シャルロッテ・リンク『姉妹の家 上下』(2)

第一次大戦のヨーロッパで思い出すのが中学生のときに読んだ「チボー家の人々」第1巻「1914年夏」である。それ以来1914年という言葉が頭にしみ込んでしまった。その次にはドロシー・L・セイヤーズのピーター卿とハリエットのシリーズ、そしてヴァージニア・ウルフの「ダロウエイ夫人」と続き、映画の「突然炎のごとく」になる。児童文学でもあったなといま思い出しかけている。

本書のはじまりは1907年、ヨークシャーの地主チャールズは親たちに意地を通して結婚したアイルランド人のモーリーンと愛ある生活を送っている。娘のフランシスは14歳の怒れる娘で女学校がいやでたまらない。辛抱するようにいう恋人のジョンは20歳。美人の妹ヴィクトリアがいる。
しばらくして兄のジョージが恋人のアリスを連れてロンドンから帰省する。アリスは女権論者でフランシスに絶対的な影響を与えるようになる。ロンドンへ出たいフランシスは独身の叔母マーガレットを頼って家に住ませてもらう。

1910年11月18日、「黒い金曜日」としてイギリス女性解放運動の歴史に刻まれたこの日、婦人参政権を求めるデモで115人の女性が逮捕された。この日フランシスは風邪気味で家にいたのだが、負傷した女性が来てアリスからの伝言を伝える。デモの現場へ行ったフランシスは警官を傷つけたとされ逮捕される。拘置所で仲間とハンガーストライキをやり、4日目にはホースで流動食を流し込まれるという不当な待遇を受け体を壊す。
恋人のジョンが面会にくるが話が合わなくなっている。結局、父親が縁を切っていた実力者の祖父に頼んだらすぐに解放された。そのために父は自分の意志を曲げたので、それからはフランシスを無視するようになる。
ジョンは妹のヴァージニアと結婚して政治家として華やかな活躍をはじめる。

第一次大戦がはじまり、ジョージもジョンも戦線に出る。フランシスは看護婦の助手などして二人と出会う。
(園田みどり訳 集英社文庫 上 905円+税 下 876円+税)

三宅菊子さん 追悼/イアン・ランキン

イアン・ランキンの「死者の名を読み上げよ」を読んでいたら、二度も死者の名を読み上げるところがあった。一度目はG8に反対する集会でイラク戦争の犠牲者1000名の名前を読み上げる。読み手が交代しながら読んでいく。二度目はリーバス警部がバーでグラスを掲げて事件の死者の名を5人読み上げ、続いて先週亡くなった実弟の名前を読み上げる。
【死者の名を読み上げ、忘れ去られてないことを死者に知らせる。】

思い出したのは三宅菊子さんのこと。
8月8日に三宅菊子さんが東京都内の自宅で亡くなっているのが見つかったとツイッターの書き込みで知った。それまで何十年も彼女の存在をすっかり忘れていた。
わたしが彼女のことを知っていたのは、作家三宅艶子さんのお嬢さんである菊子さんが、松川事件の被告だった佐藤一さんと結婚したときだ。朝日新聞に広津和郎さんの小説が連載されたのが1954年だといま検索してわかった。わが家は一家で愛読したというのは松川事件に関わっている広津さんの小説だからだ。年齢からいって三宅さんが秘書をしたのはもっと後かしら。とにかく被告だった佐藤さんと結婚したというニュースはショックだった。祖母が三宅やすこ、母が三宅艶子という作家を家族に持つ毛並みの良いお嬢様がというショックだったかな。お嬢様だからこそできたとも思った。初期の「アンアン」にお二人の写真があったような気がする。小津安二郎の映画の一シーンのようだった。

いま検索したら著作もたくさんあり、東京の出版界で活躍されていたのを知った。きりきりしゃんとしたひとだったみたい。
ここに、名前を読み上げ、ご冥福をお祈りします。

クミちゃんとクミさん

昨夜は映画「コントロール」を見てからブログ(酒井隆史「通天閣 新・日本資本主義発達史」読了)を書いたんだけど、映画の影響を横において大正時代の大阪に向き合うのがちょっとしんどかった。今日はその本を図書館へ返しに行った。返却日が近づくと慌てるのはよくないけど、暑くてしんどいときによく読んだわ(自画自賛-笑)。このあとはミステリが待っている。

