中原淳一先生(わたしの戦争体験記 40)

疎開するとき、10歳年上の二番目の姉T子が大切に持っていた中原淳一の絵葉書や雑誌をわけてくれた。戦後に出たひまわり社発行の雑誌『ひまわり』『それいゆ』をそれぞれ1号から買ってくれたのもこの姉である。わたしは国民学校へ入学してから戦時教育を受けて育ったのだけれど、心は中原淳一描く少女だった。淳一が挿絵を描いた川端康成『乙女の港』、吉屋信子『紅雀』の物語が大好きだった。
この2冊は姉が手放さなかったので、田舎には持っていけず、結局はアメリカ軍の空襲で焼けてしまった。戦後だいぶ経ってから古本を見つけたときはものすごく感激したっけ。その後に復刊本を新刊で買ったときのうれしさ。

結局わたしが田舎に持って行ったのは、中原淳一が関わった雑誌『少女の友』数冊と絵葉書が数枚だった。姉が就職した会社の伝票用紙の切れ端や設計室で余った色鉛筆などをもらってきてくれたので、淳一の絵をその紙に写してなぞり色をつけて便箋をつくった。一心不乱に絵を描いて、その横に手紙を書いた。辞めていった先生に送って喜ばれたのがうれしかった。田舎の家の叔母の机の前で必死でつくった便箋がなつかしい。
父が送ってくれた本の他に座敷にしっかりした本箱があって藤村全集その他文学ものが並んでいたから読む本には苦労しなかった。淳一しおりをいろいろ作ってはさんだ。最初のうち藤村全集は「しまざきふじむら」と読んだものだが、「とうそん」とわかったときは恥かし嬉しだったなあ。

そのころの中原淳一はわたしの神様だった。絵が好き、人形が好き、淳一挿絵の物語が好き。
そして、少女への言葉が好き。
インテリアという言葉を知らなかったが、住みよい部屋にしましょうという提案に従って、納屋での生活をまるで『小公女』のセーラの部屋のように空想で仕上げるのだった。
部屋のすみにたたんであるふとんにまだしもの布をかけて見よくするとか、お膳の上に自分が千代紙で作った箸置きを置くとか、ツユクサを活けたり、猫じゃらしを束ねて飾ったり。「この子はまあ・・・」と母は笑うだけだった。こころだけは美少女のわたし(笑)。
いまも淳一絵葉書は大切にしまってある。

焚付けで社会勉強(わたしの戦争体験記 39)

かまどの焚付けと便所紙に『主婦の友』など婦人雑誌の古いのを破って使っていた。叔母さんがいらなくなった古雑誌を持ってくると、わたしが受け取って中身を読む。なんだかかんだか書いてある戦時の女性の過ごし方や生き方やモンペのファッションなど、ふーむといいながら読むのであった。楠公炊きのことを前に書いたけど、婦人雑誌にもこの手の記事がいっぱいあった。お尻にぶら下がった回虫をつかんだのも古雑誌か古新聞だった。便所に入る前に読み、入ってからも読み、未読分は持って出て続きを読む。

連載小説はいまでも好きだが、当時はほんまに好きやったな。貧しい家の息子が勉強できるので援助者が現れ大学に進む。お互いに好き同士の村娘がいるのだが娘は相手の将来を思って身を引く。おお、このあとどうなるの? この物語はハッピーエンドだったような気がするが、どうなったんだろう。
「お世話になる人に挨拶に行くときは羊羹を持って行きなさい。あの方は「夜の梅」が好きだから」と教える先輩がいて、わたしはなるほど大切な挨拶には「夜の梅」か〜と覚えた。いまでも大切なときには虎屋の羊羹「夜の梅」をもっていくことにしている笑。

おほうとう(わたしの戦争体験記 38)

国民学校4年生の夏休みに山梨県の叔母夫婦の家に疎開して、その日から晩ご飯は「おほうとう」だった。味噌汁に野菜(主にかぼちゃとさつまいもとねぎ、たまに油揚げ)とうどんが入っている。うどんは毎日叔母さんが小麦粉を水でこねて、薄い板状に延ばしてからたたんで1センチ幅くらいに包丁で切っていた。かぼちゃが主の汁に紐のようなうどんが入っている。これが毎晩だが、わたしは好きだった。うどんになる小麦粉も自分の畑のもの、味噌も自家製だったしほんまの健康食だ。お客があったりなにか行事のある日はうどんは茹でてザルに盛られ別につくったつけ汁にネギとともに供された。なにか酒の肴は別についていたような。1年中こうだった。特にご馳走のときは鶏と兎が供された。

