フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(1)

おととし5月のこと、読みたい作品があるので買った「ミステリーズ!」4月号にフェルディナント・フォン・シーラッハの短編小説が2つ掲載されていた。それと2011年1月の「ベルリン新聞」に掲載されたエッセイ「ベルリン讃歌」もあって、いっぺんにシーラッハのファンになった。
それから間もなく短編集「犯罪」と「罪悪」が出たのを買って、友人たちにまわしたあとは本棚のいちばんいいところに並べてある。
今年の4月に長編小説「コリーニ事件」が出た。難解そうだなとすぐに手を出せずにいて夏のはじめに買ったのだが、やっぱりきつい内容で、暑さもあってすぐに感想が書けなかった。
昨日シャーロック・ホームズでギネスを片手に読み出して2時間。ちょうど半分まできて、帰宅してから残りを読んだ。二度目だから理解が早かった。

著者シーラッハの祖父はナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハである。彼はニュールンベルグ裁判で禁錮20年の判決を受け1966年に刑期満了で釈放された。著者が2歳のときだった。著者は12歳のときはじめて祖父がだれかを知った。歴史の教科書に写真が載っていたのだ。隣のページには抵抗運動の闘士の写真があったが、その闘士の孫とは教室で隣同士に座っていて、いまも交際している。
シーラッハは1994年から刑事事件の弁護士として活躍してきた。

コリーニは高級ホテルのエレベーターに乗り5階で降りた。スイートルーム400号室のドアを叩くとハンス・マイヤー本人が開けてくれた。記者と偽りインタビューを申し込んであったのだ。客室に入るとコリーニはマイヤーの後頭部を拳銃で4発撃ち、死者をひっくり返すと死者の顔を靴で踏みつけた。部屋を出てロビーに降りると静かにフロント係に警察を呼ぶように言った。

日曜日、事務所の片付けをしているカスパー・ライネン弁護士のところに登録してある刑事裁判所から電話がかかった。弁護士のいない被疑者がいるとリストの順に電話がかかることになっている。ライネンは国家試験に合格してからアフリカやヨーロッパを1年間かけて放浪した。弁護士になって42日経ったところで、2日前に玄関に表札を出した。
捜査判事のところにすぐ顔を出すと、大事件なので上席検察官がくるという。被疑者コリーニは弁護士はいらないと言う。家族も友人もいない。イタリア人だが35年ドイツで暮らしている。自動車組立工としてダイムラー社で34年働き定年退職した。

ライネンは日曜日の残りを湖の畔で過ごした。夕方事務所へ寄ると留守電が入っていた。昔の親友でいまは亡きフィリップの姉のヨハナが電話をくれと言っている。ライネンはしばし回想に耽る。二人はいつもいっしょに遊び学んでいた。
ヨハナによってコリーニに殺されたハンス・マイヤーはヨハナと亡くなったその弟の祖父だとわかる。フィリップは両親と自動車事故で亡くなり、ヨハナひとりがマイナーの身内である。
(酒寄進一訳 東京創元社 1600円+税)

フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(2)

博士号を持ち大学教授でもあるマッティンガーは妻を早く亡くし、愛人を家に入れている。2000件に及ぶ殺人事件の裁判で負け知らずであり、依頼主が銀行家や由緒ある旧家になって久しい。依頼の電話を受けてマイヤー機械工業の大きな面談室で法律顧問たちと話し合った。ヨハネとも会い最善を尽くすと約束する。
裁判所でライネンはマッティンガーを見かけて挨拶する。ライネンはこの仕事から降りるつもりだ「わたしはマイヤー家で育ったようなものなのですよ」。それへの返事は「弁護士の仕事は依頼人のために働きしっかり弁護することだ」。
一階の小さなパン屋の主人は、自分は離婚してパン屋の店を失った。いつかまともなパン屋にもどれるかもしれないといい、「あんたは弁護士なんでしょう。弁護士のするべきことをしなくちゃ」。

ライネンは父に誕生日の電話をする。父は猟銃の掃除をしていたと言った。そこでライネンはコリーニ事件の調書にあった「凶器:ワルサーP38」を思い出した。
彼はルートヴィヒスブルクの書庫へ出かけ5日間ホテルに逗留して、膨大な情報を探し出す。これでするべきことがわかった。
マッティンガーの65歳の誕生日に招かれて出かけると800人の招待客が詰めかけて華やかなものだった。マイヤー機械工業の法律顧問が声をかけ、コリーニの弁護をやめるならマイヤーの会社にいい位置を用意するという。彼はライネンの仕事や生活を調べあげていて断るはずはないと思っていたが、ライネンはきっぱりと断る。