今日の午後は東京から友人がきて久しぶりのおしゃべり。30年くらい前によく大阪で遊んだ子で、仲間からは同じ名前のクミコを彼女はクミちゃん、わたしはクミさんと呼ばれていた。10数年前に一度うちへ来てくれて数時間しゃべったことがあったが、ほんまに長いご無沙汰だった。今回はダンナ様もいっしょ。フランスの女優みたいなろうたけた美人な彼女。楽しげな年下のダンナさん(実はうちもだが-笑)。一人娘さんは高校生だけどカナダに留学中だそうだ。
心斎橋で会って2時間ほどしゃべった。ブログを読んでくれてるし、ツイッターでフォローしあっているからたいていのことは知りあっているんだけど、元気な顔を見るのはまた格別だ。VFC BBSの話まで出てきたのにはびっくり。あのときは苦労したけど、会員外のひとにも影響(?)を与えたと思うと苦労した甲斐があったかしら。
もう一人の遊び仲間メグちゃんもいたらよかったのにな。
変わらないといってくれたけど、いくら髪を染めてもそれはねぇ(笑)。ただ遊び好きが変わらないのは自信あり。楽しい午後を過ごさせてもらってうれしかった。

久しぶりにひとりで夜の外出

ここんとこデモと集会の他には遊びに出ていなかったような気がする。昼はほとんど家にいて時間があれば本を読んでいるかネットやっている。それで退屈ということがないから幸せなんだろうと思う。でもたまには出かけなきゃ、こころが狭くなる(笑)。

今日はDJのmaikoさんとデイト。堀江のカフェでご飯を食べながらしゃべってすごーく満足。その上にお土産のパンと布袋をもらってうれしい。わたしからはアメリカの少女たちを描いた本をお土産にした。ほんまに女子はええわ。
彼女は自転車なので店の前で別れてから、せっかく堀江まで来ているのだし、アメ村の本屋に寄って行くことにした。
アセンスで立ち読みして雑誌を買って帰り道に、バー コンピューファンク前を通ったら営業中の看板が目につき、LEMIちゃんに会っていこうかなと階段を降りた。そこでお客さんを交えて雑談。猫の話題で盛り上がり、充分しゃべって帰った。
帰ってからお茶をいれてmaikoちゃんのパンをご馳走になったが、すごくうまかった。半分は冷凍してのちに食べる。
久しぶりの夜の外出は楽しかった。

帰ってメールチェックしたら、このブログの「プロフィール」ページから出せる「届けっメール」でヴィク・ファン・クラブへの入会申し込みが届いていた。今日は最後まで気持ちのいい日だった。

修道女フィデルマの物語を読んでいて思い出したこと

「サクソンの司教冠」はピーター・トレメインの修道女フィデルマシリーズの7冊目、短編集が2册と長編で上下になったのが3冊あるから冊数からいくと10冊目。
7世紀のアイルランドを舞台に修道女フィデルマが活躍するシリーズだが、今回は教会会議に出席する代表たちに法律上の助言をするためにローマにきている。
フィデルマはローマの司教にアイルランドの王たちは法廷に女性が立つことを認めているのかと問われて「修道女であるだけでなく、アイルランドのブレホン法の法廷に立つドーリィー(弁護士、時には裁判官としても活躍)でもありますので・・・」と答えている。
7世紀のアイルランドの物語を読んで羨ましがってます(笑)。

さっき、お風呂でわたしが若いときから比べると世の中は変わったといえる出来事を思い出した。もう30数年前のことだ。仲良しの女性が結婚した。もちろんずっと働くつもりでいる。結婚披露宴は会費制でたくさんの友だちが集まっていたが、挨拶でだれもが彼女に内助の功を求めるのである。しかも挨拶をするのは男性ばかり。わたしはだんだん怒りが溜まって、ついに手を挙げて「彼女ばかりが内助の功を求めらてますが、彼も彼女のために内助の功をやってください」といったら、しらけ鳥が飛んだ(笑)。

まだまだ女性の賃金は低く家事労働の負担も大きい。でも反原発のデモに行くと元気な女子がいっぱいいて、子どもを連れたお母さんたちが元気だ。すこしは世の中進んでいるよね。そう思いたい。そうやなかったらやっとられん(笑)。

モリッシー

今年来日公演があってツイッターなどで名前を見たものだから、気になって紹介されていた最近の動画を見たりしていた。
今日は本を探していたら本棚の奥に「The Smiths」(「もう誰にも語らせない。」ザ・スミス写真集)があった。1994年にロッキング・オンから出た本でモノクロの大胆なレイアウトの本だ。どこで手に入れたのか大判のカラー写真も数枚挟まっていた。
だいぶ前のことだが在庫の本を整理したとき処分するほうに入れたのを読み直していたら、モリッシーのインタビューにいい言葉があったので残しておいたものだ。(この言葉はヴィク・ファン・クラブサイトにある「わたしのサラ・パレツキー論(1)」にも引用している。)

