗戦一年後の翌年の夏だった。そして長い貧乏生活が続く。

夜なべに渋柿の皮むき(わたしの戦争体験記 29)

山梨の家の庭には渋柿の木が何本かあった。渋いから採ったらいけない、柿の枝はもろいから柿の木に登ってはいけないと叔父さんがきつくいっていたので、きれいな実だなと思いつつ眺めていた。夕日があたるとすごくきれいで見飽きない。

寒くなった頃から夜なべ仕事で柿の皮むきがはじまった。これは叔父さんだけしかできない仕事だった。左手に持った柿を右手の包丁で剥いていく。右手の包丁よりも左手の柿が動いていた。その速さ、確実さ、そして安全さに驚いて見入っていた。やってみるかといわれて首を横に振った。「手を切るだけづら」

剥いた柿は叔母さんの手で縄に美しくさげられ、二階の窓からずらりときれいに吊り下げられた。秋の風物詩という感じですごく美しい。この広い窓は柿をぶら下げるためにあるのかと納得した。

寒くなると柿は甘~い「ころ柿」になって仕入れにきた商人に売られ、農家の現金収入となったのだろう。ちょっと傷が入ったのとかをくれたので食べたがほんまにうまかったあ。

今月もヴィク・ファン・クラブの会報出せた

ヴィク・ファン・クラブの会報作りをぼやきながらも仕上げて郵送するのを毎月続けている。創刊以来何年経ったか調べようと思いつつ、まあいいか出してるんやからと自分を慰めている。20年はとうに過ぎ、30年近く経っているはず。

今日できあがったのは2018年11月号である。先月も月が変わってからようやく出した。

来月号(実は今月号だ!)は表紙用にクリスマスのイラストが届いているので、25日には出したいと思っている。がんばるぜ。実は会報はわたしの生きがいでもあるのだ。

大菩薩峠で弟が迷子になった(わたしの戦争体験記 28)

山梨県へわたしを疎開さすために同行した母は、わたしと弟を連れてもう一人の叔母(三女)の家に挨拶に行った。先日書いた恵林寺へ行く途中で道をそれた村だったと思うが、母としては大いに奮発して自動車を雇い、塩山経由で妹の嫁いでいる村へ行った。乗るときも降りるときも自動車が珍しくて村の子たちが群がって見にきた。

叔母と叔父に挨拶してわたしは行儀よくしていたが、いたずら盛りの弟はじっとしていられず、一人で庭から村の方に出て行った。村の子はびっくりだろう。よそ行きを着た小さな男の子ひとりがふらふら歩いている。集団で弟をつけて歩き、弟は上へ上へと逃げたらしい。かなり高いところまで登って行った。家中が大騒ぎになり、近所の人たちも一緒に探し始めたが、なかなか見つからない。追っていった子供らに聞き出して山の途中で大声で泣いている弟を見つけた。

あの山は大菩薩峠だとそのときおじさんがいったのを信じ込んでいまにいたる。半ズボンの可愛い都会の子だったが、村の子には天狗の子に見えたって。

中里介山の『大菩薩峠』は3冊目くらいまで読んで中断したまま。第1巻だけを何度も読んだ。映画は市川雷蔵のを深夜テレビで見て、その後はビデオを借りて何度も見た。

我が家の事件のことは記憶が薄れていたが、連合赤軍事件の大菩薩峠での騒ぎで思い出した。それ以来、叔父の言葉がウソかホントか突き止めたいと思っているがもう聞けない。肝心の弟ももうこの世にいない。

恵林寺へお参り(わたしの戦争体験記 27)

ある日曜日の朝、近所のK子と遊んでいると上級生がついてこいといった。これから「えりんじ」へ行くからしっかり歩けとのことで、モンペにゲタばきだったがついていった。遊びに行くからって着替える服はないし、靴はないし。

いま地図を見たら、山梨県甲州市塩山小屋敷2280恵林寺とある。そこまで後屋敷村(いまは山梨市)から歩いていったのだが、地図を見たら記憶にあるほど遠くない。実はそんなに大変なことではなかったのかもしれない。5・6年生はうんと大人でみんなを引き連れて歩いていた。

野道といってもけっこう立派な道だったが、覚えているのは道の両側が畑で、わたしらは腕を組んだりして歌謡曲をうたいながら歩いていた。

青々とした野菜畑や道端にタンポポやレンゲの花が咲いていたから春だったんだろう。つまらんことを覚えているもので『野崎参り』の歌がぴったりだと思ったっけ。

やがて立派なお寺に到着し、引率者が寺の由来など教えてくれた。

恵林寺サイトの「恵林寺の歴史」には「4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。」と書かれているが、その通りの説明であった。甲州人の心に刻まれている言葉なのだろう。のちにおばあちゃんから聞いたし、母も話していた。

引率者は自分より年下の者に甲州魂を伝えたかったのだろう。

帰りはただうらうらとした春の日の野道を歌いながら歩いていた記憶のみが残っている。鳥の鳴き声も。

お嬢様も疎開(わたしの戦争体験記 25)

山梨の学校に少し慣れてきて、大阪から疎開したわたしへの興味も失せたころ、こどもたちの間にうわさが流れた。あの山のふもとにある大きな屋敷に二人のお嬢様が疎開して住んでいるという。家庭教師がついていて屋敷で勉強しているそうだ。みんなの心にロマンティックな気分が広がった。
とう子さん、きん子さんと二人の名前がどこからかみんなに伝わった。わたしは、唐子、東子、錦子、欣子などと知る限りの文字を当てて想像の二人と仲良くなった。夢の中でいっしょに縄跳びをしたり、お人形ごっこしたり。