陳述書を朗読するライネンに迷いはなかった。【・・・だが今日、自ら発言しながらはじめて、問題ははっきり別のことだと思い至った。問うべきなのは、虐げられた人のことなのだ。】
コリーニはマイヤーを過去に訴えたことがあったが、時効で訴訟手続きを中止された。保守派の弁護士から官僚になった男が時効期間を短くしていたのだ。
陳述の後でコリーニはライネンに言う。
【うまくいえないんだけどね、ライネンさん。おれたちが勝つことはない。それだけはいっておきたい。おれの国に、死者は復讐を望まない。望むのは生者だけ、という言葉がある。このところ毎日、収監房のなかでそのことを考えているんだ。】
(酒寄進一訳 東京創元社 1600円+税)

読書の秋だ!!

スティーヴン・ダルドリー監督の映画「めぐりあう時間たち」を久しぶりに見たら、原作を読んでないのに気がついた。
さっそくマイケル・カニンガム「THE HOURS―めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」をアマゾンに注文したが、安い中古本があって助かった。
今日はジュンク堂でヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」も読まなくちゃと文庫本を探したのだが見つからず、帰ってからまたアマゾンに注文した。来週(もう今週ね)のお楽しみである。読んだと思い込んでいたが映画を見て読んだつもりになっていたのだ。ヴァネッサ・レッドグレイヴのダロウェイ夫人がよかった(1998)。

久しぶりのジュンク堂なのでぶらぶら本棚を見ていたが、サラ・パレツキーの「ナイト・ストーム」を友だちにあげたのを思い出して買った。ついでに、ずいぶん前に評判だったフィリップ・J・デイヴィス「ケンブリッジの哲学する猫」が目についたので買った。買うつもりだった本(数カ月前に発行された北欧もの)のタイトルを忘れてしまい持ち越しに。

今日は夏のはじめに買ったフェルディナント・フォン・シーラッハ「コリーニ事件」(東京創元社)を持って歩いてた。一度読んで感銘を受けたんだけど感想を書いてなかった。暑くてアタマがまわらなかったのだ。
シャーロック・ホームズでギネスとご馳走を食べながら読み出したら二度目なのに引きずられて2時間読み続け。帰ってからも読み続けて読了。

スティーヴン・ダルドリー監督『めぐりあう時間たち』

「めぐりあう時間たち」(2002)をはじめて見たのは2004年で、なんとテレビで見ていた。<a href=”http://kumiko.sgy3.com/blog/2004/12/post_622.html”_blank”>文学少女の生き方「めぐりあう時間たち」</a>。
それから9年近く経ったが、その間にビデオで2回見て、今日はT氏に貸していただいたDVDで4回目を見た。しみじみよかった。

1941年のイギリスのサセックスで入水自殺したヴァージニア・ウルフを、ニコール・キッドマンが入魂の演技でやっている。疲れ果てた表情で「ダロウェイ夫人」を書いているシーンや考えているシーン。その時代に女性が作家であることの大変さが夫と女中たちとの日々の暮らしをとおして描かれる。
子どもたちを連れて会いに来ていた姉が帰るとき、ヴァージニアはきつく抱きしめて唇にキスをする。

1951年のロスアンゼルスの中産階級の家庭で、ローラ(ジュリアン・ムーア)は傍目には幸せそのものだ。小さな息子がいて次の子を妊娠中。夫はローラを少女時代から知っていて、内気な彼女を自分が幸せにしたいと思ってきた。ローラが朝起きてこなくても文句を言わない。ローラのベッドには「ダロウェイ夫人」が置いてある。
近所に住むキティが訪ねてきて入院するからと犬の世話を頼む。ローラはキティを抱きしめてキスをする。なにげなく帰って行くキティ。ローラは息子リチャードを預けて車でホテルに行く。ここで薬を飲んで死のうと思ったのだができなかった。
ローラはその後、女の子を生み、その後に家族を置いてひとりで家を出た。

2001年のニューヨーク。名の知れた詩人のリチャードはエイズに罹って不自由な生活をしている。ずっと彼の世話をしている出版社の編集者クラリッサ。二人は若いときに知り合ってつきあっていたが、すぐにリチャードに男性の恋人ができる。
クラリッサには長いつきあいの女性の伴侶がいて、人工授精で産んだ成人した娘がいる。その生活のかたわら、リチャードの世話をしてきた。
リチャードはクラリッサのために死なないで生きてきた。リチャードの本が賞をとったのでパーティをしようとクラリッサは張り切るが、リチャードはもう心がもたない。彼はクラリッサの目の前で窓から飛び降りる。