【「…僕はほんとうにたまたまフェミニストの作家にとても影響を受けてしまったんだ。モリー・ハスケル、マージョリー・ローズにスーザン・ブラウン=ミラー。名前を挙げ始めたらきりがないよ!
フェミニズムの話ばかりし続けたくはないけど、フェミニズムというのは理想的な状態なんだ。でも理想を超えて現実のものとなることは決してないだろう。この社会は強い女性を忌み嫌っているからね。気絶し、へつらい、結婚しか望んでいない。そういう女性だけを好む社会なんだ。神経過敏になっているわけじゃないけど、この問題は僕の曲作りになくてはならない要素になっている。」】
※モリー・ハスケルの本を1冊持っている。「崇拝からレイプへ 映画の女性史」(平凡社)

パンク・ニューウェーブを聞いていたのは70年代後半から80年代前半の数年だから、ザ・スミス(1982〜1987ギターのジョニー・マー脱退・解散)をきいたのは最後のほうになる。レコードとレーザーディスクを持っていてモリッシーの異質の美に惹かれた。上記の本はそのあとに買ったものだ。いま読んだらモリッシーとジョニー・マーの危うい甘さがただよってきてせつなくなる。この本が出たときは彼らの仲はすでに終わっていて、そのことを書いているひとの気持ちにもせまってくるものがある。

長いあいだ聞いてなかったので、なにかないかなとユーチューブを探したら素晴らしいライブがあった。Morrissey – Festival de Viña del Mar 2012 HD – Show Completo
今年のライブで1時間20分ある。そして55分ごろに衝撃的な画面があるのでぜひ見てほしい。ゲイでベジタリアンでマンチェスター出身のイギリス労働者階級の代弁者モリッシー、50代になったが健在です。今夜はすごくうれしかった。

井上理津子『さいごの色街 飛田』

会社勤めのころ男性ばかりの職場だったから男性どうしの話を漏れ聞いていたし、わざわざ女子のわたしの耳に入るようにしゃべるやつもいた。飛田や松島やキャバレーやアルサロや、いやでも耳年増になっていた。売春防止法もなんのその遊ぶところはいっぱいあったようだ。「店先で見た女と恋愛してから2階へ上がるんや」と教えてくれたおっちゃんがいた。ほんまに杓子定規には世の中はいかないものだということを若いわたしは思い知っていた。だって会社の連中は働き者ばかりやったから。

本書を開くとすぐに、著者が知り合い等に声をかけて飛田経験を聞いている。普通の男性たちがものすごく具体的に語っているのにおどろいた。「不倫するより健全」「150回行った」という人たちがいる。老人ホームのバスから降りて杖をついて店に入っていく老人たちがいる。

本の入り口でおどろくが興味が深まって次へいくと「飛田を歩く」章になり、飛田への道の説明となる。地下鉄御堂筋線の動物園前駅で降りて道路へ出ると北側はじゃんじゃん横町を経て新世界へ出る。南側へ行くと飛田商店街(いまは動物園前一番街となっている)である。この道を行くとトビタシネマがあったと思い出して検索したらいまもある。70年代はここでけっこう映画を見た。
地下鉄御堂筋線は大阪の中心を走っている。千里中央から新大阪、梅田、そして御堂筋に面して淀屋橋、本町、心斎橋、難波と大阪の中心地があり、そこから2駅で飛田に通じる動物園前駅があるのだ。わたしは新世界が好きで東京から友だちが遊びにくると連れて行くが、みんな動物園前駅から路上に上がると荒涼とした風景にたじろぐ。わたしは向こう側の道へ入っていくともっとすごいところやでと言いつつじゃんじゃん横町へ案内している。

「飛田のはじまり」では、詳しい場所の説明があって飛田の歴史が語られる。〈日本で最初の女子デモは大阪 井上理津子「さいごの色街 飛田」から〉に書いた反対運動もこの章である。
ヤクザの取材やここで働く女性たちへの取材、店主たちや店のさまざまな仕事に携わる人たちへの取材も生々しく読み応えがある。

最後の飛田からこつ然と姿を消した原田さんを探し出して雪の北陸へ訪ねていく章がよかった。
(筑摩書房 2000円+税)

宮本百合子「伸子」「道標」

最近ツイッターで「百合子、ダスヴィダーニヤ」という言葉をよく見かける。ダスヴィダーニヤというロシア語っぽい響きで、きっと百合子は宮本百合子だろうなと思った。よく読めば湯浅芳子の名前も出てきてどうやら同性愛のふたりを描いた映画らしい。
検索したら「百合子、ダスヴィダーニヤ―湯浅芳子の青春」 (沢部ひとみ著 女性文庫) という本があり、「往復書簡宮本百合子と湯浅芳子」(黒澤亜里子編さん  翰林書房) という本がある。すこし興味はあるが買ってまで読む気はない。