わたしがいまも内臓が元気で、お医者さんに「あんたは長生きするで」といわれるのは、2年間のおほうとうのおかげだと思っている。内臓だけでなく足腰元気でお医者さんに褒められたいけど、目下は内臓だけでもうれしく思わにゃ笑。
「うまいものはかぼちゃのほうとう」山梨出身の母の言葉。

夜なべ(わたしの戦争体験記 37)

「かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた」って歌がわりと好き。うたごえ運動やってるときによく歌った。うちの母もよく夜なべをしていたが、手袋を編むより兄たちの靴下のかかとの修理に追われてた。とにかく母は忙しくて歌のような情緒などひとつもありゃあせんのだった。

まだ母が田舎へ来ていなかったときのことだが、叔父さんは晩ご飯(毎晩 おほうとう)がすむと夜なべをしていた。囲炉裏の横の縄ない機で縄をなったり、四角い道具でむしろを編んでいた。縄はぐるぐる巻いて積み上げてあり、出来上がったむしろはゴザや畳のようにして重ねてあった。わらじや藁草履を両手で素早く足も使ってものすごい速さで仕上げる。とにかくそれらを作っていく工程が手早い。飽きずに見ていると「いいかげんに寝ろ」と叱られた。でも可愛げのない子供でもうっとりと眺められてうれしかったみたいだ。

朝早く起きて蚕の餌用の桑の葉を収穫してきて蚕たちに餌をやり、その後に朝ごはん、それからあとは百姓仕事、家に帰らず昼ご飯。そのご飯を笊に入れたのを畑までよく運ばされた。ひっくり返さないように気を入れて運んだものだ。
(※昨日まちがって「手袋」を「靴下」としていたので今日10日に「手袋」と訂正しました)

疎開者と引揚者(わたしの戦争体験記 36)

戦後だいぶ経ってからわたしら母子が納屋を改造して住んでいたように、小川の上流に同じような納屋に住み始めた人がいた。母親とちっちゃな子で、母は子を離さずにいつも抱くか背中におぶっていたのを不思議に思ったのを覚えている。母と叔母さんとの会話で新入り母子は引揚者だとわかった。こどもと離されて連れていかれるのをおそれているのだと、ここにいればもう大丈夫なのにと母はいうけど、こどもを取り上げられる恐怖心がおさまらなかったのだろう。

そういえば春頃に学校の校庭で満蒙開拓団へ参加する人たちの壮行会があった。にぎやかとはいいがたい歌と励ましの言葉が続き、わたしたち児童はなにもわからず日の丸の旗を振って見送ったのだった(ウィキペディアに詳しい説明あり)。

引揚者が帰ってきていると村で噂されてたのこの人だった。
こんにちはをいおうと顔を見ると、髪がごわごわ。バリカンで刈ったのではなくハサミでジョキジョキ切ったみたいなざんばら髪が伸びていてすごく見苦しい。すぐに手ぬぐいを髪の上にのせて覆ったが子供心にも恥ずかしさが伝わった。ソ連兵に強姦されるから髪を切って男の服を着て逃げてきたそうやと母が説明してくれた。最後はいつものセリフ「あんたらはこうやって親がいて毎日ご飯が食べられて幸せや」が出た。

母の手伝い(わたしの戦争体験記 35)

5年生の一学期中に狭い納屋に母親を中心に一家4人で住みはじめた。毎日学校から帰ると叔母の家の井戸から水を汲んできて大きな陶器のかめに入れておく。その水で母が炊事をするのだった、食器洗いと洗濯と洗顔は横を流れている小川でやった。川の水は1メートル流れるときれいになるのだと家主さんがいった。たしかにきれいだったがうちしか使ってないし。

母は小さな畑を借りて野菜を作りはじめた。お米のほかの食べ物はここの作物で間に合わせたが、たまにいとこが食べ物を土間に放り込んでくれた。

近所の神社に行って杉の木の葉っぱの乾いたのを拾ってきて焚き付けにした。地元の子はそんなことをしないから見られるとちょっと恥ずかしかった。少し歩くと大きめの川が流れていて、秋になると川床に草が伸びたまま乾燥しているのを折ってきてかまどで燃やすのに使った。弟妹が幼いので、母の手助けはわたしの仕事だった。

母は田植えや草取りを手伝いに行っていくらかの現金またはお米をもらってきた。たまに大阪から闇で手に入れた砂糖など送ってくると、それはうちでは食べずに米と交換されるのだった。空襲の前に衣服を疎開させてあったのは順繰りに食べ物に代わっていった。

ノミ・シラミ(わたしの戦争体験記 34)

髪に櫛を入れて髪の生え際から先まで梳いていく。頭に空気が入って気持ち良い。櫛をしっかり見ると黄色っぽい櫛の節目にシラミがたくさんひっついている。半円形の梳き櫛をおばあちゃんからもらって毎日学校へ持って行った。休み時間に櫛を入れるのが習慣になってしまい、梳いたら点検してシラミがついていたら親指の爪でプチプチと連続殺戮。