噂は結局いっときのことだった。誰もお嬢様がたを見たこともなく噂は広まったものの消え失せていった。わたしだけがずるずると思いを引きずっていた。いまも名前を覚えているぐらいだからたいしたものだ(笑)。

だけど、大きな会社のえらい人のお嬢様とかが疎開したら、唐子さま、東子さま、錦子さま、欣子さまのような生活をしていたんだろうと思う。

糞尿談をもういっこ(わたしの戦争体験記 24)

便所、回虫と話が続いたところへミクシィ日記に転載した「引っ張ったら【回虫】だった」についたコメント「小さな畑に肥を撒いているおばあちゃんを見て」を読んで思い出した。
学校の畑での5年生の授業。クラスの畑としてみんなでなにかを育てるのだが、「肥をやる」と男先生が言い出し、肥溜めから桶にすくい出して運べという。もう一人の小柄な子と二人で天秤棒の中心に桶がくるようにかついで運んだ。桶の中の糞便がゆらゆらして飛び散りそうなのを必死で抑えながら。
二人の顔があまりにも必死で悲惨だったせいか、さすがに二度目はなくまたもやいのちびろいした。【一度目は2018/11/02「いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)】

稲は、苗づくり、田植え、草取り、稲刈り、それを干して積んで、脱穀してと米つくり一通りの仕事をしたっけ。
わたしの好きな畑仕事は「麦踏み」だった。黙って自分のペースでできるから。でもきっと体重が軽すぎて、麦踏みに値する重みがなかっただろうと思う。
麦畑の畝を両足で踏みながら腕を背中に組み横向きに進んでいくのは楽しかったが、畑が広すぎ踏む箇所が長すぎて畑一枚の最後まで頑張れなかった。
ようするに、なにをしても半人前以下だということ。でもなんとなく生き延びていまにいたる。

引っ張ったら【回虫】だった(わたしの戦争体験記 23)

この話はいままで夫以外に話したことがなかったが、前の話の流れで書いておこうと思う。
戦時中はいろんな人のお腹に回虫が住んでいたんじゃないかな。都会でもいるだろうが、田舎の生活だといやでも共生することになる。こやしとしてまいた糞便から回虫の卵が畑の野菜にくっつき、生で食べる漬物にくっついてお腹に入る。
学校では「虫下し」を飲むようにいわれたが、叔母さんにはいわなかった。当時は「なにごとも我慢する」がわたしの信条であった。

ある日、夏だったか冬だったか覚えてないが、便所で座っているとお腹の中がおかしなことになっている。下痢ともなんともわからずに踏ん張った。もてる力を出し切ったら、お尻から白い紐状のものが垂れ下がっている。どうするべ、と考える間もなくその紐を新聞紙でつかんで引っ張った。ずるりと白い紐は垂れ下がり、ぽかっと出きって下の便壺へ落ちて中へもぐっていった。

「あーあ」と安堵の一呼吸をしてパンツを上げ便所から出た。なんといわれるかわからないので、叔母にはいわず。学校でもいわないままいまに至る。

気持ち悪い話だけど、ずるずると出てきて、最後にすぽっと抜けたのが気持ち良かった。
ウィキペディアに回虫の写真があった。そのとおりだった。いまは平静に眺められる。

田舎の家で困ったのはトイレ(わたしの戦争体験記 22)

田舎の家は大きい。二階、三階ではお蚕さんを飼っていた。朝早くから蚕が桑の葉を食べる音が聞こえてくる。早起き夫婦が早朝からカゴを背負ってもいできた桑の葉だ。お昼にはまた捥ぎに行って昼ごはんを食べさす。蚕は繭が現金収入になった。残ったのは糸にしたり、糸から布にしたり、綿にしたり、捨てるところなしで役に立っていた。

叔母の家は左右に長くて向かって左側が座敷、次は掘りごたつが真ん中にある座敷でご飯はここで食べる。二つの部屋には庭に向かって縁側がついていた。右側が玄関兼なんでも部屋。その右が土間で外からはここへ入る。奥は台所で大きなカマドがあり、囲炉裏が切ってありいつでも湯が沸いている。井戸から汲んできた水を入れる大きな瓶が置いてあった。
台所の裏側には風呂場があって、風呂を沸かす日は「ふろ、おくんなって」といって近所の人たちが順番にくる。お湯は当然汚いがそのほうがよいという人もいる。石鹸の溶けた湯に入るのがいいんだって。

トイレは外にある。徒歩1分かからないが外だから暗くて怖かった。おもや(母屋)から便所まで外を歩いて行くので、雨や雪の日や寒い日は大変だった。大きな番傘と合羽が用意されていた。
裸電球が弱々しくまたたき、板囲いで床も板が渡してあるだけ。トイレは丸い穴である。おおざっぱに切った新聞紙がトイレットぺーパーだ。便は大切な肥料なので、溜めて日が経ったものを汲んで畑にもっていき作物の肥料にする。当然、寄生虫がいて、学校で「虫下し」を飲まされた。

便所の外側にザクロと梨の木があり、実は採って食べてもいいといわれていた。おかげで木登りがうまくなった。
足元にはいろんな草花が咲いていた。