なんじゃもんじゃの花

先日木津川まで散歩したとき、通りかかった道になんじゃもんじゃの花が咲きかけていた。そのときは「この花変わった名前やったね」といって名前を思い出せなかった。「だいぶ前やけど、プールに行ってる時に札がついててわかったんやね」と語りあったが名前が思い出せず。「変わった信じられへん名前やったな」といいながら帰った。

それがですね、いまなぜか突然思い出したんですよ。「なんじゃもんじゃやった〜」って。検索したら木と花の写真が出てきて「これや、これや!」とうなづいた。どこから出てきたんやろ。

以下、コピペさせてもらった。
「一葉たご(ひとつばたご)というのが正式の名前。木犀(もくせい)科。開花時期は、 4/20 ~ 5/10頃。」

おやつにホットドッグ

なぜか炊事係がときどきおやつにホットドッグをつくるので、一人前をありがたくいただいている。でも一個ずつお皿にのっていると、からだの大きさと労働力の多さを考えざるを得なくて、ときどきは半分だけいただくわと遠慮する。そしてソンした気分を味わう(笑)。

映画のシーンを思い出して、チリをもう少し、いえ、もっとたくさんつけて、そうそう、もう少し、なんていってみたりして楽しむのも好き。

甘いものが好きだからケーキや菓子パンのおやつのほうがいいと思うが、コーヒーいれたらホットドッグのほうがいいかな。どちらにしても遠慮なく食う。たまに、ご飯の代わりにホットドッグで、デザートがケーキってのがええな。炊事係がせえへんけど。

キャベツのミートソースかけ、カンタンうまい

最近我が家の昼ご飯にも晩ご飯にもよく登場するキャベツ料理。ミートソースをかけた若いキャベツがうまい。ミートソースを多めにつくり、キャベツで半分食べて、残りは次回パスタにかけて食べる。一度つくれば二度おいしい。

キャベツを縦半分に切って大鍋で熱湯に塩を入れて茹でる。別にフライパンでオリーブオイル、ニンニク、ひき肉の順番に入れて炒める。肉の色がかわってきたらトマトの水煮缶を汁ごと入れて10分ほど煮込み、塩、胡椒する。
キャベツの熱いうちに4等分の櫛形に切り、皿に盛ってミートソースをかける。

以上、豪華で簡単でおいしいイタリア料理。
最近、しょっちゅうテーブルに出てくるので、作り方を聞いて一度ブログでジマンしようと思ってね(笑)。
『おうちでイタリアン』(講談社 1500円+税)

ヴィク・ファン・クラブ会報4・5月合併号発行するよ

10連休が終わって、今日はみんな仕事や勉強や日常にもどったことでしょう。うちのへんは休み中は静かだったけど、今日はクルマが通るし建設工事の音は響くし、しゃべる声が響くしと騒音の日常に戻った。じっと静かよりもなんなと音がしているほうが落ち着く(笑)。

今月は毎月出しているヴィク・ファン・クラブの会報をさぼった。連休中は郵便配達が休みと知って、月末にでき上がってもどこかで詰まってしまうと思い、休み中はなんにもしないことにした。本を読んだり映画を見たりしよう。そりゃ作っておいて連休が終わると同時にポストに入れたら一番だが、せっかくの休みだから休んでしまおう。

そう思って毎日お昼まで寝て、甘いおやつを食べて、本を読んで、iMacで映画を見た。そして、しゃべって、ストレッチして、遅くお風呂に入って、ツイッターに熱中した。
そんなもんで、今日から会報制作中。30年近く会報をやっているが合併号は初めてである。きっと会員の皆様は待ちくたびれていることでしょう。

なんとか今週中に仕上げて送りたい。やり出したらけっこう頑張るからいけるかも。でも頑張る気力があっても体が追いつかないかもしれない。まあ、やってみよう。

白髪にもどすことにした

わたしの家系は白髪になるのが早くて男女ともに40歳をすぎると白髪が目立つ。姉とわたしは早くから染めていたが、妹は染めない自然派でずっと白髪でとおしてきた。知らぬ人からはわたしが妹に見える。姉が80歳頃から染めるのをやめ白髪にパーマをかけウェーブをつけるようになって、染める派はわたし一人になった。