「伸子」なつかしいな。なんせ50年も前に読んだ本であるから当時は同性愛もなにもわからなかった。吉屋信子の「S」はわかってたけど、あれは麗しの世界のことで(笑)。
若くしてかなり年上の男性と恋愛結婚した伸子がついに離婚することになり、鳥かごから鳥を離した元夫が「鳥でももどってくるのに、君は・・・」というところを覚えている。先日、青空文庫で読み出したけど途中から飛ばして湯浅芳子が出てくるところを探して読んだ。なるほど愛の雰囲気が読み取れる。
次に「道標」を読んだ。物語の最初が列車でモスクワへ着いたところ。ふたりのモスクワ生活がはじまる。小説の中では伸子と素子で、素子は伸子のことを「ぶこちゃん」と呼んでいる。実際には「りこちゃん」と呼んでいたのかな。
【白い不二絹のブラウスの上に、紫の日本羽織をはおっている伸子が、太い縞ラシャの男仕立のガウンを着ている素子について、厨房のわきの「浴室」と瀬戸ものの札のうってある一つのドアをあけた。】なんか百合って感じがする。
こちらも途中まで読んでやめた。

宮本百合子はすごく読まれた作家だった。我が家は姉2人が買った本を受け継いでわたしと妹が読んでいる。いつごろからか翻訳小説ばかり読むようになった。ボーヴォワールとかサガンとかオースティンとかのほうがおもしろくなったのだ。

ミシェル・ティー『ヴァレンシア・ストリート』

デモ帰りに難波のジュンク堂をぶらぶらしていたとき目についた新刊書。表紙がこっちを向いていて、服部あさ美さん描く肩を抱いた女性二人の顔に惹きつけられた。この本買おうって即思った。
サンフランシスコに生きるレズビアン女性の愛と生活を描いた自伝的小説で、原作は2000年に発表され、ついさきほど5月に翻訳が出た。
読み出したらアンドリュー・ホラーラン「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」を思い出した。あちらはゲイでこちらはダイク(レズビアン)の物語だが、どちらも愛の物語である。読み終わったら「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」を読みたくなったが、貸し出し中なのでしかたなく自分の書いたブログを読んだ。自分の熱さに笑った。

「ヴァレンシア・ストリート」は「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」のような物語ではない。主人公のミシェルの昼と夜の愛と快楽と金を稼ぐための労働が淡々と綴られているだけである。淡々とではあるが、かなりえげつないセックスや第1市民なら眉をひそめるであろう行為(公道でおしっこしたり)が描かれている。その書き方に〈いま〉を感じた。もともと本書はミシェル・ティーがクラブやライブハウスなどでジン(ファンジン)に書いた詩を朗読していたものが主になっている。
書くことがネット主体になる前にはアメリカではさまざまなジンが発行され、ひとりで発行するのや共同作業でつくるジンがあった。いま、わたしがそういうことを理解しているかのように書いているのは、少しだけ大阪のクラブシーンを覗き見ているからだ。ミシェルのジンをクラブイベントのフライヤーから想像できる。

たくさんのレズビアンの女の子が描かれていて、それぞれ個性的で楽しい。死んでしまった子もいるしカナダへ帰った子もいる。セックスのやり方、タトゥーの絵柄、酒の飲み方、会話・・・いろんな女子たちの交流があり、物語が終わっても終わらない愛の生活が続いていくのが見える。
(西山敦子訳 太田出版 2850円+税)

おばちゃん、おばあちゃん、とか、わしは言われとうない

さっきツイッターをやりながら相方が怒っているので、どないしたん?と聞いたらこういうことだった。ロイターの記事に『「おばあちゃんDJ」、フランスのナイトシーンを席巻』というタイトルがあって、このタイトルはないやろということ。
パリで69歳の英国人女性ルース・フラワーズさんのDJとしての才能に注目が集まっているという。サングラスでおしゃれなかっこしたルースさんの写真がある。すごーくカッコいい。相方の言い分は「おばあちゃん」とはなんやねんということ。そんならおれは「おじいちゃん」か、言われとうないわということだ。

わたしも経験がある。神戸の震災ボランティア「週末ボランティア」に参加していたときのこと。若いだろう女性に「おばちゃん」と呼ばれた。一度目は「あんたのおばちゃんとちゃうで」と言ったが、二度目は無視した。だって「おばちゃん」とちゃうもん。周りの人たちが息をのんでいる。言った本人もじっとしていたが立ち去った。仲間とべちゃべちゃしゃべりながら。その後のレクチャーのとき、代表が「おばちゃん」は使わないようにと言った。「おかあさん」と言いなさい(笑)。