夜遅く訪れたのは、カナダからやってきたかつて家族を捨てたローラ、年老いたが毅然としたローラだった。

「世直しカフェ Vol.1」に参加して思い出したこと

18日の学習会の感想をいつものようにその日に書こうとしたんだけど書けなかった。今日はもう書かなあかんなと思ったが、タイトルが重くて最初からしんどい。思いついたことなど書くしかないな。

テーマ:在日朝鮮人の運動と弾圧&ナショナリズムと戦後責任
講師:朴栄致(朝鮮総連東成支部)/下地真樹(阪南大学准教授)

わたしが在日朝鮮人の存在をはじめて知ったのは小学校の6年だった。クラスで「ニンニク臭い」と言われている子がいた。そのウワサはじわじわと広がっていって、その子とつきあうといっしょに仲間はずれにされそうだった。わたしはニンニクがなにかを知らなくて、家で食事のときに父親に聞いた。そしてはじめて在日朝鮮人の存在を知った。その子はわたしが近づこうとしても離れていた。わたし自身も本ばかり読む子であまり友だちはいなかったが、それとは別の話だ。

それから10何年も経って、わたしは数人の女性たちと歴史学研究会という大層なサークルで勉強していた。講師は阪大や大阪市大の学生が代わりばんこにやっていて、堅苦しい上にヘタクソだった。あるときの講師がKで、いままでの失敗から学んで講義の方法を変えると言い、講談口調で日本史のある部分を語った。笑ったけど、わたしら勉強に来てんねんでと彼に言って旧来の講義調に戻してもらった。
彼は在日だと陰でささやかれていたが、わたしも本人もそういう会話はしなかった。彼が結婚したときは生活費の足しにとカンパをしたことを覚えている。ある夜、なんのデモか忘れたが、梅田を在日韓国人のデモの列が通っているのを見ていると、Kがプラカードを持って照れくさそうにしていた。よっしゃーと思った。
それだけのことだけど、それからもう半世紀経とうとしている。数年前に会った友人がKも死んでしもて、当時の友だちで残っているのは君と僕だけやと言った。その友人も去年亡くなった。こちらは有名人なので新聞で知った。

下地先生が「在日問題は日本人問題」だと言われた。わたしがいまも感じる歯の間にご飯粒が引っかかっているような在日問題だって日本人問題だ。

ものわすれ

昨日の夜は姉と妹と長電話した。ふたりともネットと無関係で連絡手段は電話だけである。携帯電話は持っているがメールはやらないのでしゃあない。
姉のところには1時間くらいで行けるが、独居なので雨の日など「今日はだれともしゃべれへんかったわ」と電話がかかり、その日の全行動を聞くことになる。「じゃあね」と言ってからまた近所のことなどひとしゃべり。

横浜在住の妹は息子が自閉症者でグループホームにいて土日に家に帰る。ふだんは一人暮らしである。彼女は活動家なのでしゃべる相手はたくさんいるが、本のことや原発のことなど、ひととしゃべらないことをしゃべりたい。なんせニュースソースが朝日新聞というひとなので、こちらはツイッターで仕入れたことなどとり混ぜて話す。
最後は、これだけしゃべって笑たら病気にならへんで、と馬鹿笑いして電話を切る。

今日、ツイッターにこんな一節があった。
《内田百閒bot ‏@Hyakken_Uchida
東京の最初の夜はどんな夢を見たか覚えていないけれども、翌朝、お膳に坐ってお椀の蓋を取ると、赤味噌の汁の中に唐茄子の切れが浮いていたので、こんな物が食べられるかと思っただけで胸が一杯になった。【上京】》

唐茄子がなにかわからない。いや、言葉は知っていて使ったことがあるのに、それがなにか忘れている。母親は唐茄子という言葉を使っていたよな。なにを称して唐茄子と言ってたのかしら? ありゃ〜
検索したら、カボチャのことであった。まあ、記憶力が減っていても検索したらええのや。

家事を交代

最近は二度のご飯づくりと買い物を相方がやるので、わたしはうんとラクになった。
40年くらいいっしょに暮らしているが、家事はほとんどわたしがやってきた。なんだか最初から家事はわたしがすると決まってた。遊びはいっしょにしてたのに、家事はこっちだった。母性愛というか、わたしが面倒見てあげるみたいな(笑)。
お互いに会社勤めのときも、朝ごはんを作り弁当も作って、帰りに買い物して帰ってから晩ご飯を作ってた。独立して二人で事務所をもったときは朝ご飯を食べて、わたしは片付けしてからお弁当を作り出勤して、先に買い物して帰って晩ご飯を作った。寝る前に洗濯して干していた。ずっと洗濯は夜だった。
土曜日も仕事だったから日曜日に掃除をする。まる一日休めるのは祝日だけだった。
野菜や食品の宅配を利用し出してだいぶラクになったが、魚類は毎日百貨店やスーパーへ買いに行っていた。
家に職場を移してからは家事の面ではだいぶラクになったが、膝を悪くして整骨院へ通っていても帰りは買い物してた。うちは外食を滅多にしないし、エンゲル係数が高くて買い物が多いのだ。