1980年代はわたしは40代で白髪になり始め、右前髪が白い束になって目立つようになっていた。それでも気にせずに遊びまわっていたが、ある日、四ツ橋筋にあったパームス(1階カフェ、2階バー、地下ディスコ)のディスコで遊んでいたとき『ロックマガジン』の阿木譲さんに声をかけられた。「照明で白髪が光っているよ」「あっ、ほんまに〜 苦労が多くて白髪が増えてます」あとは笑いでごまかしてホッ!
その後、気になって行きつけのアメ村の美容院で染めてもらうことにした。それ以来美容院は変わったが髪は欠かさずに染めている。
最近はハイライトを入れてもらってより美容師さんの技術が光っている。だからずっと染めているつもりだったのだが、そろそろ80代も後半に入ろうとしているのに、ハイライト入り茶髪で、後ろから見たら10代(?)では、あまりにもでないかい(笑)。

先月、美容師さんが入院することになった。「退院を待ってるからね」というていたのだが、髪は勝手に伸びてきて、白髪が目立つようになった。ここで半年くらい見苦しいのを我慢して白髪にするか。
いま根元から1センチくらい伸びている。めちゃくちゃ不細工だ。でもこれを乗り越えたら白髪のレディになれる。
さいわいお気に入りの夏帽子がある。暑い間はこの帽子をかぶって乗り切ろう。涼しくなったら似合う帽子を探そう。

散歩日和の休日

いつものように朝寝坊して朝昼兼用ご飯を食べたら午後も遅い時間で、昨夜は明日どっかいこうかといってたんだけど、どっかへ行くには遅い。散歩して帰りに阪急オアシスで買い物してあそこの一休みコーナーでお茶しようと話は決まった。木津川に沿った遊歩道は去年一度歩いたが、とてもおしゃれな道で、犬を連れた人の散歩にもってこいだし、足の悪い人の健康散歩にもちょうどよい。

今日はまず大迫橋まで行った。橋を渡らずに左折すると木津川沿いの遊歩道である。左側は新しいマンションがいろいろ建っていて、建物前の芝生には犬連れの女性がたくさん集まっておしゃべり中。
道に沿って草花が植えてあって野いちごの実がなっていた。川の水もきれいでのびのびとした感じ。大阪市内でええとこが近くにあってええなあと口に出したが、去年もそういったのにその後は一度も行ってない。今年はどうなるかしら。

松島橋まで出て渡らずに我が家方向へ。新なにわ筋へ出る前に3月開店した阪急オアシスがある。わたしは初めて入ったが広くて高級感あるスーパーで、今夜の食料買い出しはワインに合う出来合いのおかず。上手な並べ方に誘われて柏餅も買った。

桑の皮の国民服と桑の葉のお茶(わたしの戦争体験記 57)

桑の実ほど美味しいものはなかったといまも思うほどに、疎開した山梨県の桑の実は美味しかった。田舎の子が食べているのをあんまり見たことがなくて、わたしは一人でむさぼり食べていたが、みんな桑の実よりうまい果物が自分の家の庭にはあったんだろう。むさぼっているところをじっと見つめられた記憶はない。桑畑がいっぱいある上に畑の外側や道に勝手に生えている木があって、たいていの木に実がなっていた。

疎開した4年生の夏休みの宿題に桑の枝の皮をむいて干したのをもってこいというのがあった。わたしの初登校の日、みんなリヤカーや自転車で運んだり、担いて運んだりした。わたしはみんなの10分の1くらいの1束を持って行った。この1束だって叔父さんに手伝ってもらってやっとできたもの。