春になると暖かいのでシラミは髪から這い出して首筋を降りてくる。シラミは田舎の子にもたかっていたが、われわれ疎開児童の血は新しい味らしくて喜んで吸っていた。下着の縫い目などにひっついていてしつこい。見つけたら悲鳴をあげたのは最初の頃で、慣れたら黙々と両手の親指でつぶしてた。

ノミはその点、飛んで逃げるなど陽気だった。「コーシンチクチクノミガサス」と子供らが叫んだのは、アメリカ空軍の空襲が甲府へまでくるようになったころ。

大阪大空襲のあと母親が弟妹を連れてやってきた。近所の納屋を借りての生活に慣れたころ、ノミシラミの空襲もひどくなった。納屋の壁につってあったゴザなどにも先住の虫たちが住んでいたのだろう。
シラミは大阪でも風呂屋からもらって帰ってナンギしたと姉兄にのちに聞いた。

記憶に残っている先生(わたしの戦争体験記 33)

国民学校の5年間で覚えている先生は一人だけ。5年生のときの担任になった高保先生(男性)だけは忘れずに覚えている。夏休みの間に戦争に負け、1学期では「勝ってくるぞと勇ましく」と歌っていた子供らは二学期になったら民主主義教育を受けることになった。先生がたは大変だったろう。子供たちに教科書を机の上に出させて、都合の悪いところを墨で消すよう指導して大変だった。わたしは意地悪く先生の顔をうかがっていたが、高保先生は子供達を相手に「いままでの先生がいってたことは間違っていた。これから変わっていくぞ」と淡々と告げた。

この時期に子供達を教育していくのは本当に大変だったと思う。男女同権なんてまだ知らない言葉だったけど、高保先生は男女の差別をしない人で女子たちの人気が高かった。

これはまだ戦争中の話だが、あるとき先生が風邪を引いて休まれた。日曜日にK子がT子を誘ってうちにきて、これから先生の病気見舞いに行こうという。珍しく叔母がタマゴを10個新聞紙に包んでくれた。T子は20個の箱入りを持っていた。K子が「うちにはタマゴがない」というので、わたしはふと気がつき、庭の片すみに咲く水仙を切ってK子に持たせた。

先生は水仙を見て、そのお見舞いがいちばんうれしいといった。K子はうれしそうにうなづいた。わたしはK子が「これはくみこさんがくれたづら」というかと思って待っていたが一言もなし。「それはわたしが・・・」としゃしゃりでる度胸もなし。いまだに忸怩たる気持ちを抱えている(笑)。

竹槍で貞操を守る(わたしの戦争体験記 32)

5年生の1学期には戦局が悪いらしいという気分が国民学校生たちの間にただよっていた。コーシン(甲信)地区には警戒警報が毎晩のように発令されていた。学校では男子生徒は柔道や剣道をやらされていた。銃剣持って突撃のしかたとか。

ある日、女の先生が4年生以上の女子生徒たちに竹槍の訓練をするといいだし、次の体操の時間から始めるという。いざとなったら山に登って、追いかけられたら竹槍で抵抗して貞操を守るんだって。そのすべを教えるというのだ。生徒はみんな黙って聞いているだけだった。

休み時間になってもだれもなにもいわない。「竹槍やる」とも「竹槍はわたしらには無理」とも誰もいわなかった。学校には竹槍が何本かあって、それを持って振り回している子もいた。大抵は無視してたが。

次の体操の日になったが、竹槍の訓練の話は出なかった。やるといってた女先生はなにもいわずに跳び箱の訓練してた。

今月はクリスマスまでに届けたい

毎月なんやかや書いているヴィク・ファン・クラブの会報の件、今月は月末にならないうちに、月が変わらないうちに、届けたい。表紙のイラストが猫ちゃんのサンタクロースだから、なんとしても24日までに会員の手元に届けたい。

表紙のイラストは長いことOちゃんに描いてもらってた。とっても長い間、猫を主体に季節にあった楽しいイラストで、マンネリ気味なところもあったが、このマンネリがええんやとわたしは援護してきた。わけあってOちゃんのイラストは今回で終わる。来月からはイラストなしで、表紙から文字びっしりとなるが、それもまたよし。どんどん原稿書いてもらって、読みどころいっぱいの会報にする。

ところで、いまのわたしにはあと数日で作って送れるか自信がない。まだ原稿を書くページがあって、原稿はあるけどレイアウトを考えねばならぬページがある。

まあ、なんとかなるでしょう。Oちゃんのイラストを見ながら頑張る。