相方の食への関心が高くなったこともあって宅配を断った。まずは昼食を担当し、買い物も行くようになった。近隣野菜を置いている店も見つけたし、輸入食品店も何店か見つけてきた。
今年の正月にマイコプラズマ肺炎に罹ったときから晩ご飯もするようになった。
わたしはラクができてひたすらありがたい。

世直しカフェ Vol.1 に行った

日時:9月18日 19時〜21時
場所:阪南大学 サテライト
テーマ:在日朝鮮人の運動と弾圧&ナショナリズムと戦後責任
講師:朴栄致(朝鮮総連東成支部)/下地真樹(阪南大学准教授)

下地先生の告知を昨日ツイッターで読んでこれは行かねばと相方とともに行ってきた。いま考えなければいけないことがテーマだ。みんな真剣に聞いていた。質疑応答もまじめだった。わたしはひたすら聞くばかり。
いま感想を書こうとしているのだが難しい。レジュメをもらって話を聞いてメモをとったが、まだ全然こなれてない。うーむ、なるほどと思うばかり。

在日朝鮮人の運動と弾圧について、朴栄致さんは静かに話されたが、状況はますます厳しくなるだろう。

ナショナリズムについての下地先生の話で、いままでまともに考えたことがなかったナショナリズムについて、考えるきっかけを与えてもらった。

今日はこれだけしか書けないな。

VFC会報終って、「モジ放送、勾留取消お祝い」

考えることがいっぱいあるが、まずはヴィク・ファン・クラブの会報作りをやってしまわねば。台風の連休はやる気がなくてさぼり、夜になると映画が見たくなり、本も読みたくなり。なんでファン・クラブをやっているのかを根本的に問わなくてはいけません(笑)。

昨夜プリントしていたら黒のトナーが切れて、これは用意してあったのを入れ替えした。そのあとマゼンダがなくなるとまた表示があり、夜中だけど忘れないうちにとネット注文した。コピー機のトナーもお知らせマークが出て用意してある。コピー用紙や封筒や糊や、小さい仕事だけどいろいろと品切れしないように気を使う。使わせてもらうメールへお願いやら返信やら、出来上がった会報にはいろいろと雑用がつまっている。
原稿もイラストも写真もみんな会員の手になるもので楽しい。
出来上がった会報を見るとやっぱり楽しい。

今日は、〈反原発運動への大弾圧「11.13此花区民ホール『指名逮捕』事件」の最後に残されたUさんに、史上初とも言える「勾留取り消し=無条件解放」を大阪地裁が認めた。〉という快挙があった。そのことについて、下地さんの「モジ放送、勾留取消お祝い」が11時30分ごろからある。これアップしたらちょうどよい時間だ。

スティーヴン・ダルドリー監督『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

「リトル・ダンサー」(2000)「めぐりあう時間たち」(2002)「愛を読むひと」(2008)に続く「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(2011)。この4本でスティーヴン・ダルドリー監督の映画を全部見た。
映画の前はずっと舞台の仕事をしてきて、ロンドンオリンピック・パラリンピックの開会式・閉会式の総合プロデューサーをつとめたそうである。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は9.11で父親を失った少年の物語で、同名の原作(ジョナサン・サフラン・フォア NHK出版)の映画化。
「リトル・ダンサー」の少年が素晴らしかったが、今回もよかった。

オスカー(トーマス・ホーン)は9.11アメリカ同時多発テロで最愛の父親を失う。自分に閉じこもったオスカーは父(トム・ハンクス)のクローゼットで小さな花瓶を落として壊してしまう。その中に封筒に入った鍵があった。封筒に〈ブラック〉と書いてあったのをヒントとして電話帳でブラックという名を調べ、一人ずつ訪ね歩く。
母(サンドラ・ブロック)との間に溝ができる。近くに住む祖母とすこしつながりがあるのだが、ある日、祖母の謎の同居人(マックス・フォン・シドー)と出会う。同居人は話すことができないので筆談しながら二人は街を歩き〈ブラック〉さんを捜す。二人旅でお互いを知っていくところがよかった。オスカーは謎の同居人は祖父ではないかと推理する。

とにかく少年が可愛くて賢くて一生懸命で素晴らしい。母親はどうするかと見ていたら、とても素晴らしい母なのであった。
最初の〈ブラック〉さんが連絡してくれて、彼女の別れた夫を訪ねるのだが、そのエピソードもよかった。とにかく真面目な映画だった。