桑の皮むきは桑の枝の皮をむいたのを乾燥し繊維にして布地にし服を作るという国家の計画だった。その夏の国民学校生徒はいっせいに桑の皮を供出した。次に桑の葉を乾してお茶の葉代わりにせよと命令がきた。生徒全員が桑畑で葉を採集してムシロに広げて乾した。こちらは簡単だったけどお茶はどうにもこうにもまずかった。桑茶といって薬用になるくらいだから乾し方にきっと工夫があるはずだけど、ムシロで乾しただけだからうまくない。

忘れた頃に桑の皮の服が学校に届けられた。ごわごわして気持ちわるかった。当時、木綿の代わりに化学繊維のスフが使われるようになっていたが、スフよりずっとごわごわしてたのが桑の皮の繊維だった。

天気が良いから

連休前半は雨の日が多くて湿っぽかったが、後半になったら良い天気に恵まれている。家事日和だ。どこにも行かないし、誰もこないし、電話もないし、好きなようにおやつ食べたり片付けしたりネット三昧したりで楽しい日々。同居人は出かける楽しさを満喫しているが、わたしは在宅の楽しさ満喫(笑)。

洗濯がいくらでもできるのがありがたい。空気が乾燥しているところへお日さんがよく照るのでよく乾く。狭いベランダだから乾いたら取り入れ、また次ぎを干す。
冬に使ったものをなんでも洗っておく。ひざ掛け毛布や肩掛けもみんな清潔になった。椅子においてあった座布団は捨てて新しく買ってきてある。薄いスカーフは梅雨になったら使うからこれからが出番だ。

読みかけ本を読み上げてしまおうと思うが、これが何冊もあってややこしい。感想を書こうと思うと最初から読み直さないといけないので、早くもめげそうになっている。

国民服と国防色(わたしの戦争体験記 56)

日本大百科全書の解説によると、「日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装」とある。我が家も兄たちの学校行きの服や、父親の通勤服が国民服になっていった。(まだ疎開前のこと)兄たちは国民服を着て肩掛けカバンをかけ、ズボンの上からふくらはぎにゲートルを巻いた。上の兄はコツがあるらしくうまく巻いていたが、下の兄が下手くそで毎朝かんしゃくを起こしていたっけ。

女子はブラウスやセーターにモンペだったが、大阪の学校に通っていたときはまだスカートだったような気がする。おしゃれで裕福な子からモンペ姿になっていった。わたしは夏に山梨県に疎開したときはスカートだったがその秋からモンペになった。最初はピンク色の入った絣のモンペがうれしかったけど、おばさんが洗濯をしてくれなかったからピンクが汚れて見苦しかった。

国民の着るものが国防色という気持ち悪い色に統一されてしまい、ネクタイなんてすっかり忘れられた。布地がスフというのがさっきアタマの中から出てきた。スフという言葉をよく覚えていたもんだ。スフでできた衣類は洗濯するとごわついた。着ても暖かくなかった。母親は古着かスフか家族の着るものに困っていた。それよりも食べるものがなくて困ったから着るものは第二第三の問題だったかも。
おしゃれな甲府の叔父さんも田舎の道で会ったとき国民服だった。さすがにアイロンのかかったのを着ていたが一回り大きくて哀れな感じがした。

つくしだれの子

今日ちょっと驚いたこと。
40歳過ぎの男性なんだけど、ひと月ほど前にしゃべったときのこと。家の近所につくしがいっぱい生えているのを見つけたそうだ。そのつくしと思われるものの説明を聞いてわたしはそれはきっと「つくし」やで、近所につくしが生えてる場所があるっていいねと答えた。ついでにつくしの食べ方も。

今日はその「つくし」がなくなって、つくしがあったところに緑の筋のようなものが生えているという。おかしくなって「それスギナや、ツクシがスギナになるねん」と答えて、「つくしだれの子 すぎなの子 土手の土そっとあげて つくしの坊やが顔出した いうねんで」といった。これ歌かな? 一年生の教科書の本文にのっていたのかな。

つくしをおひたしにして食べたいな。あまりうまくはないけど、春の香りがするよね。